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映画『ロストケア』批判。(前編)。

 予告編を見て、嫌な予感はしていた。

「ロストケア」という言葉。症状が重くなって、介護するのが大変になった人を殺めることに、フィクションとはいえ「ケア」という言葉を使われるのは、やっぱり嫌だった。

 しかも、その「ロストケア」をおこなう人間を、松山ケンイチが演じるのだから、とても説得力を持つのだろう。

 それも、なんだか嫌だった。

 松山が、引きこもりの人を演じたドラマを見ただけでも、俳優としてすごいのは、それほど演技に詳しくない人間でもわかる。

 さらに、ドラマ『エルピス』でも、アナウンサーを本当にしていたのではないか、と思えるような発声方法も身につけていて、何より、正義感と良心と保身と怯えや不安や依存や情欲に、あれだけ翻弄されながらも、大きな目的をかろうじて見失わなかった役を演じた長澤まさみと初共演するのだから、質の高い映画になりそうなのは、わかる。

 だから、フィクションとはいえ、この犯人の言うことにも一理ある。この映画が、いい映画だった場合ほど、時間が経って、そうなりそうで、嫌な気持ちになったのは、自分自身が、介護に関わっていた、元・家族介護者で、今も介護者の支援に細々と関わっているせいだった。

 それは、偏見の一種の可能性もあるし、元・当事者だからといって、個人的な経験をしたに過ぎず、その感覚が、全面的に正しいと言うつもりもないけれど、「ロストケア」を見終わって、無力感と共に無念に思ったのは、家族介護者という存在、というよりも、家族介護者の気持ちというものへの理解が、まだ全然進んでいないことだった。     


(※ここから先は、「ロストケア」の映画の内容にも触れます。映画未見の方で、何の情報にも触れずに映画を見たい方は、ご注意くだされば、ありがたく思います)。






専門家の言葉

 映画の冒頭に近い、介護の専門家の言葉

 現時点で、厳しい介護状況に辛い思いをしている家族介護者に対して、専門家しかいなくて、本人には届かない移動中のクルマの中とはいえ、「あの人、限界だよね」という言い方。それは、とてもリアルで、それだけ演じる人がすごいのだろうけれど、あの距離感と、微妙に上からの感覚は、黙っていても感じることで、もちろん、そうではない優れた介護の専門家はいたとしても、そうした間違ったベテランの気配は嫌だったことを思い出した。

 そして、そうした厳しい介護状況の中で、介護を受けている高齢者が急に亡くなる。

 そのことに関しても、「ぽっくり逝って、よかったんじゃない。ほっとしたでしょ」と、家族介護者の思いを推測する言葉を、語っていた。

 そうした専門家の、ベテランであればあるほど陥りやすい一面。家族介護者への「わかったような」言葉が、自分が介護をしていた時に、直接は聞かないときでも、どれだけ嫌だったかを、やはり思い出す。

 だから、そういう意味でも、冒頭から、とてもよくできた映画なのだと感じた。

相模原障害者施設殺傷事件

 この映画には原作がある。

 2012年に、第16回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した作品だった。

 選考委員の中には、傑作と称する人もいて、ミステリーは、よく人が死んだりがするので、そういう意味では大量殺人の方がインパクトも強いのだろうし、なにしろフィクションだから、という見方ができる。

 だけど、現実には、2016年に「相模原障害者施設殺傷事件」があった。

 だから、2023年に、原作を読んで、この「ロストケア」の中で、救いという言葉を連発する犯人の印象は、メディアを通してしか知らないが、相模原障害者施設殺傷事件の犯人の言葉と似ていた。

「事件を起こしたことは、今でも間違っていなかったと思います。意思疎通のできない重度障害者は人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在。絶対に安楽死させなければいけない」

(「カナコロ」より)

 ここまで露骨ではないけれど、「ロストケア」原作での犯人も、同じようなことを語って、だから、殺人も救いになると主張する。

 そして、「相模原障害者施設殺傷事件」で、とても怖いと思ったのは、こうした犯人の主張に一理ある、という言葉を、個人的には、ごく普通の、私よりも常識のある一般の人から聞いたりしたことだった。

事件後、インターネットの掲示板やツイッターには「正論だ」「障害者はいらない」といった植松被告の主張に同調する投稿があふれた。その状況は変わらず、今も静かに増殖を続ける。彼のもとには週に10通ほどの手紙が届き、最近は賛同する意見や不自由な暮らしへの激励がほとんどという。

(「カナコロ」より)。

 もちろん、現実と、フィクションとは違う。

 だけど、こうした事件があって、こんな影響があった後に、「ロストケア」を映画化するのであれば、こうした「優生思想」に与するような現象をどれだけなくすか?エンターテイメントとはいえ、「社会派ミステリー」という言葉があるのだから、そこには気を配るべきだと思った。

 映画になり、現実の、それも優れた俳優が演じるほど説得力が増し、だから、いい意味でも悪い意味でも影響があるのだから、責任はあると思うし、逆にいうと、原作にあまりにも忠実だと、とても危険な映画になるのでは、と思い、気が進まなかったけれど確認もしたくて、恵比寿まで出かけたのだった。

介護の場面

 素直に、すごいと思い、そこにいるかのように没入できたのは、介護の場面だった。それだけ、演じている松山と、柄本明が、それだけの演技を見せてくれている、ということだと思う。

 息子である松山ケンイチが、父親である柄本明を、あまり広くないアパートで、一人で介護をしている。

 認知症を患ってしまったので、どんどん目が離せなくなり、だから、息子の松山は、働きたくても働けなくなる。

 私自身は、ここまでハードな介護をしたことがない。自分の母親と、妻の母を介護したけれど、それは妻と一緒に取り組めた。19年間、介護をしたが、それでも幸いにも、症状がここまで悪い状況は、長く続かなかった。
 それでも、専門家も含めて、周囲の無理解で囲まれて、とにかく迷惑をかけるな、といった言葉だけを投げかけられた、この世とは切り離されて孤立したような時間を、やっぱり思い出した。

 それは、映画の中で表現された、「穴」の中で、もがいていた時間だったのだろう。

 映画の中で、父親の柄本明が、お茶をこぼしただけで、息子の松山は叩いてしまう。気がついたら、手が出てしまうあの感じも、とてもリアルで、でもそれは、日常的な感覚(この映画で言えば安全地帯)からでは、理解できないと思う。

 それでも、あれだけきちんと介護した斯波(松山)は、本当にすごいと思う。フィクションとはいえ、「困った人に、つい手を差し伸べてしまう人」に見えた。もしかしたら、こうしたハードな介護を、3年もしているうちに、だんだん「手を差し伸べる人」になってきたのかもしれない。

 父親が徘徊して、必死で探し回って、見つけた父親に、そっと上着を着せるシーンは、この状況で、これだけ優しくできることに、観客として、涙がでそうだった。
 毎回、食事を用意し、なるべく押し付けがましくならないように補助をしたり、時々、話が通じる時には、昔のアルバムを見せて、過去の楽しい思い出を語り合ったりもしていて、とても適切で、細やかな介護をしていて、介護者として敬意を感じさせるほどだった。       

社会の「穴」

 そして、この父親の介護をするために、ずっと目を離せないから、家にいるしかなく、だから、実質上、働けなくなり、それで、かなりの逡巡のあとに、やっと申請した生活保護も、窓口でとても冷たく拒否をされる。
 
 それは、窓口の人に全部の責任があるわけではなく、システムの問題でもある。こうして、より追い詰められていくことは、のちに、斯波(松山)が、社会に穴がある。そこで、苦しんでいる人を、この社会は助けない。といったことでもあり、ずっと放置されているのも事実だと、本当に思う。その放置のされ方については、介護者としても、支援者(自分の無力さもあるが)としても、ずっと怒りが抜けない。

 そんなとき、柄本明が演じる父が「殺してくれ」といった切実な話を始める。それは、日常であれば、賛同しないのは当然だとしても、こうした「穴」の中であれば、他に選択肢がないような気になっても仕方がない。

 こうして介護を続けているのは、ずっと揺れる小さい船に、父親と一緒にいて、24時間、365日、気が抜けない時間が続いているようなもののはずだ。家族介護者を最も追い詰めると言われている、いつ終わるか分からない永遠性はちょっとわかりにくかったけれど、でも、心神喪失までいかないかもしれないけれど、その一歩手前の心神耗弱の状態が日常化しているのが、介護者。だと思うので、その状態が、本当によく出ていたように思う。

 だから、殺人は罪ではあっても、もう少しでも適切な支援があれば、そこにはいかなったのは間違いない。つまりは、この時の斯波(松山)は、「父親を殺す状況に追い込まれた」と言ってもいい。

 そして、結果として、父親を殺してしまう。その場面は、映画の最後に描かれていて、とても、辛く、悲しい、ちょっと息苦しくなるような時間だった。

納得のいかない設定

 それだけに、映画のストーリーとしては、ここからの斯波(松山)が、大量殺人に向かっていく設定に、納得がいかない。

 最後は殺人にまで追い込まれたとしても、ここまでの介護ができる介護者と、それ以降「救う」という傲慢な表現を使って、他人の家族の介護に介入し、大量殺人をする介護士とは、まったく結びつかない。

 もちろんフィクションだから設定は自由かもしれないが、それでも、この介護者が、認知症の人を殺めていくような大量殺人者になるのは、とても無理がある、と思う。

 私も、介護をしていたり、母親を亡くしたりして、周囲は全て敵だと思っていたことがある。だけど、そうした敵意は、医療ミスとしか思えないことをした医者に対してであり、私が病院で母親をみていて心房細動の発作を起こしたとき 大丈夫ですか?の一言もなかった看護師であり、小さい嘘までついて本来は義務ではないことに従わせようとした行政関係者であって、決して、介護をしている人や、介護を受けている人ではなかった。

 そんな人たちを、殺せない。

 あれだけの介護をした人が、そのあと、どれだけ追い込まれたとしても、他の介護者が、魂を削る想いをして介護している相手を、勝手に奪うことはできないと思う。それは、フィクションだからといっても、あまりにもおかしい。

 それは、介護者の気持ちが理解されていないことが、ストーリーとして、形になっているように思えたし、この介護者が、父親への犯行がばれなかったとしても、「ロストケア」などという言葉で、大量殺人を正当化する人間になるという設定自体が、私には、この映画の中の表現を借りれば「安全地帯」にいる人間の発想だと思えた。

 とてもハードな介護の時間を経験し、介護を受けている家族に対して「死んでほしい」といった気持ちを本気で抱き、その上で、そこから、さらに介護を続けた介護者であれば、そのあとに犯罪を犯したとしても、「ロストケア」をする人間になるわけがない。

 個人的なことだけど、残念ながら、原作から映画化されると知って、最も変更してほしい点は、変えられていなかった。

介護殺人当事者の声

こうした“介護殺人”は、NHKの調べでは、未遂も含め過去6年間で少なくとも138件発生していた。なぜ、一線を越えてしまったのか。防ぐ事はできなかったのか。私たちは今回、受刑中や執行猶予中の、いわば“加害者”11人から直接話を聞くことができた。意外にも、多く人が介護サービスを利用していた。外からは“孤立”しているようには見えなくても、精神的に追い詰められていく実態があった。また、介護を始めてから1年以内に殺害に至る事件が頻発していた。介護をきっかけに離職せざるを得なくなるなど、生活の激変にさらされるためだ。

(「NHKスペシャル」より)

 この番組で、インタビューに答えてくれた当事者の一人は、憎くて殺したわけではない、とつぶやくように語っていた。やはり「ロストケア」のように、介護をしている家族からの嘱託殺人のような場合もあった。

 なぜ“一線”を越えてしまったのか。介護殺人をしてしまった人と、踏みとどまった人との“境界線”はどこにあるのか。取材は、その“線”を探す日々でした。しかし放送を終えたいまも、線がどこにあるのか分からないというのが、実感です。
 人の命を奪うことは、決して許されることではありません。ただ、取材をすればするほど、介護の当事者になったとき、自分は追い詰められずに介護を続けられるのか、自信がなくなっていきました。家族の介護は、ある日突然始まります。その時、自分ならどうするのか。簡単には答えの出ない重い問いを、取材を通じて当事者から投げかけられたと感じました。
 いま、番組のホームページには続々とご意見が寄せられています。今も家族の介護に直面している方々から「自分も追い詰められている」という悲鳴のような叫びが、鳴り止みません。ひとつひとつの深刻な現実に、言葉を失います。
 介護殺人の当事者となった人々は、自分たちのような事件を繰り返してほしくないと、誰にも語れなかった胸の内をカメラの前で明かしました。その思いに応えるべく、今後も取材を続けたいと思います。

(「NHKスペシャル」より)。

 NHKの取材にこたえた理由が、「自分たちのような事件を繰り返してほしくない」だった。これは現実で、とても失礼な仮定ではあるが、もしも、この当事者の方たちが、罪に問われることがないとしても、自分と同じような介護者を「救う」と称して、その要介護者の家族を殺すことは、考えにくい。

 それは、基本的には、最終的には殺人に及んでしまったとしても、こうした人たちは、その事件を起こすまでは、「ケアをする人」であり、「手を差し伸べる人」であるように思えるからだ。
 
 それがあってこそ、より「介護殺人に追い込まれた」と感じるので、よけいにやりきれない気持ちになる。

手を差し伸べる人

あわれみは自然の感情であり、それは各個人においては自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力するものであることは確かである。われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである。また自然状態において、法律や風俗や美徳のかわりをなすのもこれであり、しかもどんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないという長所がある。

(「人間不平等起源論」より)

 この場合、「あわれみ」というのは、「同情」だったり、上からの施し、といったようなネガティブな意味合いが、現代ではついてしまっている部分もあるのだが、これは、「困った人がいたら、考える前に、手を差し伸べるような人」という意味だと思っている。

 さらに、ルソーは、そうした「あわれみの人」(「手を差し伸べる人」)が、人間の社会を存続してきたのではないか、という書き方もしている。

理性によって徳を獲得することは、ソクラテスやそれと同質の人々のすることかもしれないが、もしも人類の保存が人類を構成する人々の理性だけにたよっていたならば、人類ははるか昔に存在しなくなっていただろう。 

(「人間不平等起源論」より)。

 そうした「手を差し伸べる人たち」は、困っている人がいれば、そこから去ることができず、そうした「手を差し伸べる人」たちを助けるシステムがないために、介護殺人の場合は、結果として、殺人に追い込まれていく印象が強い。

事件を起こす前

 例えば、この書籍↑に登場する「介護殺人の加害者」も、その事件を起こすまでは、かなり細やかに介護をしているように感じる。

 この書籍でも、例えば、介護をしていた妻が夫を殺してしまった事件での「加害者の言葉」。

殺人容疑で逮捕された澄子は「夫を楽にして、自分も解放されたかった」と供述した。
「取調室で若い検事さんに『他になんか方法があったやろ』と怒られた。『検事さんには私の苦しみは分からん』と言うて、大泣きしてしもうたな」

「経済的に余裕があって病院や施設に簡単に入ることができたら、助けてくれる人がいたら、違ったかもしれへん。けど、誰もそんな簡単に介護を手伝ってくれへんで。結局、私一人だった。何もできひんかったんや」  

(『介護殺人:追いつめられた家族の告白』より)

 長年、母親を介護していた娘が起こしてしまった事件。

私たちがこの事件に注目した理由は、10年以上にわたる献身的な介護生活と、殺人という結末との大きな落差だった。
 介護を長期間していれば要領もつかんでいるはずで、追いつめられることはもうないのではないかという印象があったからだ。

(『介護殺人:追いつめられた家族の告白』より)

 こうした「外」の人の言葉に接するたびに、家族介護者は、どれだけ理解されていないのだろうと思う。

 在宅介護を始めてからの約10年間、熟睡した夜は一度もなかった。旅行はもちろん、外泊もしたことがない。
 誘われて外食に出かけても、真由子の様子が気になって30分ほどで家に飛んで帰った。友人らとの交流はなくなり、交際していた木本とも別れた。 

約10分かけて判決文を読み終えた裁判長は顔をあげてさなえを見ると、こう語りかけた。
「あなたが誰かに相談したり、精神科に通ったりしていれば事件を防ぐことができたのではないかと思うと悔やまれます。これからは自分でため込まず、悩んで壁にぶつかった時に相談する相手を持ってください」  

(『介護殺人:追いつめられた家族の告白』より)

 申し訳ないのだけど、私には、この裁判長の言葉が「安全地帯」からの言葉に聞こえた。もし、そうではないと主張するのであれば、介護者の支援のシステムを早急に作るべきだと思う。この判決が出たのが2006年。それからも「介護殺人・介護心中」は減っていない。その支援のシステムは、今も十分にあるとは、全く思えない。

男性裁判官は被告人質問で、介護殺人が後を絶たない状況に触れ、その背景を竜一に尋ねた。
「できるだけ人に迷惑をかけないように生きようとすれば、自分の持っている何かをそぎ落として生きていかなければならないのです。限界まで来てしまったら、自分の命をそぐしかないのです」。 

(『介護殺人:追いつめられた家族の告白』より)

 これは、また別の事件の話だが、母を殺害してしまった息子は、情状酌量もあり、執行猶予となったが、この息子である男性は自殺してしまった。

他人事でない事件

 介護経験者であれば、おそらくは、こうした事件は他人事には思えない。

 私自身も、際どい場面は何回もあったし、そうならなかったのは、運に恵まれていたし、妻が一緒に介護をしていたから、だと思う。だから、こうして事件まで起こしてしまった人のことを、あれこれ偉そうに語るのは不遜な行為なのも間違いない。

 この書籍↑には、事件は起こさなかったが、危険な状況から、間一髪で引き返したり、なんとかやり過ごした経験が多く語られている。

 少なくとも、介護をしている人にとっては、そうでない人にとっては、かなり強い言葉と思えるこの本のタイトル自体が、とても日常的に感じるはずだ。そうしたギャップがあることは、おそらく理解されていないと思うと、家族介護者の気持ち、というのは、まだ分かられていないと感じる。

 それは、「ロストケア」の設定でも感じた。

 あれだけ厳しい介護を続ける人間は、その介護の時間の中で、「手を差し伸べる人」や「ケアする人」になっていかないと、特に長年の介護はできないし、そういう人になったとすれば、それは人格そのものになっているはずだから、「救う」などと言って、他人まで殺める人になるとは、やっぱり思えない。だけど、そういう設定を受け入れてしまっているところに、繰り返しになるが、家族介護者の気持ちが理解されていないと感じた。

 父親を介護していた日常の場面。
 介護士として、介護をしていた様子。
 検事の取り調べに、社会に「穴」がある、と強い口調で話す姿。

 これらには、少なくとも整合性があり、とても存在感が重く、説得力がある。

 だけど、この存在と比べると、法廷で、「救い」や「絆」のことを話す斯波(松山)は、どこか軽くなっているように思え、こちらの気のせいもあるのかもしれないけれど、演技に戸惑いすら感じられるのは、父親を介護していたり、介護の仕事をしていた時と、法廷で持論を展開する斯波(松山)は、やはり違う人格(というよりは別人)に感じるせいだと思う。

 さらに言えば、最終的に殺人を犯すとはいえ、父親の介護をしていた人間と、その後、「ロストケア」をする人間が、同じであることは、フィクションとはいえ、将来的には、「優生思想」を後押しすることにつながりかねないと考えられる。

法廷の叫び声

「ロストケア」のパンプレットを読むと、原作者からは、優生思想にならないようにしてほしい、といった要望が制作者へ向けられているようだった。

 だけど、斯波(松山)が、認知症が重くなった人に対して「あんなになって生きていたいですか」という発言は、完全に優生思想だし、認知症の人は殺害した方が、救いになるといった考えも、優生思想でしかない。

 原作と明らかに違うのは、大きなことでは、主役の一人・検事を女性にし、自身も後ろめたさと自責の念を抱え、長澤まさみが演じたことだ。それは、この映画をより魅力的に豊かにしていたと思う。そして、もう一つは、法廷の傍聴席で、「人殺し」と叫ぶ被害者遺族がいたことだ。

 これは、原作だと、家族を殺害された介護者は「救い」を語るだけだったので、読んでいて、あまりにも無理があると思った点で、今回の映画制作者の、できる限り「優生思想」に与しないという意図を感じる場面でもあった。

 だけど、この叫んだ介護者も、それ以前の場面では、犯人に対して、いい人でした、といった話をしていたから、とても唐突な印象になってしまったのは、残念でもあった。

 もしも、この「人殺し」と叫ぶ女性にも、「救い」を語った家族と同様に、もう少し話す時間を与えたら、印象は違っていたと思う。

 例えば、稚拙かもしれないけれど、「人殺し」と叫んだ介護者が、もし、もっと自分の気持ちを、犯人に対して話すとすれば、こんな内容だったのではないだろうか。

家族介護者からの言葉

『あの人は、自分も介護者だったのに、家族介護者を舐めてるんですか。

 いなくなってほしい、死にたい、死んでほしい。毎日、気持ちが回ってる。だけど、それは憎いわけではない。この状況が辛すぎるだけ。

 でも、その日は、死んでほしくても、次の日には、また思いが変わってる。

 年月を重ねて、介護者がどれだけスキルが上がるか。相手の変化に敏感になるか。いつまで続くか分からない、という、地獄のような苦痛と、どうやって付き合っていくか。そういうことは、いやでも身についていく。
 そんな生活をしていて、気持ちの変化があるから、もっといえば成長もしないと、介護は続けられない。3年もできない。

 今は、死んでほしくても、でも、次の時には、生きてほしいとも思う。

 家族介護者は、かわいそうな存在ですか。自分では判断できないんですか。
 介護士の方が、専門家ですか。それは、本当ですか。

 家族の介護を一人で3年もやっているのなら、専門家との違いも知っているでしょ。両方、経験しているから、余計に、偉いんですか。

 ふざけるな。

 家族介護者が、どれだけ毎日、考え抜いているか、知っているはずでしょ。毎日、介護をしているから、認知症だとしても、その相手の気持ちの変化に対して、敏感になっていくに決まってる。

 介護の専門家にお世話になっている時間以外は、全て家族がみているし、直接、介護していない時も、ずっと24時間、気にかかっているのは、わかっているはず。

 周囲の専門家に、本音がどれだけ言えないか。それに、理解されないか。その苦しさがわかるでしょ。そして、家族介護者、という、プロとは違った意味での「専門家」と言っていい人もたくさんいるのに、介護は誰でもできるなどと言われて、舐められて。

 限界を、勝手に決めないでほしい。限界は、日々、変わっていくはずなのに。

 もし、限界と思ったら、施設入所を考えるか、負担を減らす工夫をするべきでしょ。殺害するタイミングを測っているなんて、傲慢そのもので、あなたの方が上ですか。

 救い?救う?

 その言葉を出した時点で、不遜丸出しだと思う。

 誰も、誰かを救えない。

 あなたは、人殺し。

 私は、あの時もっと気をつけていれば、殺されなくても済んだのかも、という新しい後悔を抱えていかなくちゃいけない。

 あなたが死んだ後も。

 社会がおかしいのは、わかってる。それなら、それを何とかしてほしい。専門家で、団体を作って、政治に圧力をかけることだって不可能ではないはず。危ないと思ったら、施設入所をさせる方法だって、ある。

 専門家が、家族介護者の辛さを、本当に理解できないと思うことはいくらでもある。だけど、そうした人たちの力を借りなければ、やっていけない。だから、感謝はしている。だけど「介護しないと分からない」という思いは、ずっとある。

 それは、あなたにもあったはず。

 殺してほしいなんて、思ってない。

 うぬぼれるな』。



(※「後編」に続きます)。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。


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