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北野武監督 『首』-------「武士の時代の再解釈」

 北野武監督には、海外を含めて熱心なファンが多いと思われるので、北野映画について、何かを語るときに、微妙に後ろめたさが生じるのだけど、それでも、最初に『その男、凶暴につき』を見たときの新鮮さと、驚きと、予算の少なさを突破するような可能性は覚えている。


リアル

 その画面には、リアルがあったように思えた。

 今使うと、リアルという言葉に微妙な恥ずかしさもあるのは、それから、そうしたリアルな表現が進化したということもあるのだろうけれど、その映画の画面から伝わってくる不穏さや、抑えた怖さは、これまで、それほどの映画を鑑賞した体験がないといえ、記憶になかった。

 その頃は、1980年代後半、様々な映画関係者の言葉をテレビなどで見ていた時は、ハリウッドなどと比べて圧倒的に予算が足りないから、という話をよく聞いて、ただの視聴者としてはそれを信じる部分もあったのだけど、「その男、凶暴につき」を見て、そういうことは、ウソではないか、とも思ってしまった。

 それほど予算をかけているとは思えないのだけど、役者という人間のリアルな部分を嫌でも引き出すようにすることによって、見たことがないような映画になっていたのだと思った。

 この映画が、1989年という時代の境目のような時に公開されたのも、今から振り返ると、大げさに言えば、象徴的なことのようにも感じる。

 そして、その2年後(1991年)に公開された、『あの夏、いちばん静かな海』は、北野監督にとっては、あまり得意とは思えない恋愛もテーマになっていたのだけど、それでも見ていて恥ずかしくなく、それこそ心に残る映画になった。いい風景とはほど遠いコンクリートをバックにただ男女が歩いているだけで、いろいろなことが伝わってくるような気がした。

 こうしたことは、他の機会にも書いた記憶があるし、とても古い出来事にもなってしまったのだけど、今回、『首』を見て、変わらなさのようなものを感じたから、改めて思い出したのだった。

違和感

 1980年代後半は、バブル景気と言われていて、北野武のように、他の分野での「有名人」が映画を撮ることは少なくなかった。それは、現場では、北野武も著書などで書いたり、インタビューで話したりしているように、外からくる人間に対しての圧力などもあったらしいが、他の異業種監督と比べても、北野武は独特な感じがした。

 その頃、確か、これまでの映画への違和感について、北野は語っていたはずだ。

 それは、そんなわけがない、というようなことで、例えば、殺害のシーンで、殺す側が延々とセリフや思いを語ったり、拳銃で撃たれた側が、虫の息になりながらも「遺言」のようなことを言っているけれど、ありえない、と思っていたらしく、だから、北野映画では、本当にあっけなく死んでしまうし、突然、出来事が起こる。

 それが、抑えた画面の無駄がない気配とフィットして、すごく心地よく感じた。それなのに、それほど多くを見ていないのは、映画を見る習慣があまりないせいもあるのだろうけれど、それでも迷ったら、『ソナチネ』を見ていたのは、映画館が空いていたせいもあった。

 その頃、とても多くの人に評価されていた記憶はない。

 だから、ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞したときは、意外という気持ちと、やっぱり、という思いの両方を持った記憶がある。

エヴァンゲリオン

 1990年代後半に、「エヴァンゲリオン」を見たときにも、「その男、凶暴につき」のときと同様な印象を持った。

 それは、自分自身が幼い頃に見ていた様々なアニメの中で「そんなわけがない」と思っていた違和感が、かなり解消されていたからだった。主人公の行動、あちこちの場面でのスピード感。そうしたことに納得がいく映像になっていたからだった。

 それは、北野武の映画を見たときに受ける印象に近かった。

 ただ、過去の作品への不満を持っていたとしても、それを解消した上で、鑑賞者にまで納得がいくような新しい作品を制作することは、誰にでもできることではない。

 それだけに、北野武もすごいのは間違いないけれど、庵野秀明も優れた監督なのだと思う。

映画公開のトラブル

 その後、『アウトレイジ』が制作され、それは画面自体が違って見える緊張感はあった。

 個人的には、アウトローの世界よりも、『アキレスと亀』のように、例えば芸術家をもっとテーマにしてほしいと思っていたが、『アウトレイジ』のような映画の方が観客が入ったせいなのか、北野監督は、2010年、2012年、そして2017年と『アウトレイジ』シリーズを制作し、公開し続けた。

 もう、映画は撮影しないのだろうか、などと勝手なことを思っていたのだけど、映画「首」を制作したのを、何かのニュースで知って、だけど、同時に私のような一般人には本当のことは分からないようなトラブルで、公開が難しいのではというような噂まで流れていた。

 やっと、今度は違うテーマでの映画を制作したはずなのに、残念だった。

 だから、2023年になって、『首』の公開が決まった時は、うれしかった。


(※ここから先は、映画『首』の内容について触れている部分もあります。未見の方で、何も情報を得たくないという方は、ご注意ください)。





『首』

 最初は、『アキレスと亀』以来、妻と一緒に行こうと思っていたのだけど、その予告編を見て、当然だけど、暴力描写が多そうだったので、一人で行くことした。

 それでも、なんとなく行く機会をつくれないうちに時間が経って、気がついたら、上映時間が限られた状況になっていた。

 映画館へ向かう。1日に一回。それも、MX 4Dの表示があったから、追加料金を払わなくてはいけないのかという気持ちと、北野映画で、そういうシステムになっているのか、などと思っていたら、実際は、イスなどは違うつくりなのはわかったものの、映画上映は通常で、値段も一般的なものだった。

 つまりは、観客動員や、公開日からの時間が経ったことで、こうした場所で上映せざるをえなくなった、ということのようだった。

 映画が始まった。

 最初に、「首」というタイトル文字が、いきなり斬られるところから始まった。

 だから、映画もあらゆる場面で首が斬られ、蹴られ、暴力があって、ものすごく強引で、加瀬亮が演じる織田信長は怖くて、理不尽で、秀吉はたけしが演じているのだけど、本来だったら、年齢的にも、もっと若いはずなのだから、史実から言えば合っていない。

 それに徳川家康の年齢も、小林薫が演じているのだから、やはり年齢的にも矛盾があるのだろうけれど、そういうことは時間が経つうちに、気にならなくなった。

戦国武将のリアル

 個人的には、時代劇といった映像や、時代ものと言われる文章は、あまり好きではなく、その理由の一つが、そこに登場する人たちの発想が、まるで「サラリーマン」(ビジネスパーソンよりも、こうした表現が近いと思う)が、刀を差しているように思えたせいだった。

 昔の人、特に武士の時代であれば、そんなわけがなく、何しろ日々殺し合いをしているのだから、そうした組織の人、という側面よりも、本当に野獣のような、さらには、もっと乱暴で野蛮なはずなのに、あまりにも、そこに出てくる人が、現代人に見えて不満があった。

 例えば、花輪和一という漫画家が日本の中世を舞台にしたはずの「亀男」という作品内では、戦から帰ってきた人間が、勝ち戦らしく機嫌よく歩いているものの、切り落とされた腕を持っていたりと、なんだか、野蛮よりも動物のように見えた。
だけど、戦国時代であっても、おそらくはこうした人たちでなければ、殺し合いの日々を乗り切れるわけがないのに、これまで描かれていた武士は、上品すぎると個人的には思っていた。

『首』のパンプレットでも、北野武監督は、どうやら大河ドラマのような武士などの描き方はきれいすぎて、不満と述べているらしくて、それは、「その男、凶暴につき」の頃の言葉と重なる気がした。

 だから、『首』に出てくる武将たちや、千利休や、忍びの者は、野蛮で、暴力的で、やや理解できないような振る舞いや言動をする。だけど、これまで見てきた「時代劇」と違って、チャンバラの爽快感はないものの、信長も、こういう人だったのではないか。他の人たちも、本当にこういうふうではないか。

 そんなことを思えてしまった。それは、すごいことだと感じた。

 そして、秀吉を、年齢的な矛盾を超えて「ビートたけし」として演じたのは、その疎外感のようなものがあったせいではないかとも考えた。映画の中の秀吉は、かなり出世した身分になっていたはずなのに、他の武将たちは、おそらくは親の代から武士のはずで、それと比べると、その「侍」の世界にまだなじめないことを映画の最後まで語っている。

 その違和感は、実は今も「ビートたけし」として映画に出演しているとき、北野自身が感じていることと、似ているのではないか。他の俳優は、若い時から、俳優として訓練を受けてきて、俳優として生きてきた人間がほとんどで、その中では、その演技が「ビートたけし」として評価されたとしても、ずっと他の俳優と比べると違和感があったのではないだろうか。

 そのことを今回の映画にも生かしていて、だから、自分が秀吉を演じているのではないだろうか。

 そんなことを思うほど、新鮮だった。

時代劇の再解釈

 映画が終わって、トイレに行った。

 そのとき、中年男性が、“今日の映画は10点中、6点くらい。---俺は、その男、凶暴につき、が面白かった----”というような会話をしていたのが聞こえてきた。

 確かに、私にとっても、10点中7点くらいで、もう少し時間を短くしてくれれば、もっと緊張感があってよかったのに、などと不満もあったのだけど、考えたら、突然の暴力や呆気ない死などは、北野武監督がこれまで表現し続けていたから、気がつかないうちに、それに慣れてしまっているのかもしれない。

 また、これまでの北野映画によって、新しい作品への期待値が高まっているから、よりそんなふうに、評価が辛めになってしまうのかもしれない、などと数日経つと思うようになった。

『首』は、いわゆる時代劇映画の再解釈に近くて、おそらく、武士は、これまでに描かれてきた武士よりも、実像に近いような気がする。だから、このように、歴史上の人物の野蛮さや暴力性のようなものが噴出しやすい場面のことを、これからも映画にしてくれるのではないだろうか。

 そんな勝手な期待までしてしまう。

 例えば、幕末の新撰組の実像を映像にしてくれないだろうか。明治政府の政争は、伝えられていることよりも、もっとえげつないのではないか。それから、昭和になっても、まだ本当はもっと野蛮だったり、暴力的だったりすることは少なくないはずで、それを描けるとしたら、映画監督では北野武ではないだろうか。

 あまり熱心なファンではない人間が言うのは失礼かもしれないし、70代後半になる人に勝手な期待だけを寄せるのも卑怯な気もしてくるが、北野武より少し上の世代のジョージ・ミラーだけではなく、クリント・イーストウッドやアレハンドロ・ホドルスキーのように、90代でも現役で、新作映画を撮っているのだから、可能なように思えてくる。

 同時に、また現代を舞台にして、アウトローだけではない人間、例えば高齢者など、社会の中心から排除されそうな主人公にした、リアルな映画も見てみたい。

 そんなことを、じわじわと、『首』のいくつかの場面とともに、思ってしまうのだから、やっぱり鑑賞直後の感想だけが正解ではなくて、すごい映画だったのかもしれない、と改めて思った。

 何しろ、トラブルが伝えられていたときは、せっかくの北野作品が見られないかもしれない、と思っていたのだから、見られてよかった。その印象に変わりはない。



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