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忘れられない美術教師……「表紙の曲線」。

 いくつかの思い出が地層のように重なっていて、とても遠くに感じる。しかも、その教師とは、おそらく直接言葉をかわした記憶もなく、あったとしても、一言、二言、あいさつをしたくらいだと思う。

 だけど、不思議に、今も覚えている。

 一つは、12年前の展覧会で見た作品。
 二つ目は、表紙の曲線。
 三つ目は、40年くらい前の、マッシュルームカットとジーパンで、一人立っていた姿。

 そんな思い出が3層になっていて、どれも古いし、強烈な印象でないのに、もっとたくさん言葉を交わしたはずの教師とは違う質の、忘れそうで忘れられない記憶として、今も残っているのは、不思議な気持ちもする。

40年前。マッシュルームカットとGパン。

 高校に入学し、音楽か美術を選択しなくてはいけなかった。
 どちらもやりたくなかった。

 美術は、課題が出来ないと放課後に残されたりした記憶もあり、作業の遅さはかわらなかったため、それを避けるため音楽をとることにした。音楽は声域を確認され、高めで狭いと言われ、合唱部の女子には、全部半音ずれてる、と指摘され、音楽には無縁なことを確認することになった。

 それ以上に、美術の教師とはまったく縁がなかった。受験に関係ない科目の時は、受験に関係ある勉強をするような学校だったから、他の教師は黙認していたけれど、美術の教師はあきらめず、かなり厳しく(今、考えればごく当たり前のことだったけど)普通に授業をやろうとしていて、それが美術をとった人間からは不評だったと聞いたことがある。

 それは、とても、勝手な話だけど、私にとっても美術のことは、ひたすら遠いことというより、関係のないことだった。美術の教師は、やりにくかっただろう、とも思うが、その実情は知らないままだったし、マッシュルームカットにGパンの格好を遠くから見ていただけだった。

 いつも一人で、校門のそばに立っていた姿として、覚えている。

表紙の曲線

 高校のPTAの役員を母親が務めた時があった。

 弟も同じ高校に行っていたから、それがいつのことかはっきりとは覚えていないが、それでも、随分と昔の記憶なのは間違いない。

 母親の担当は、広報だった。高校の名前がついた「会報」のようなものの編集に関わっていた。その時、表紙をその美術の教師に頼んだらしい。母親が、悪口ではないんだけど、美術の先生だから、やっぱり難しいところがあって、という前置きがあって、こんな話が続いた。

 絵を描いてくれたのだけど、表紙の紙がいつもと同じのではなく、指定してきた。それも、いつもよりも予算がかかるものだったらしい。

 しばらくたって、出来上がった会報は、いつもとは違って、少しピカピカするような素材の紙の上に、なんだか波のような、カモメのような線が描いてあるだけのようにも見えたが、確かに、この紙じゃないとダメだ。と美術に全く興味がない私でさえ、思った。

 その記憶が、やけに残っているのは、1990年代の半ばから、急にアートや美術に興味を持ち、自分が厳しい状況の中でも、気持ちを支えてもらったのがアートだったから、という記憶があるせいかもしれない。

2009年 個展

 高校の元・同級生からのメールで、その美術教師が亡くなったのを知ったのが、2009年のことだった。
 展覧会も神奈川県民ホールでやるのを知り、教えてくれた元高校の同級生といっしょに見にいく予定だったが、前日になって、急用ができたため、私一人で行くことにした。

 神奈川県民ホールで、約2週間。
 美術教師が亡くなったのは、私の母親が亡くなったのと同じ、約2年前のことだとも知った。

 そして、入り口を入るとけっこう人がいて、受付に、中年の女性が二人並んでいて、「走り去った美術家の軌跡 1967—2006」というタイトルと、私が知らない、わりと最近の顔が写真があった。ビデオアートに取り組んでいた事も、この展覧会に来なければ知らないままだったと思う。

 いつもは読まない年譜みたいなものを読んだ。
 ここ10年くらい、うつ病になったり、アルコール依存症になったりという文字を見つけて、それで勝手に感傷的になってしまったが、それは作品を見るときには、失礼なのかもしれない、と思い直した。

 階段を降りて、その部屋には立体もあったし、絵もあったし、組み合わされたインスタレーションもあった。作品の中には、あの、高校の「会報」の表紙にもあった、波のような、カモメのような線もあちこちにあった。あれは、生き生きしていたんだ、印象が強いものだったんだ、と改めて思う。

 そして、1990年代の後半から、また絵が多くなっていたようで、そして、その絵は色が多くなって、線が太いものになって、いいなあ、と素直に思えた。そこにも、あの線があった。

 その時代、私自身は、急に美術に興味を持って、美術館やギャラリーに週に1度くらいは通うようになった。これまで、厳しい時も、アートに気持ちを支えてもらった意識はある。だから、もしかすると、この先生の作品をリアルタイムで見る可能性もあった、と思った。


 さらにビデオ作品があって、本人が対談している映像もあって、その理論的な事を話す姿や、言葉の選び方も含めて、ものすごく真面目な人なんだ、と思った。それは、高校生の時には、分からなかった。1970年代から、インスタレーションや、ビデオアートにすでに取り組んでいたことも、知らなかった。

 59歳で亡くなったと知った。
 志なかば、という言葉があちこちにあった。
 この展覧会も、本人が亡くなったあと、妻の弥生氏が、今年は展覧会をやる、という目標を故人の手帳に見つけて、そして実現したと知った。作品集も、買った。

 和田守弘 作品集。

 けっこう広い会場に、膨大といって数の作品が並び、高校の美術教師の一人として仕事をしながら、こんなに作品を作っていたんだ、というのは、驚きというより、違う世界を見せてもらったような気にさえなった。


 時間の流れは、いろんな流れ方をしている。
 私が、この展覧会を見るのは、不思議だった。
 カタログの最後が謝辞として、和田弥生氏の文章でしめくくられている。

「少しでも和田守弘の美術に対する熱い思いが伝わりますように」

 確かに、伝わって来た、とも思った。時間を越えて、なにかが伝わって来たんだろう、と思えた。

(この先駆者の一人として、和田守弘氏があげられています)。

2021年 コロナ禍

 感染に気をつけているので、外出もめっきりと減った。
 美術館やギャラリーにも、ほとんど行けなくなったが、今もアートへの関心は続いている。

 3回目の非常事態宣言で、また美術館などが閉まってしまうことに、「密」になるような展覧会が、どれだけ少ないのか、を知らないのに、どうして閉鎖する必要があるんだろう、といった微妙な怒りを感じるようにもなった。

 昨年から、noteも始めた。
 今回、「#忘れられない先生」というテーマを見たときに、もっと印象が強かったり、お世話になったり、会話も多い先生もいたのだけど、書きたい、と反射的に思った人は、和田先生だった。

 直接、教わったことはないから、私に語る資格もないのかもしれないし、先生などと読んでも失礼だとは思うけれど、今も美術に興味が持続し、気持ちを支えられている意識が続いていることもあって、記憶自体が、不思議な層を成して、校門のそばで一人で立っている姿が、浮かんできたのだと思う。



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