見出し画像

読書感想 『一心同体だった』 山内マリコ  「1980年・日本生まれ・女性」

 男子は子どもだ。

 そんな言葉が学校などで広く使われているのかどうかは、よくわからない。

 だけど、自分が歳を重ねるほど、特に高校生くらいまで、女子がどれだけいろいろなことを考えているか、男子がこんなに何も考えていないのか。といったことには嫌でも少しは気がついて、男子は子どもだ、男子はバカだ、といった少し遠くから聞こえてきたことは、本当だと改めて思うようになる。

 女性同士の友情、といったことが描かれていると思いながら読み始めた。

 表紙も、女性ばかりがいるような、繊細な刺繍で表現されている作品が使用され、しおりもベビーピンクで、読み始めると、最初は1990年。10歳の小学生女子が、友達関係の難しさに日々気持ちをとられそうになっている話から始まる。

 こういう複雑さは、少なくとも自分が小学生男子だった頃にはわからなかったし、それから、中学生、高校生、大学生と、それぞれの時代に主人公がかわっていきながら、時代も進んでいき、社会に出て働くようになっていき、もちろん女性同士の気持ちの交流が描かれ続けるのだけど、読み進めていくと、その印象は、以前読んだ作品と少し重なっていった。

 昭和生まれの男性である私には本当の意味でわかるわけもないのだけど、でも、男子が子どもでいられたのは、また、場合によっては大人になっても幼いままで許されている部分があるのは、「男子」や「男性」は、あまり考えなくてもいいように社会が出来ているからだった。

 そういうことも改めて思えた作品だった。


『一心同体だった』 山内マリコ

 7編の短編で構成されている。

 それぞれの作品は独立しているが、例えば1の作品の中で主人公の「ともだち」として描かれていた女性が、2では主人公として、別の「ともだち」のことを語る。さらに、3では、2で主人公が話していた「ともだち」が主人公になる。(ロンド形式の連作短編、というそうだ)。

 だから、次々と主役がかわっていくので、結果として多様な女性の内面が語られていくことになる。

 共通しているのは、主要な登場人物がすべて作者・山内マリコと同じ1980年生まれ、という設定で、「1990年 10歳」「1994年 14歳」「1998年 18歳」「2000年 20歳」「2005年 25歳」「2010年 30歳」「2014年 34歳」「2020年 40歳」と、それぞれの時代が描かれている。

 そのために、その時代ごとのアイテムや文化-------「写ルンです」「ミクシィ」「ヨガインストラクター」「エビちゃん」「就職氷河期」「マッドマックス」「ツイッター」などが、自然に登場していて、それは、その時代に生きていれば、なつかしさを呼び、作品のリアリティも増していくのだろうと思った。

 こうした連作では、最後に最初とつながるような仕掛けがされていて、それは、それぞれの登場人物が、ただ視界から消えるのではなく、おそらくは違う場所で生きている、というような実感を生じさせる意味でも大事だと思えたのだけど、それより改めて思うのは、やはり「女性」を生きづらくさせている社会のことだった。

 そんなふうに男性の私が偉そうに語る資格はないのかもしれないけれど、それでも、1980年生まれの女性が生きてきた、特に1990年代からの30年は、戦争などの直接的な被害はなかったから、いろいろな見方ができるとは思うけれど、でも、過酷な30年だと改めて感じられた。

 それは、年齢を重ねて、どうしようもなく変わっていくという、生物としての衰えといった変化だけではなく、女性というだけで、社会が背負わせているさまざまな社会的な負荷のようなことまで、考えさせられたからだった。 

ある少女の死 2005年 25歳

 これは、5つ目の短編のタイトル。
 主人公は高田歩美。

 大学時代は、映画部で、北島、という親友に出会って、無敵と思える時代があって、だけど、現在はその文化的な教養を持て余すようにビデオショップの店員として働いている。

 あたしはミクシィをはじめるとすぐにハマって、家にいるときはノートパソコンにかじりついた。 

(『一心同体だった』より。以下、引用は同著より)

 そこで、自分と似たような趣味嗜好を持っていると思われる人たちの存在を知る。

 ウェス・アンダーソンの映画を愛しているのは、世界中であたしと北島と、中原昌也の三人だけだと思ってた。

 だけど、その交流が続くほど、そのズレも大きくなっていく。

やっぱり北島にしか通じないんだ。北島じゃないとダメなんだ。

 以前は、北島と一緒に生活していた。今は、もっと現実の社会に適応しようとしている「美人」と暮らすようになった。そのときに、改めて、部屋にあった写真を見返す。

 大量の、北島のスナップ写真をあらためて見て、あたしははっとした。たしかにこれはもう、完全につきあってたんだな、あたしたち。
 大学時代、あたしたちはたくさん写真を撮った。

 だけど、時間は経つ。それは、若くなくなっていく、ということでもある。

 もう九〇年代じゃないんだよ。
 時代も変わったし、北島も変わった。
 高田歩美、あなただってもう、変わっていいころなんじゃない?
 言われなくてもあたしは、すでにそっちに転びかけてる。
 正直、もう新しい音楽が鳴っても心を動かされない。新しいものは、もうそんなに欲しくない。次から次に現れる、前髪で目を隠した繊細な天才少年たちのかき鳴らす痛々しい音楽を、最後まで聴きとおすことすらできない。 

北島も遠い街で、もう特別じゃなくていいって思ってるみたい。

(『一心同体だった』より)

エルサ、フュリオサ  2014年 34歳

 これは7つ目の短編のタイトル。

 主人公は、小林里美。この世代の大学生は、就職氷河期だった。

 就職活動していた二〇〇一年、みんな内定事情は死屍累々といったありさまだった。猫も杓子も茶髪の時代、泣く泣く髪を黒く染め、没個性の塊みたいな悲惨な格好で都内をかけずりまわった。百社受けてる子なんてザラにいたし、履歴書の自己PR欄を埋めるため、自分に向き合いすぎてメンタルを病む子も続出した。面接に進めたら天にも昇る心地だった。それでも内定はなかなか出なかった。
 あのとき、未来の扉は私たちの目の前でピシャリと閉ざされていた。私たちは社会にまったく歓迎されていなかった。リストラに大騒ぎしつつも、親世代にあたる団塊世代の雇用を守る形で、若い私たちが割を食わされたのだった。

 だからまさか、自分が通信業界の大手からするっと内定をもらえたときは、喜びより先に、困ったなと頭を掻いた。 

 そして、仲間はそれぞれ違う道を進んでいく。

 それは、生まれてはじめて味わうタイプのさびしさだった。クラスが分かれたり、違う大学に行くのとは訳が違う。ああ、これが人生なんだなと思った。
 人生は、友達とは一緒には進めないんだ。

 就職した会社の給料は良かった。確実に高収入の側の人間になった。だけど、居心地がいいわけではない。

 ここにきれいにしてる女がいますよ、というアピールを服装でしないと、存在を認識されない。面と向かったセクハラ以上に、無意識にこちらを女として値踏みしてくる視線や態度の方に、小さく何度も傷つけられた。
 仕事は楽しいけど、会社にいることは窮屈だった。

 独身であるというだけで受ける、さまざまな理不尽なプレッシャーは、2010年代でも健在で、そして、その頃に東京の本社から地方支店の営業に回されることになった。本人にとっては、不本意そのもので、早く東京に戻ることしか考えられないような場所だった。

 その年の年末年始は実家に帰らなかった。地方に転勤になったことを、親に面と向かって説明するのが面倒だし、新卒採用を逃した兄はほぼ引きこもりの状態で、私が高収入なのを妬みまくって、この十年すごく仲が悪い。兄は私の転勤による都落ちを知ったら、腹の底から笑うだろうな。親も親で、早く結婚しろとか、孫がどうこうとか、顔を合わせたらなにを言われるか。考えると憂鬱しかない。実家には絶対近寄りたくない。

 でも、大島さんという、とても有能な女性社員に出会うことになる。

 こんなに仕事のできる人、本社にだってそうはいない。
 考えれば考えるほど、なんでこの人がこんな街にいるんだろうと思ってしまう。

 だけど、その営業成績は、この有能な女性が一人で奮闘して獲得してものだってことを、誰も知らない。会社が知ったところで、給料に反映されない。そういう組織図なのだ。直営ではなく、彼女はこのエリアをカバーする販売代店事業に特化した一次代理店が、さらに展開する二次代理店の一社員にすぎない。さすがに契約ではなく正社員だろうけど、それでも彼女がどういう待遇で働かされているかを考えると怖くなる。月に手取りで二十万、もらえている気がしない。
 というかこの私が、彼女の何倍もの給料をかすめ取っているのだ。
 これまで自分の給料は、私の努力に見合った金額なんだ、私はそれだけの仕事をしているんだと疑ったことはなかった。けどそれは思い上がりも甚だしく、私の給料は、大島さんみたいな人をスポイルして、割増しされた結果であって、自分の力なんてまるっきり関係なかった。ただ本社に総合職で入れたから、いい給料を割り当てられてるだけ。ラッキーだっただけ。

 そんな話を大島さんに言えるはずもなく、若くして結婚して子どもが出来て、そして辞めていく女性社員のことを話すと、こうした反応が返ってくる。

「ぶっちゃけうちみたいな会社は薄給の女性社員を使い捨てることで成立してるんで。それ本人たちだって、子供産んだあともこの仕事をつづけたいとは思ってないと思いますよ。子育てしながら働きたいような職種ではないですし」  

(『一心同体だった』より)

 この二人が一緒に見た映画が『マッドマックス 怒りのデスロード』だった。友達になりたくて、そのことすら言えないまま、小林里美は、東京に戻ることになる。

会話とつぶやき  2020年 40歳

 これは最後の8編目のタイトル。
 主人公は、7編目で有能な女性と言われていた大島絵里。

 片田舎の店長職に就いているくらいで、いっぱしの働く女ぶっていた私の自尊心は、一流大学を出て、東京の一流企業で働く同い年の女性を前に、粉々に砕け散った。そんなバリキャリ、生まれてこのかたテレビドラマの中でしか見たことがなかった。

 私たちは不思議とよく似ていた。髪型も背格好も。出会った瞬間から親友になることを運命づけられている女の子二人組みたいに。

 私はロッカールームで、「××さんて最近、〝バリキャリ〟のファッション真似してない?」という陰口を聞いた。そんなつもりはなくても、彼女の存在は私のちっぽけさを否応なく照らす。どれだけがんばって働いても、彼女のような地位にはいけないし、彼女のようには稼げない。

 そう思うとプツンと糸が切れて、子供に逃げ出したくなる女の気持ちが痛いほどわかった。

  妊娠したあと、つわりがひどいこともあって、仕事を辞めた。

 仕事はやりがいがあったし性にも合ってたけど、所詮は田舎の中小企業で、体質はうんと保守的だから。おじさんたちは女を安くこき使えるコマだと思ってる。だんだん法律が整備されて、女を使い捨てられなくなったことを、あの人たちは心底迷惑がっていた。

 お上が言うなら仕方がないと、しぶしぶ女を昇格させたり、育児休業制度を整えたりするけど、子供を産んでも仕事を持っていたい女に吐く嫌味や苦言のストックは、無限に用意しているようだった。 

 私が退社する噂が広まって、前に一緒に仕事に仕事したことのある本社の人が、わざわざメールをくれたのには驚いた。「××さんが仕事やめるなんて国の損失です!」なんて、ずいぶん大袈裟なことが書いてあって笑った。

 皮肉なことだ。東京の本社からやって来たこの女性と出会ったことで、私のなかにかすかにくすぶっていた、結婚や子供に対する欲望に、火がついたというのに。

 大島は、子どもを育てる生活を続け、追い込まれながらもツイッターで同志とも言える女性と知り合うことができた。その女性と会って、話をしている時間だけは、自分が解放されていると感じられる。

 夫の前では大リーグ養成ギプスをつけてる私が、相互さんの前ではそれを外してのびのびと、なんの抑制もなしにボール投げてる感じ。大谷翔平なみの豪速球を、私たちはアハハハハ〜と笑いながら投げて打ち合う。 

 セクシャル・ハラスメントとオバタリアンではじまった平成が、援助交際とドメスティック・バイオレンス、アラフォー、女子会、イクメンとマタハラ、そして保育園落ちた日本死ねを経て、#MeTooと#KuTooで幕を閉じようとしている。

 平成という時代は、約30年で、この作品が描いた時間も、その時代と重なっている。

 三十年は、人一人が歳をとって、なにかを学んだり、忘れたりするには充分な時間だけど、社会の進歩って意味では、この程度のもの。変えろ!とドアを叩く女性たちを、おじさんたちがのらりくらりと阻みつづけてる。妻が作った飯を食いながら。

(『一心同体だった』より)


 平成から令和へ元号が変わって、すでに5年が経った。

 だけど、新しくなった時代は、ほぼコロナ禍で覆われ、さらに沈んだ気配しかなかった。これからどうなるのか、まだ何もわからない。


 女性はもちろんですが、特に昭和生まれの男性ほど読んでほしい作品でした。私もそうでしたが、今後生きていく上で、社会の見方への解像度が少しでも上がるように思います。


(こちら↓は、電子書籍版です)。


(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#推薦図書 #読書感想文 #一心同体だった #山内マリコ #小説 #平成
#短編集 #友達 #女性 #非正規 #毎日投稿 #読書  

この記事が参加している募集

#推薦図書

42,703件

#読書感想文

191,340件

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。