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影響の受け方の種類。

 明らかに強い影響を受けてきたのに、それに気がつくのは、とても長い時間が経ってからのこともある。それは、実は、ずっと見ていたのに、視線が真っ直ぐに向けられていなかったせいかもしれない。

大阪万博

 1970年の大阪万博のときは、小学生だった。

 どうしてだかわからないのだけど、万博に、すごく興味を持ってしまった。

 それまでに、テレビで「ウルトラマン」があって、そのあとに、アポロが月に着陸し、ただでさえ子ども心は、盛り上がっていたのに、そこに拍車をかけるように、大阪万博は、その先の未来を見せてくれる気がしたからだった。アメリカ館というパビリオンには、月に着陸した宇宙船も展示されるし、月の石も見られるはずだった。

 親の転勤で、ちょうど中部地方に住んでいたし、父親は、クルマの運転を始めて数年だったから、やたらとドライブに行きたがっていたこともあって、結果として三回も万博に行けた。

 そのたびに、その頃、愛読していた「ニャロメの万博びっくり案内」全3巻を繰り返し読んで、どのパビリオンを回るかのスケジュールも立てた。

 まず、人気のアメリカ館やソ連館は、個人的には行きたかったけれど、二時間は並ぶ、という情報があったので、特に父親は、そんなに並ぶのは無理だから、行くのは諦めて、代わりに日本館にも「月の石」はあるはずと予定に入れたり、なにしろ、空いているけれど、魅力的だと思えるパビリオンをピックアップした。

 その上で、当時、父が勤めている企業のパビリオンを、その予定に入れないと、確実に機嫌が悪くなるので、気を遣った。

太陽の塔

 その中で、最後まで迷ったのが「太陽の塔」だった。

 この万博のシンボルのような存在だったので、まず混雑が予想された。その上で、他のパビリオンが、「未来」を表現するような明るさに満ちていたり、テクノロジーを見せてくれていて、やはり、小学生としては、そこにひかれる気持ちがあったのだけど、「太陽の塔」は、明らかに異質だった。

 太古から、現在の人類までを見せる、とか。今の世界を写真で表現する、とか。それは、大事なテーマなのは、頭ではわかっていても、なんとなく、他のパビリオンを優先させてしまった。

「太陽の塔」は、会場のどこからでも見えるはずだから、という理由をつけて、親には伝えたが、絶対に行きたいという気持ちになれない理由は、自分ではわかっていた。

 その異質感が、ちょっと怖かったのだと思う。

なんだ、これは

 その後、「太陽の塔」の作者・岡本太郎は、芸術家として、テレビのバラエティーなどで、見かけることも多くなった。

 コマーシャルに出てきて「芸術は爆発だ」と叫んだり、「なんだ、これは」と急に言い出す人だったり、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と、お酒の景品のデザインをしていたり、という印象しかなかった。

 だから、世間では「変な人」という扱いをされていて、その時の視聴者として、自分も、そんなイメージでしか見ていなかった。

 だけど、岡本太郎という存在は、ずっと知っていたと思う。

現代アート

 その後、ずっとアートや美術へ関心を持つこともなく、大人になった。

 芸術系の大学とサッカーの試合をしたことがあって、その時にマークにつくことになったプレーヤーが、ハードモヒカンで、そのチームの中では上手い方なのに、髪型を気にしていたせいか、ヘディングをしなかった。そのせいもあって、珍しく大勝した。

 そんな経験があったので、どちらかといえば、アートは嫌いだったと思う。当時は、スポーツを取材して書く現場にいたから、「芸術的なプレー」といった言葉を目にするたびに、どうして、他のジャンルの価値観を持ち込むのだろうと、微妙な反感を持っていた。

 それが、変わったのが、1996年だった。

 岡本太郎が、その年の1月に亡くなった。

 そのころは、テレビなどで見かけることもなくなったし、自分が関心もあるとは思えなかったのだけど、気がついたら、普段は買わない、岡本太郎の特集の「芸術新潮」を買っていた。

 それから、古本屋で岡本太郎の書籍を見つけて、読むようになった。
 
 その頃、岡本太郎の本は、絶版が多かったから、古本屋にあるたび、何冊か、同じ「今日の芸術」を買って、人にすすめたりもした。

 フリーのライターをしていた頃で、自分が、どうやって書いていって、仕事として成り立たせていけばいいのか。そんなことを悩んでいたせいか、すごく背中を押されたような気がしたのだと思う。

 さらに、それまでギャラリーも美術館もほとんど行ったことがなかったのに、急に現代アートの展覧会に行くことになって、それから、ウソのように作品を見るようになった。

影響の受け方の種類

 その変化は、自分でも不思議だったけれど、あとになって、岡本太郎の亡くなった日に、隕石が落ちたことを知った。

 実は「太陽の塔」以来、正面から見続けたわけではなかったけれど、そして、時には嫌っていたような感覚になっていたこともあったが、ずっと岡本太郎に影響を受け続けていたのではないだろうか。

 子どもの頃から、大人になるまで、本当は、ずっと関心があって、そのことで、自分でも知らないうちに、アートや美術や芸術への関心が、少しずつ積もるように大きくなっていて、それが、岡本太郎が亡くなったことをきっかけとして、それこそ、「爆発」するように、アートへの関心が表面化したのかもしれない。

 それは、自分自身ですら、こじつけにも思えるのだけど、それから、25年以上、ずっとアートへの関心は持続し、特に、自分が困っていたり、辛い時ほど、なるべく美術館やギャラリーに行こうとしていたから、自分の変化は、にわかではなかったようだった。

 影響の受け方には、いろいろな種類があると思うようになった。

再びの「太陽の塔」

 子どもの時に、「太陽の塔」を万博の会場で見てから、20年以上が経った頃、大阪へ行く仕事があった。それも、当時の万博会場のそばで取材がある予定だった。

 その仕事が終わってから、せっかく来たから、「太陽の塔」を見ていこうと思った。

 子どもの頃の記憶で、巨大なものでも、大人になってから再び見ると、こんなに小さかったんだ、と思うことが多いのに、「太陽の塔」は、びっくりするほど、大きかった。記憶の中よりも太く感じたくらいだった。

 それから、さらに、時間が経って、内部も整備されて、再び、入れるようになったことを知った。子どもの時に、その異質感と混雑にびびって、実現できなかったけれど、今度行くときは、その「太陽の塔」の中まで見たいと思っている。




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