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『21世紀の「頭がいい」とは何か?』を考える。(後編)。

 人類にとって、「あたまがいい」とは何か?を改めて考えると、その時代によって違いがあるはずだった。

 だから、紀元前からたどり直す必要があると思い、未熟であるのは自覚しているものの、なんとか、そこから21世紀の現代まで到達できた。

 それが、前編だったのだけど、後編では、そうしたことを踏まえて、21世紀のこれからに必要な「頭の良さ」をさらに考えていきたい。


失われた30年

 バブル崩壊以来、ずっと停滞が続く日本経済、だけではなく、日本社会全体を表す言葉として、「失われた10年」と表現されたのが最初だと記憶しているが、それが特定の誰かというのではなく、多くの人の感覚として共有できたから、かなり広く使われるようになった。

 その年月は気がついたら、どんどん伸びていって、いつの間にか「失われた30年」ということになってしまった。

 それは、平成という時代とほぼ重なり、年号が変わったといっても、社会の停滞感も変わらず、コロナ禍によって、人間を尊重しない社会の状況が、ただむき出しになっただけのようだった。

 それは、「これからの頭の良さ」を考え、これからの「正解がない」未来をより良い社会にしていけるような「頭のいい人間」を育成するような社会であった印象がなかったことと一致していた。

 今も、その気配は変わらない。だから「失われた30年」という状態は、まだ継続しているように思う。

沈んでいく豪華客船

 階級の固定化は進み、どこに生まれるかで、その後まで決まる確率が高くなる一方なのが、この「失われた30年」のようにも思える。

 そういう停滞した時間と社会の中では、「頭の良さ」の基準として、表面的に飛び交う「独創性」や「創造性」や、曖昧な「コミュニケーション能力」は本気で顧みられることは少ない。

 それは、誰にでも可能性のある未来をつくる気力が、社会の中に存在しないことを示しているようにも思える。

 だから、そうした新たな「頭の良さ」の基準を再考するといった手間のかかることは避けられ、相変わらず「学歴」≒「頭の良さ」の基準を本気で変えようともしていないようだ。

 そして、「学歴」≒「頭の良さ」の基準は、経済的な豊かさとの相関関係が言われているから、やはり、ある特定の(生まれつき恵まれた)層だけが、「頭がいい」と評価されることになる確率が高い、ともいえる。

 時代は、変わらないどころか、もしかしたら、少し逆戻りしているのかもしれない。

社会の矛盾、葛藤、齟齬が、大きく表れてきているからこそ、いろんな問題や事件が起きているのに、原因や個人や家族のせいにして済ませる考え方は非常に強いです。もしかして戦前からの、すべては努力や心がけで克服できるはずという精神論みたいなものが、なお日本にはびこっているせいかもしれません。 

為政者とか学校の教師たちと同じ階層に属していて、同じような理想的な人間像を抱いて行動する人たちはオッケーなんですが、それとは異なる行動原理や規範に沿って子育てをしていると、規範や理想が違うだけでそれはそれなりに一生懸命なのに、何もしていないように見えて、親が責められる。 

(「もじれる社会」より)

 そうした評価する側は固定されている上に、その評価基準も、実はあいまいなままのようだ。

 ポスト近代型能力の支配力が強まるハイパー・メリトクラシーの恐ろしいところは、いかなる差別もまかり通るということなんです。客観的な基準がないので、評価する側が、能力があるのかないのかを恣意的に決めることができる。 

(「もじれる社会」より)

 ハイパー・メリトクラシーは、この『もじれる社会』著者の造語なのだけど、この状況が社会を覆っているとしたら、その能力、つまりは「頭の良さ」を決めるのは、現在の社会で優勢な立場にいる人間だから、やはり縁故主義がまかり通りやすくなっているはずだ。

ハイパー・メリトクラシー (Hypermeritocracy) とは、教育学者本田由紀による造語で、あえて日本語に訳すと「超業績主義」を意味する。日本の近代社会学歴をはじめとする手続き的で客観性の高い能力が求められてきたという意味でメリトクラシー的であったのに対して、今日では、コミュニケーション能力をはじめとして独創性・問題解決力といったより本質的で情動に根ざした能力が求められるポスト近代社会に移行しつつあるとして、そのような社会をハイパー・メリトクラシーと呼んでいる。

(「Weblio辞書」より)

 

 日本の社会は、すでに停滞ではなく、下降し始めているのだろう。

 今の日本は、もう何十年も機能も外観もほぼ変わらない豪華客船と言えるのかもしれない。

 20世紀の末、バブルの頃は「世界一」などと評価も受けたが、今ではすっかり古くなっている。

 しかも、船体に穴が開いているせいなのか、少しずつ沈んでいるようだ。だけど、その豪華客船のもっとも上部の、一番豪華な客室には、縁故資本主義の勝者で、「学歴」もある富裕層で占められているせいか、その最下部の出来事には気がついていないのかもしれない。
 
 他の階級の人間は実質上、縁故がなければ、最上部の、その豪華な客室に入ることもできない。そして、その富裕層は、船底の穴には気づいたとしても気づかないふりができるのは、すっかり船が沈むまでは自分たちは安泰だからだ。それに、財力があるので、いざという時の救助ボートも準備してある。

 だが、船の下の層になるほど、その浸水する海水は命に関わってくるけれど、ボートもなく、長距離を泳ぐ力がなければ、脱出することもできない。

 この状況は、もしかしたら、この「豪華客船」が沈むまで変わらないかもしれない。だから、現代になって、特にスポーツ界で突出した個人が、日本という国から誕生してきているのは、この国から脱出する意志が、形になりつつある、ということかもしれない、などと飛躍したことも思う。

 ただ、現在の日本という社会で(このまま変わらなければ、変えようとしなければ)、真剣に、未来をつくるための「頭の良さ」を考え、そして、そうした人間を育てる気はないことは、分かっていた方がいいのかもしれない。

日本のGDPに占める公教育支出というのは、OECD諸国の中で最低水準です。

(「もじれる社会」より)

 これからの社会に必要な「頭の良さ」は、「答えのないことに対して、考えられる能力」だとすれば、「正答に早くたどり着く」教育よりは、それこそゆとりが必要なのは明らかだと思う。

 それには、予算が必要になる。

 そう考えれば、表面的な掛け声とは裏腹に、本当の意味で、これからの時代のために必要な「頭のいい」人間を一人でも多く育てる気持ちは、この(現在の)社会に共有されていないのは明らかなのだろう。

 それを前提として、これからを考えていかなくてはいけないのは、しんどいけれど、大事なことだとも思う。

生成AI

 チャットGPTは、突然現れた印象で、まるでSFのようだったし、これまでに感じたことがないような凄さは何なのだろうと思っているうちに、生成AIという言葉は一般用語になった。

 深夜のテレビ番組で、生成AIが、まるで自立した人格のように振る舞っている姿を見て、今までの仕事の半分近くは、AIに代わられてしまう、といった言葉が、本当のことだと肌に染みるように分かった気がした。

 これから仕事を選ぶときには、この仕事はAIでもできるだろうか?といったことも考えないといけなくなっているのも事実のようだけど、それと同時に、「頭の良さ」を表現する言葉自体も、考え直さないといけなくなっていることも感じた。

 「頭の回転が早い」

 この表現は、「頭の良さ」を称賛する言葉として、かなり昔から使われてきた。20世紀にコンピュータが開発されてから、そのコンピュータによって、人間の頭脳の働きがより理解されやすくなる、という現象も起きているようだった。

 コンピュータの進化は、自分もノートパソコンを使うようになり、買い換えるたびに、その処理速度が早くなってきているのが、素人でもわかるから、だから、それ以前から使われていた「頭の回転が早い」という言葉は、人間の「頭の良さ」を表現するのに、より適切なように思われてきたようだった。

 そして、そうした表現があれば、「頭が良くなる」ためには、とにかく処理速度を上げる、といったことが目標にされがちだし、処理速度が上がるほど、「頭がいい」ということになっていたと思う。

 ただ、生成AIが実用化されてきて、本当に仕事を奪われる可能性が出てきた時に、この「頭の回転が早い」を、人間の「頭の良さ」の評価基準にし続けるのは、適切ではないどころか、危険ではないかと思うようになった。

 それは、これからは「頭の回転の早さ」を上げる努力をいくらしても、AIには絶対に敵わないからで、そうした処理能力の早さこそが、AIに代わられてしまう機能ではないか、と容易に想像できるからだ。

羽生善治の言葉

 生成AIが実用化されるよりかなり前から、チェスのプレーヤーや、将棋の棋士は、コンピュータを相手に対戦をさせられてきた。チェスは、コンピュータに負けることもあったけれど、将棋は、まだ人間の方が強いとも言われていた。

 だが、20世紀の末の段階で、さまざまな将棋のプロに、いつコンピュータに負けるのか?といったある意味では残酷な質問に対して、ほとんどの人が、将棋は人間の方が強い。だから、ずっと負けない、といった答えが多かった中で、一人だけ負ける日が来る。それも、2015年と答えたのが、当時、最強とも言われた羽生善治だった。

 約20年前に「2015年」と予想した棋士がいた。先日、1433勝の公式戦歴代1位に並んだ羽生善治九段(48)。弱冠25歳で史上初の「七冠王」になったころのことだ。
 実際に人工知能(AI)が現役棋士を初めて破ったのは13年だったが、ほぼ言い当てた。この予言は1996年版「将棋年鑑」にでてくる。同じ質問に、当時50代だった「ひふみん」こと加藤一二三九段(79)は「来ないでしょう」と答えている。すでにチェスでコンピューターは王者と互角に勝負していたが、持ち駒が使え、選択肢が多い将棋では「人には勝てない」と考える棋士も多かった。

(「朝日新聞」より)

 そうした羽生の目指す将棋が、どのようなものか?
 それに対しても、文学の視点から試みた人が、同じ時期にいた。

「これは私ひとりの予想だが、計算と記憶の力業を能力の中心とするコンピュータ将棋(これは人工知能も同じだろう)が人間と対等に指せるようになったとき、力業では絶対にコンピュータに勝つことのできない人間の将棋は、将棋のとてもエレガントな面を発見しているのではないか」

(「ALL REVIEWS」より)

 この『羽生 21世紀の将棋』では、羽生自身の言葉としてではなく、著者の保坂和志の表現として「将棋のエレガントな面」と書かれていたはずなのだけど、読後の印象としては、それは、羽生善治の目指す将棋を表す言葉ではないかと感じていたのを、思い出す。

 何しろ、羽生善治は、コンピュータに負けることもある、を前提としているのだから、それでも人間としての将棋はどうあればいいのか?を、おそらくは、その当時は一人で戦いながら考え続けていたはず、だと思えるからだ。

 21世紀に入り、コンピュータとの戦いは、棋士だけではなく、一般にも共有できるなものになりかかっている。

「頭の回転の早さ」では、AIに勝てない人間が、これからどうしていけばいいのか?

「将棋のとてもエレガントな面」のようなことを、棋士ではない人間は、どのように模索していけばいいのだろうか?

これからの頭の良さの基準

 日本の政府としては、これからの時代を「デジタル化」によって乗り切ろうとしているようだ。

誰一人取り残されない、人に優しいデジタル化を

(「デジタル庁」ホームページより)

 ここに掲げられたスローガンは、とても美しく正しいものだし、これが実現したら素晴らしいと思えるのだけど、実際は、マイナンバーカードや保険証などをめぐるトラブルなどに「誰一人取り残されない」といった方針が反映されているとは思えない。

 ただ、とにかく、これからの経済成長を考えた上での「デジタル化」を進めようとしていて、そうなれば、この「デジタル化」に適応した「頭の良さ」が賞賛され、目指すべき、そして身につけるべき能力として脚光を浴びる可能性も高い。

 だが、そこに不安もある。

 未来は分からない、という基本的で、根源的な事実もあるのだけど、先進国と言われる国々は、すでに「デジタル化」を達成している部分も多く、そのことで確かに経済成長を実現しているのも事実だけど、それは、現時点でのことだからだ。

 日本が、先進国(と、いつまで言われるか分からないが)の一員として、そうした「デジタル先進国」に追いつこうとする方針をたて、達成したとして、それが何年後なのか、何十年なのか分からないが、その頃、その「デジタル化」は、その時も重要な条件なのだろうか。

 この30年で、世界の産業構造は大きく変わったらしい。私自身は、そうした全体を理解し、把握する能力は足りないとしても、30年前の世界有数の企業と今が全く違っているのはわかる。

 現在、世界トップのGAFA(今は呼び方は変わっているのもしれないが)と言われるインターネット企業のグーグル、アップル、フェイスブック(現・メタ)、アマゾン。アップルをのぞいては、21世紀に入ってから起業された企業ばかりのはずだ。

 だから、今から「デジタル化」に力を入れ、そのための必要な能力を「頭の良さ」≒「頭の回転が早い」として評価し、そうした人間を育成したとして、10年後、20年後に、それが本当に有効な方法なのか疑問を持っても当然だと思う。

 そういった「デジタル化」へ力を注入することの有効性への疑念は、当然ながら存在する。

それは〝「前の時代の後追い」に終始してしまい、「次の時代」を十分展望できない〟という、明治以来の〝キャッチ・アップ(追いつき追いこせ)〟型思考に由来する、日本にありがちなパターンだ。

(「科学と資本主義の未来」より)

 これは、先行している国に追いつく頃には、「デジタル化」が有効な社会でなくなっている可能性を考えていない、という指摘でもあるし、日本の現在の方針が、「正解」へ向けて処理能力を早くして対応する、という相変わらずの発想でもあるのだけど、それ自体が、本当に「未来でも」有効なのか、という問いかけにも感じる。

私たちは「ポスト情報化」ないし「ポスト・デジタル」、つまり「情報」の先の時代を見据えた展望を持つべき局面に入っている

(「科学と資本主義の未来」より)

 この著書は、さらに経済成長そのものに対しての本質的な分析をしているのだけど、まずは、この「デジタル化」に対しては、その先を考えるべき、ということを書いているけれど、確かにそうだと思える。

 今から力を入れたり、考えるのであれば、「デジタル化」ではなく、「デジタル化」の先に訪れる未来のことになるはずだ。

 では、これからの未来-----「ポスト・デジタル」の時代の「頭の良さ」は、どのようなことになるのだろうか?

 それは、おそらくは「エレガントな頭の良さ」と表現されるような能力であるように思えるのは、AIと競い合うことを20年前から余儀なくされてきた羽生善治をめぐる言説の中で出てきた発想だからだ。

大きな転換期

 この30年の間でも、「これまでにないような変化」という表現は、何度も聞いてきた記憶がある。

 それは、その表現を使う人が、人目を引くために使用している場合も少なくなかったし、その言葉を使う人自身の能力が、時代を分析するまでのレベルに達していなかったこともあったから、この「大きな転換期」という言葉自体に、どこか警戒するような思いに、反射的になってしまう。

現在の私たちが根本的な意味での変化の時代、言い換えれば数百年単位、あるいはもしかしたら数千年単位での、人間の歴史の中の大きな「転換」の時代を生きようとしているという点がある。そうした時代にあっては、変化のスケールが圧倒的に大きいために、「長期の時間軸」で物事を捉え考えなければ「数年先」のことも予想できず、未来の展望が開けてこないのだ。

(「東洋経済」より)

 だが、今回の、こうした時間軸のスケールが大きい「転換期」という言葉に説得力があるのは、現在の世界の変化は、少しでも長い目で見れば、質の違う時期に差し掛かっているのは、それほど深い情報がなくても予測がつくからだ。

 これまでは、人類は成長してきた。それを象徴するように人口も増加したし、さまざまな発展もして、地球上を支配してきた。だけど、今は、その成長にはプレーキがかかり始め、そのうちに人口は減少し始め、どの国も高齢社会から超高齢社会になる可能性が出てきているらしい。

 それは、これまでは成長が正しい価値観で、実態とも適合していたけれど、もう「下り坂」になっていくとしたら、それは、これまでに人類が経験したことがない変化であるのは間違いない。

 この「下り坂」の未来の中で、どのような「頭の良さ」が必要とされるのだろう?

ケアの思想

 ここ何年かは、「ケア」という言葉を、介護の現場や専門家ではない場所や人から多く聞くようになった。

 個人的には、仕事をやめて、家族の介護に専念した10数年があったので、介護者にこそ、心理的支援が必要だと思うようになり、その支援体制が社会に十分にあるように思えなかったので、自分で関わろうと思って、資格をとり、今も細々とながら介護者の心理支援に関わっている。

 でも、その期間が10年を過ぎても、介護者の心理的支援の窓口がほとんど増えている印象がない。それに関しては、自分の無力を感じつつも、「ケア」という言葉を介護の現場以外の人が口にする機会が増えれば、そのことで介護に対する理解が広がり、そのことによって、介護者への心理的支援の必要性も少しは伝わりやすくなるのでは、という期待もあった。

 ただ何年か経って、介護の現場以外で、「ケア」の思想を語る人たちの多くの言葉は、私にとっては、遠い上空を飛び交っているように思えてきた。だから結局は、家族介護について語られる機会が増えることには繋がりそうにないと感じるようになって、勝手に落胆するようになっているものの、それでも、これだけ「ケア」が語られるようになったことの意味はあると思うようにもなった。

 それは、やはり、今が本当の意味での大きな転換期であって、「人類が下り坂」に差しかかっていく未来では、資本主義の基本理念でもありそうな「成長」し続けることを前提とした能力ではなく、そのときに重視される能力が「ケア」に関する力であることを、現在、「ケア」を語る人たちは薄々感じている可能性があるからだ。

 ごく自然に考えれば、日本社会は超高齢社会であり、さらに今後は先進諸国をはじめとして、その道を歩むのは明らかなようだ。

 令和2(2020)年の世界の総人口は77億9,480万人であり、令和42(2060)年には101億5,147万人になると見込まれている。
 総人口に占める65歳以上の者の割合(高齢化率)は、昭和25(1950)年の5.1%から令和2(2020)年には9.3%に上昇しているが、さらに令和42(2060)年には17.8%にまで上昇するものと見込まれており、今後40年で高齢化が急速に進展することになる。地域別に高齢化率の今後の推計を見ると、これまで高齢化が(中略)平均寿命の推移と将来推計してきた先進地域はもとより、開発途上地域においても、高齢化が急速に進展すると見込まれている。

(「内閣府」ホームページより)

 医学の進歩によって、高齢になっても健康で労働できる人も増えるかもしれないし、現在の65歳と、30年前の65歳を比べても、「若く」なっているのは明らかだし、この傾向は未来に向かっても続く可能性があるから、高齢社会になって、すぐに労働人口が減るわけではないかもしれない。

 ただ、日本のようにさらに超高齢社会になると、65歳は「若さ」を維持できるかもしれないけれど、「75歳」以上になれば、さすがにずっと元気でいられるのは難しいはずだ。

 そうなれば、子育てだけではなく、高齢者の介護という「ケア」の重要性は、現在よりもさらに増大していき、人口の減少や、「人類の下り坂」という未来を考えると、専門家に「ケア」を任せるだけではなく、本当の意味で「ケア」を社会で担えるようになっていかないと、破綻するのは目に見えている。

 それは、これまでの「成長」を前提とした資本主義を支える「頭の回転の速さ」とは、おそらく質的に違う「ケアの思考」といったものも含めた有能さが必要とされるのではないだろうか。

 介護の現場のことは積極的に語られていない不満はあるとしても、その大きな変化の予兆として、現在、さまざまな人たちが「ケアの思想」を考え始めているような気はする。

 ただ、未来を語ることはとても難しく、ほぼ不可能であることを前提としても、その未来の「ケアの思想」も含めた「頭の良さ」がどのようなものであるのか?

 それを考えるためには、過去を遡り、現在には直結していないかもしれないけれど、あり得たかもしれない可能性をたどり直す試みも必要なのだろう、とは思う。

ルソーの言葉

 ルソーという思想家について、興味を持てたのは、この書籍がきっかけだった。

 この著書の中で、ルソーの「あわれみ」の考えに触れて、それは、介護の思想ではないか、と思い、それまでほとんど知らなかったルソーの本(「人間不平等起原論」)を読んでみた。

あわれみは自然の感情であり、それは各個人においては自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力するものであることは確かである。われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである。また自然状態において、法律や風俗や美徳のかわりをなすのもこれであり、しかもどんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないという長所がある。

(「人間不平等起原論」より)

 この場合、「あわれみ」というのは、「同情」だったり、上からの施し、といったようなネガティブな意味合いが現代ではついてしまっている部分もあるが、意訳するとすれば、「困っている人がいたら、考える前に、手を差し伸べるような人」という意味だと思った。

 そして、この中で「どんな人も」と書かれているけれど、その数は、もしかしたら、ルソーがこれを記した時点よりは、かなり減っている可能性もある。

 こうした事を、18世紀の哲学者・思想家が語っていて、それも東が言うには、ルソーはどうやら人嫌いで、そんなに人付き合いもしたくないタイプだったらしいので、そうした人が言っていたとしたら、より説得力が増すような気がする。

 さらには、そうした「あわれみの人」(「手を差し伸べる人」)が、人間の社会を存続してきたのではないか、という言い方までルソーはしている。

理性によって徳を獲得することは、ソクラテスやそれと同質の人々のすることかもしれないが、もしも人類の保存が人類を構成する人々の理性だけにたよっていたならば、人類ははるか昔に存在しなくなっていただろう。 

(「人間不平等起原論」より)

 この思想が書かれたのは、産業革命やフランス革命が始まる前のはずだから、こうした思想があまり省みられなくなったのは、その後の歴史の変化によって-----民主主義、さらには資本主義の隆盛のせいかもしれない。

   ただ、この「人間不平等起源論」では、人類の継続が「あわれみ」にかかっているかもしれない、と指摘しているのだから、これから、下り坂を迎え、希望が少なくなっていく社会において、この「手を差し伸べる人」や、その「手を差し伸べる能力」は、きれいごとや理想とかではなく、人類が存続していくために、シンプルに必要不可欠な能力になる可能性がある。

孔子の「仁」

ヤスパースはこのように述べて、この時期には東西にすぐれた思想家が輩出し、その特徴は、「自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定め」[4]、人びとが「人間いかに生きるべきか」を考えるようになった点にあり、これらの思想は、のちのあらゆる人類の思想の根源となったことを指摘している。

(「Weblio辞書」より)

 ヤスパースは、紀元前500年頃を中心に前後300年の幅を持つ時代を「枢軸時代」と名付けたが、その時代に世界の東西で優れた思想家が現れ、その中に孔子もいる。

 東洋の思想のせいか、どこか分かりやすく感じるのが儒教なのだけど、その思想の中では、人間のあるべき姿で、「仁」が最上位に評価されているという印象がある。

孔子が、その教えの根本にすえたのは「仁」です。あえて一言でまとめてしまうと、「仁」とは“人を愛すること”です。当時の世の中の乱れは、他人を思いやる愛情が失われていったことが原因で、真心や思いやりを大切にして人を愛する心をとり戻すことが何よりも必要だとして、「仁」が最も重要だと位置づけたのです。

(「進研ゼミ高校講座」より)

   孔子が生きていた頃は、春秋戦国時代と名付けられていて、争いの絶えなかった時代でもあったはずで、その中で、人間のあるべき姿勢として「仁」(今でいえば、愛に近い価値観)を最上位に置いた。ということは、逆に、厳しい時代だからこそ、そうした価値の大切さのようなものを、その時も、それからも生きている人たちも共感したからこそ、1000年単位で、その思想が生き延びたとも言える。

 そして、この「仁」は、大きな転換期を迎えている現在に、改めて検討されるべき価値観だと思うのは、ルソーが人類存続のために重要な要素として「あわれみ」を挙げているのだけど、それは、もしかしたら「仁」からつながっている思想ではないか、と感じたからだ。

「仁」だけではなく、ルソーの「あわれみ」も、その後、資本主義という競争社会の中で忘れられがちだったのだけれど、今、社会が壊れかかっているからこそ、もう一度、考え直し、これからに生かすべき未来の思想の可能性もあるのではないだろうか。

時代によって変わる「頭の良さ」の基準

 未熟ながらも、自分なりに考えてきた、ここまでのことを、まとめてみたい。 

 人類は知性で生き残ってきた種だから、「頭の良さ」については、大事な要素でありながらも、時代によって、大事にされ、高い評価を受ける「頭の良さ」の種類は、変わってきた。

 明治以来の日本は、基本的にはずっと「西洋社会という正解」にいかにして追いつくか。が課題になっていたから、「正解へどれだけ早くたどり着くか」という処理能力の早い人が「頭がいい」とされてきた。

 それは、敗戦後も、ほとんど同じように「アメリカへ追いつく」を正解にしていたから、そこに向かっての「頭の回転の速さ」が重視されてきて、それは、受験勉強の方法とよく似ていた。

 だから、「学歴」の高さと、「頭の良さ」があまり抵抗感なく自然にイコールな時代は、20世紀末まで続いた。

 だが、「バブル崩壊」によって、目標が見えなくなった。アメリカも、分かりやすい「敵」であったソ連が崩壊することで、進むべき方向を見失っていたのかもしれない。

 20世紀から21世紀にかけて、「頭の良さ」と「学歴」がイコールでなくなってきたのは、すでに目指すべき「正解」がなくなってしまったせいだろう。そのため、「学歴」と直接は関係のない「頭の良さ」を表現する(あいまいな)言葉として「地頭の良さ」という言葉も広がってきた。

 その後、「コミュニケーション能力」が、やたらと重視されるようになってきたのだけれど、その能力自体が、やはりあいまいな上に、おそらくもっとも使われる場面は「就職面接」の際だと思われるが、それを評価する側に「コミュニケーション能力」の高さを正確に判定する力があるかどうかもよく分からないのも、問題だったはずだ。

 だが、その判定する力に対して、それほど厳しく問われなかったのは、就職氷河期などによって、採用する側が有利だったせいだろう。

 だが、そのことで、これからの時代に必要な「頭の良さ」が真剣に問われる機会が減ってしまった可能性もある。

 だから、就職活動の内実は、「学歴フィルター」という方法に象徴されるように、「地頭の良さ」や「コミュニケーション能力」といった測定しにくい能力を対面でわかろうとするのではなく、結局は、今までの「学歴」という基準で「頭の良さ」を判定する時代が続いているようだった。(それが最初の関門に過ぎない、という言われ方をするとしても)。

 その上で、日本は、縁故資本主義とも言われるようになっているようなので、元から富裕層という「仲間」の中に生まれなければ、固定傾向が強くなって、社会的な階層上昇もできにくくなっているから、そうした状況も「失われた30年」という停滞を作ってしまっていると考えられる。

21世紀の「頭がいい」とは何か?

 今の時代は、これまで何度も「大きな変化の時代」という言葉を聞いてきたからすぐには信じられないとしても、どうやら本当だと思えるのは、人口減少という、人類にとって初めての段階を迎えているからだ。

 さらには、地球環境も、このままでは人類の生存が不可能になるような変化を、その人類が与え続けている、ということも明らかになってきたらしい。

 そんなすでに「正解のない時代」に、求められる「頭の良さ」は、もちろん、これまでとは違う質を備えているはずだ、というのは想像ができやすい。ただ、これまでを振り返るときに、過去を否定するだけではなく、その時間的な距離をもっと長く取って考えることが、「大きな変化の時代」には必要なようだ。

 だから、振り返るのであれば、「枢軸の時代」という紀元前の、世界中に優れた思想家が同時多発的に生まれた頃から、考えるべきなのかもしれない。

 そうした思想家たちは、やはり「人間はいかに生きるべきか」といった本質的なことを考え、さらには、「人間はどうあるべきか」といった基本的な問いに対しても、考え続けた人たちと考えられる。

 その中の一人に孔子がいて、その思想は儒教として1000年以上も影響を与えたのだから、それだけ人類を納得させる思想でもあったのだと考えられるけれど、「仁」というあり方を重視していて、それは、「愛」や「優しさ」といっていいことではないかと言われている。

 その「人間」のあり方に関しては、その後は宗教が大きな影響を与え続けたのだけど、それが17世紀の科学の世紀以来、また大きな変化があり、フランス革命、産業革命を経て、資本主義が隆盛を迎え、それがそのまま現在につながっているはずだ。

 だから、「仁」のような生き方そのものに関わってくる思想が、広く問われることも少なくなってきたようにも思えるが、フランス革命の前に、理性ではなく人間の「あわれみ」の重要性を説いたルソーの思想に、「仁」という思想が、一見分かりにくいものの、つながっているようにも思う。

 ルソーの思想は、理性だけでは、人類の存続そのものが危ういのではないか、といった主張にもつながっていて、「あわれみ」は、現在で意訳すれば、「困っている人がいたら、考えるより先に手を差し伸べること」だとも思えるが、おそらく理性的でないということもあって、長く重視されなかったそのルソーの思想は、21世紀になり、「正答も目標も見えなくなった」頃、形を変えて、また注目されているようにも感じる。

 それは、介護の現場だけではなく、さまざまな場所で「ケア」という言葉が多く聞かれるようになったことが象徴しているように、「ケアの思想」は、「仁」から始まり、「あわれみ」を通って、これからの「人類の下り坂」に必要な能力は「ケアの能力」であることを示しているように思える。

 あたらめて、21世紀の、これからに必要な「頭の良さ」とは、なんだろうか?

 これまでのように、「正答に早くたどり着く」ことは、AIにも代行ができるが、自分自身や周囲のことを「ケア」しながら、一緒に「よりよい状態」を目指せる。それは、人間だけしかできない「エレガント」な能力とも言えそうだ。

 そうした、これまでよりも感情も含めた幅の広い「頭の良さ」が、21世紀のこれからに必要とされる「頭の良さ」ではないだろうか。それは同時に、孔子の「仁」や、ルソーの「あわれみ」を体現している人でもあるのだろう。

 こうした能力は、資本主義の価値観だけでは「有能」とは見なされない可能性もあるが、最近言われるようになった「ポスト資本主義」の社会での「頭の良さ」として認められるようにならないと、人類の存続はより危うくなり、その滅亡を早めてしまうだけだとも思う。

 同時に、この「ケアの能力」も有能さにつながることに対して、違和感が強い場合は、「神の教え」に忠実なあまり、17世紀まで「科学の発展」が遅れたと言われるのと同様に、21世紀の現在でも「資本主義」という「主義」を信じすぎるあまり、これからに必要な価値観自体を無意識で拒否している可能性も考えられる。


 この、自分自身や周囲のことを「ケア」しながら、一緒に「よりよい状態」を目指せる。人間だけしかできない「エレガント」な能力近年よく聞くようになったSDGs「誰一人取り残さない」という目標を、本当に達成できるかもしれない「頭の良さ」でもあると思う。


 長い記事を読んでいただき、ありがとうございました。自分の未熟さを自覚しながらも、歴史をたどりなおして考えて、そんな一応の結論に達したのですが、ご意見、疑問点などございましたら、伝えていただけると、ありがたく思います。

 よろしくお願いいたします。





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