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悲しむべきときに茶化さず「ちゃんと悲しむ」ということ

今週、20年来の親友であるNっちとランチしていました。

Nっちは、最近私が書き始めたこのnoteを読んでくれていて「カウンセリングの調子はどお?」など色々聞いてくれるので、「いや〜トラウマ治療ね〜すごいよ〜」とあれこれ話したりしました。

▲トラウマ治療の時の話はこちら

美味しいものを近所で食べました


「私さー」
パスタをつつきながら伏し目がちに話すNっち。
「なめちゃんのお父さんの武勇伝、これまでも色々聞かせてもらってたけど、『大変なんだろうけどファニーなお父さんだな〜』くらいの認識で、なめちゃんって結構なDV受けてたんだなっていうのをnote読むまでよくわかってなかった。なめちゃんと20年付き合っててもわかってなかった

そうなんですよねこれ。
これは私の問題で。
私のように、酒乱・DV・モラハラ・借金癖などなど「困った親」がいる人のあるあるだと思ってるんですけど、まー友達に家族のこと話す時ってだいたいある程度「エンタメ」として話せるようにファニーでファンキーな親像に寄せて話しますよね。じゃないと重すぎて。

だからNっちが私の父のことを「ファニーなお父さん」と過小評価(?)してたのは至極当然のことで。だってそう聞こえるように話していたんだから。

それでまーこれもあるあるだと思うんですけど、「そういう親」がいる私たちは、可哀想がられることをよしとしません。「大変だったね…」と深刻そうに言われても「いや〜まぁ貴重な体験させてもらえて今となっては感謝してるけどね⭐︎」とかなんとか言って平気なふりをして笑い飛ばしますし、できれば何でもないことのように相手にも笑い飛ばしてもらいたい(でもここらへんは個人差が大きいかもしれません)。

でもねー。最近はそれじゃだめだったんだなって思うようになりました。

いや、正確に言うと「だめ」ではないんです。
なぜならその時は、そうやって「事の大きさをまともに食らわない、受け止めない」ことで自分の心を防衛していたわけだから。そうやって茶化したりなんでもないことのように装ったりすることでしか、自分を保てなかったから。
それに親友だからといって甘えて、自分でも持て余すようなものを何でもシェアするわけにもいきません。

父との関わりの中で刷り込まれた、未だに後遺症のように残る不具合はいろいろあって、例えば「自分は醜く、取るに足りない、価値のない存在である」という思い込みが抜けない、とか。「周囲の人に父親を投影してしまい、父と失敗した関わりを再挑戦しようとしてしまう」とか(心理学用語で『トラウマの再演』と呼ばれるやつですね)。

そういう不具合の数々を減らしていくためにカウンセリングに通っているのですが、通い始めてびっくりしたことがあって。

それは「カウンセラーに話す時って、友達に話す時みたいにトークを『エンタメ』に昇華させなくていいんだ!『こんな話、重いし退屈だよな…』とか『これ前も話したのにまだこだわってるの聞かせて申し訳ないし情けないな』とか気を遣わず、ありのままの感情を話していいんだ!」ということで。

一度ね、カウンセリングから帰った夜に、お風呂の中で大泣きしたことがあったんです。それは10年以上前、父と絶縁するきっかけとなった最後の会話の暴言がフラッシュバックしたからなのですが。

カウンセリングで心を充分解きほぐした後だったからでしょうか、その時「お父さん酷いよ〜〜そんなこと言わないで欲しかったよ〜〜そんなこと言うなんて悲しいよ〜〜〜〜!!!!!お父さんのバカ!!!!」という、すごく素直で感情的な怒りと悲しみが突然ブワッと湧き上がってきたんですね。

父のことに関して、そんなに素直な感情が出たのは、実は生まれて初めてだったんですよね。
めちゃくちゃな親を持つと、子どもと親の立場は精神的に逆転して、自分のことでいっぱいいっぱいな親の話を聞いたり面倒を見たり。いわゆるアダルトチルドレンの状態ですが、「お父さん、そんなこと言うなんて酷いよ〜!」なんて子どもらしい素直な言葉を、子どもの立ち位置から発することはできません。

父の暴言には幼い頃から慣れていましたし、たくさん傷ついて涙を流してきたけれど「酷いよ〜!悲しいよ〜!」という感情をまともに味わうと精神が死ぬのでいったん冷凍保存して、「お父さんはどうしてこういうことを私に言うのかな。今日仕事場で嫌なことがあったから八つ当たりかな。おじいちゃんも酒乱で、おじいちゃんから酷い目にあわされて育ってきた人だから、こういう接し方しか知らない人なのかな」と、「感情」ではなく「思考」で処理する癖がついていたんですね。

そうすると、冷凍保存して行き場をなくした感情はどんどんどんどん自分の中に蓄積していきます。
私、普段わりと喜怒哀楽がはっきりしていてエモーショナルなタイプだと思うのですが、親のこととなると感情にフタをして、ちゃんと見ないようにしていたようです。それに全然気づいてなかった。

心理学の世界では、感情って味わえば味わうほど、向き合えば向き合うほど、吐き出せば吐き出すほど、早く癒されて処理されていくとされています。フタしたり誤魔化したりすると長くこじらせちゃうんですね。

カウンセラーの先生に自分の気持ちを、茶化さず、エンタメにせず、毎回涙でぐしゃぐしゃになって、嗚咽して、同じ話をしつこくぐるぐると何度もして、気が済むまで聞いてもらううちに、ものすごい勢いで心が回復していくのを感じて驚いています。

まさに
「言える」は「癒える」、「話す」は「放す」
なんだなぁと。

誰かに面白おかしく聞いてもらおうと加工した話じゃなくて、自分を納得させようと理屈で固めた思考でもなくて、自分のやわらかな心から飛び出した感情的で素直な、取り繕わない言葉。そんな言葉や感情が自分の中にあることを自分に許すこと、認めること、それを誰かに聞いてもらって外在化すること、それらがこんなにも自分を癒してくれるなんて。

あぁだからそのために古くから、懺悔を傾聴してくれる神父さんや牧師さんがいるんだなぁ…と、そんなことも思います。

カウンセリング、ほんといいですよ。
別に心が大変なことになってない人でも、美容室やネイルに行く感覚で誰でも気軽に行くといいのにな、って最近よく思います。

こうして私が考えていること、うまく伝わるかなあと思いながら、いつも迷いながら書いています。
必要な方に必要なタイミングで届いたら嬉しいです。

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