ラジオの記憶㉖どうして、自分が「校正」が苦手だったのか、やっとわかった-----「校正者」牟田都子氏の言葉。
ラジオには、いろいろなゲストが出演して、さらには、比較的、長い時間話をする。
だから、聞きながら、発見があったり、考えることもできる。
その時のゲストは「校正者」の牟田都子氏だった。
編集者
話を聞いていて、自分が昔、短い間だけど、編者者をしていて、致命的に「校正」がダメだったことを思い出した。
プロの校正の人と並んで、校正を進めていて、自分が「見た」ゲラを渡すのだけれども、時々、プロの方に「これ、よく見落とせますね」とあきれて、笑ってしまうという表情で言われたことがあった。
それで、さらに注意深く、といった努力をしたものの、それでも、見落とすミスはそれほど減らず、自分は、酒飲みでいうところの、ザルというよりも、ワクのような存在なんだと思い、それで、編集者には向かないこともあるし、早く、とにかく書くことだけに専念して、ライターになろうと思ったことがある。
文字を見ること
そんなことがあって、だけど、ライターとしても結局、たいした成果をおさめることもできなかった過去をさらに思い出すと、微妙に悲しくもなるものの、牟田氏の言葉で、自分が、どうして「校正」がダメだったのか、少し分かった気がした。
「校正」は少なくとも二度します。
文を読むことと、文を見ることです。
細かい点は違うのかもしれないけれど、そんな話をしていて、自分は、文は読んでも、文を見ていなかったのだと思った。
ゲラを読んでいて、それは、文としての意味について、それこそ「読んで」いて、そして、その表現について、もう少しこうした方がいいんじゃないか、などと余計なことも考えていた。さらには、この文章がどうすれば良くなるのか、といった生意気なことばかりが気になっていて、そこにある文字の形が、本当にあっているのかどうかは、意味で補正してしまって、文字の間違いが、全く「見えて」いなかった。
自分が、校正がダメだった理由が少し分かった気がしたけれど、編集者をしていた時に、そのことに気がついたとしても、そこに文字が並んでいると、文章を読むことしかできなかったのだろうとも想像するから、結局は、「校正」に関しては、自分は適正がなかったのだろうと思う。
『文にあたる』 牟田都子
このラジオ放送を聞いて、著書も読んだ。
当然だけど、「黒子」の仕事と言われているし、著者にもその思いはあったようだから、こうして表に出ることにも葛藤があったようだけど、文章にしてくれたので、改めて、プロとしての姿勢や視点を少しでも理解することもできた。
「小説家」と「校正者」
この書籍の中で、「校正者」の葛藤がもっとも現れているように思えたのは、保坂和志の小説の文章についてだった。
私自身は、保坂和志という小説家に関しては、「小説的思考塾」に参加するほど、すごいと思っているので、その文章に関しても、考え抜いたあげくに、「校正者」から見たら、おかしな表現をしていると考えてしまっているので、中立的な見方はできないので、ここまでの葛藤を起こしているのは分からなかった。
この書籍でも書かれているのだけど、覚悟や勇気を持って、これまで「黒子」とされていた「校正者」が表に出て、こうして書いてくれたことで、小説家の意図のようなものを、さらにいろいろと考えることができたと思った。
ラジオで声を聞き始めた時は、失礼ながら、全く知らない方だったのだけど、書籍も読む機会も得られたし、プロの仕事についても、いろいろな思いまで持つことができた。
声から興味が始まって、本まで届いたのは、なんだかありがたい気持ちだった。
(他にも、いろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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