読書感想 『生き延びるために芸術は必要か』 森村泰昌 「あらゆる時代、あらゆる場所の切実」
森村泰昌、という現代美術家は、1990年代から知っていた。
東京都現代美術館で、大規模な個展を見たときは、森村泰昌氏が、あらゆる絵画の中にいた。
西洋美術史の作品を、東洋人の森村泰昌が演じる意味のようなことが大事になってくる、といったことをテーマにしているのだけど、最初はピンと来なかった。
ただ、それから20年以上、時々、あちこちの美術館やギャラリーなどで新作を見たり、横浜トリエンナーレでキュレーションをしたり、美術に関する著作も何冊も読むようになって、実作者というだけでなく、美術というジャンルそのものについて、本当に深く理解もしているし、わかろうとしているし、そのことを、誠実に伝えようとしているのは、わかってきた。
著作も、美術に関しての話題を書いているが、個人的な印象だが、一般向けの書籍は、年を経るごとに、よりわかりやすくなっている、と思った。
今回も、だから期待をしていた。
『生き延びるために芸術は必要か』 森村泰昌
最初、著者の、今は誰も住まなくなった実家の話から始まる。
そして、その実家は、このままだと朽ちていくしかないけれど、ではどうするか?といった話になり、でも、それは空き家問題といった社会的なことではなく、もっとプライベートな方向に向かっていく。
そして、その実家とどうやって付き合っていくかについては、最後になって、また登場するのだけど、そこに至るまでは、これまでおこなってきた大学での講義の内容を中心に進むことになり、それは後から振り返れば、「生き延びる」ことが話の中心になっていたことに、著者自身が気づいたようだ。
そして、その話題は、意外というか、だけど、森村泰昌にとっては必然の選択なのかもしれないが、「フランシスコ・デ・ゴヤ」そして「ディエゴ・ベラスケス」という、どちらも西洋の、今からいえば何百年も前の西洋美術史の「巨匠」が、どうやって生き延びたのか、という話になっていく。
雇われた画家として生き延びること
フランシスコ・デ・ゴヤ。
「カルロス四世の家族」の肖像画。
1800年から1801年にかけて描かれたとされる傑作。
私も実際にこの作品を見たことはないし、図版などで見かけただけでも、隙のない大作、という印象しかない。
だが、同じ実作者である森村だからこそ、ゴヤの思惑まで、その作品からかなり踏み込んで推測をしている。
それは、職業画家としてのとんでもなく高い技術は前提として、同時に芸術家として、どうやって生き延びたのか、という想像以上に緻密で大胆で考え抜かれた戦略があることに、読者にも気がつかせてくれる。
この作品には、実はやや不自然な人物の配置がされ、不思議なスペースがあいている。まるで、本当はもう一人、そこに主役級がいるようで、そのことによって、隠された王女の不倫のことを密かに描き込んでいるし、王よりも、王女の不倫相手との子供を中心にしている作品になっている、という。
作品から読み取れることを述べている森村の推測は、とても説得力があった。
ただ、さらに謎とも思えるのは、このときの最大の権力者の一人でもある王女の表情を強かに描いたことだ。それが、この人物の本質であったとしても、どれだけ優れた画家であったとしても宮廷に雇われている身としては、王女を美しく描かない、という選択は、画家自身の身の危険さえ及ぼしかねない行為のはずだった。
そのことに関して、森村は、子どもたちを、とても輝かしく描き、そのことで、王女にも、それならば仕方がないと思わせたのではないか、という読みを展開させている。
そして、森村は、この作品について、ここから、さらに豊かな視点を提示してくれている。
次に、扱われているのは、ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』。
おそらく、少しでも美術に興味があれば、誰もが一度は図版などで見たことがある傑作。私は実物は見たことがないが、この作品は、鑑賞した人も少なくないと思う。
そして、『ラス・メニーナス』を過激だと見立てる森村の推察は、少なくとも私は聞いたことがないような、画家と王との「高度なゲーム」だったが、そこにとどまらないのが、現役で、ベラスケスと同じ芸術家である森村の見方なのだとも思わされた。
作品と商品
森村の講義は、コロナ禍が厳しい頃でもあったので、大学でオンラインで期間限定での配信もあったようだ。
第六話は「生き延びるために芸術は必要か」という本のタイトル通りのテーマだった。
コロナのときに、「不要不急」という言葉が随分と聞かれたし、「不要不急」以外のことは、糾弾されるような目で見られていたから、当然、美術や芸術もそのように扱われ、一斉に学校が休校になったときも、当然のように問答無用で、図書館も、美術館も閉まって、個人的には、悔しい思いをした。
30歳を過ぎてから、急に美術やアートに急に興味を持って、自分でも意外だったのだけど、特に現代美術の作品を見るようになり、さらに意外なことに、自分が気持ちが追い込まれるほど、美術作品に触れたくなり、そのことで、心が底の底まで落ちる前に支えられた。
だから、それ以来、美術やアートや、その作品を制作するアーティストにも、とても勝手で一方的な思いだけど、どこか感謝するような気持ちがあった。
そんなことを、森村の書籍を読んで、思い出した。
この「第六話」のサブタイトルは、『作品、商品、エンタメ、芸能、そして「名人伝」』だけれども、かなり鮮やかに、こうしたことに関して語っていると思った。
本当にそうだと思った。だから、「美術」に限らず「作品」は「不要不急」に一見、思えない。だけど、「作品」がなかったら、分かりにくいけれど、いつの間にか「生き延びること」ができなくなりそうだと、自分が思っていることを、再確認させられた。
エンターテイメントと、芸術の違いも、はっきりと分かれるものではないにしても、やはり違いがあると感じ、それは、どこかで「商業や経済との関係の濃度の違い」みたいなものではないか、と思っていたが、その感覚が浅はかであることも改めて気がつかされた。
「作品」ばかりが並んでいる場所は、確かにそうかもしれない。
アートに対して、最初は戸惑っていたのだけど、なんだか自分に問いかけられているような気がして、そのことで、これまであまり使わなかった感覚が動くような思いがあり、それで、急に興味を持った自分の経験を思い出した。
確かに、こんな気持ちの動きがあって、20年以上、「作品」を見続けてきたのだった。
芸術と芸能
芸術と芸能。
この違いもいろいろと言われてきた。
さまざまな視点から検討もされ、その結果として、エンターテイメントと芸術の違いのように、重なるところもあり、実はそれほどはっきりとした違いがないかもしれないと思いながらも、決定的に違うのではないか、というようにも感じてきた。
この指摘の納得感が深いのは、芸術のプレーヤー側からの視点であり、しかも、その内面の違いも含んでの話だからだと思う。
「芸」であることの熾烈と過酷が共通しているから、観客側としては、その違いがわかりにくいはずだった。だけど、これは、とても納得ができる分析だった。
『名人伝』への視点
そして、その「芸」に関しては、中島敦『名人伝』の話まで進む。
この短編は、弓の名人を目指した人が、途中で弓を使わないで空を飛ぶ鳥を落とす域まで達するが、それだけにとどまらず、その「名人」の晩年は弓矢の存在さえ忘れてしまう、といった展開になる。この小説は学生の頃の課題小説であって、この「名人伝」を最初に読んだときは、あまりにもトリッキーな結末だと感じていた。
だけど、年齢を重ねた方が、この『名人伝』と同じ文庫にある『山月記』も含めて、芸や、表現することの業のようなものが描かれているのではないか、と思うようになった。
この『名人伝』の最後、弓矢を忘れてしまう「名人」のあり方について、森村は、こんなふうに解釈している。
他にも、『華氏451の芸術論』。『コロナと芸術』。『芸術家は明治時代をいかに生き延びたか』。さらには、『生き延びることは勇ましくない』といったテーマについて、森村は語っていて、どれも新鮮な視点を提示してくれたように思った。
芸術だけではなく、何かを表現したい、もしくは伝えたい、と思っている人であれば、どなたにでも読んでいただきたい本だと思います。
(こちらは↓、電子書籍版です)。
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