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「外部の視点」の必要性

 全国に、今も統計上は、10万を超える宗教法人が存在する、ということを知って、ふっと思ったのは、世の中には、やはり理不尽なことが多い、という実感だった。

 宗教について、私自身は、特定の宗教を信じたこともないし、神や仏の存在も信じていない。だから、宗教について、何かを語ったり、書いたりしてはいけないのではないか、といった気持ちがどこかにある。それでも、年を重ねるたびに、以前はたとえば、一緒に学生時代を過ごしていた人間が、宗教を信じるようになり、当初は、誘われるたびに、その人がその宗教をやめてほしい、といった気持ちもあったのだけど、だんだん、そう思わずに、その人にとっては、信じることが生きている中心にあるのだから、それについて、こちらが何かを言うことはできないと思うようになった。それでも、まだどこか割り切れない気持ちもある。

神や仏の存在

 だけど、たとえば普段は意識しないと、そんなに存在を認識しない神社仏閣も、その数の膨大さを考えると、それは、場所によって、その歴史は違うとはいえ、何十年や何百年も前から存在したところも少なくないはずで、それは、必要だから、あったということだと思う。

 昔、300年も400年も前は、たとえば生まれてまもない幼い子供が突然亡くなることも多かったと思う。それは、誰も悪くないのに、突然起こる。他にも、人は突然亡くなったり、横暴な人間の意味の分からない暴力などがあったり、どこまで本当にあったかは分からないが、江戸時代は無礼斬り、という言葉もあったから、身近な理不尽な死も、多かったように思う。

 そんな悲劇に、人間の思考や感情では、たぶん追いつかなくて、そんな時に、人間の外の存在が必要になるのではないだろうか。ここからは、素人の見方で、いろいろと未熟な見方で申し訳ない部分もあると思いますが、そういったことから、人間は神や仏を存在させ始めたのではないか、とも考えています。

 人間の外部の視点があると信じること。 

 その視点があることで、どれだけ権力を手中にしたりしても、自分を律する可能性は出てくる。
 その視点があれば、本当に孤独になり、誰からも気にされていない時でも、外の視点が見ていてくれれば、それだけで救われるような気になることもあるかもしれない。
 報われず、評価されない、だけど、自分自身は必要と思う地道な努力も、その外の視点の存在によって、力づけられる可能性もある。

 身近な理不尽な死は、昔は個別に起こっていたが、ちょっとでも視点を広げれば、国内でも様々な災害は起こり続けているし、事故も事件もある。海外では今も戦争があるから、理不尽な死は、ずっとある。もしかしたら近代の方が大規模な戦争が増えているから、そうしたどうしようもない悲しみの総量は増えている可能性もある。そうしたことを、合理性だけで、人の気持ちをなんとか納得させるのは難しいから、やはり、外部の視点を信じる必要性は、今もあるのだろうと思う。

ソ連という(アメリカにとって)外部の視点

 20世紀の後半、当時の世界の強大国は、アメリカとソ連だった。今はなくなってしまったソ連は、アメリカとは根本思想の違いもあって、その対立は深刻で、当時のニュースや文献を見ると、本当にわずかなことしか知らないが、核戦争への恐怖は、当時の日本よりも、アメリカのほうが大きかったようだ。

 ソ連の情報は、何しろ、当時は外へ出にくかったから、分かりにくいものの、どちらの国も様々な、今も表に出ていないような裏側の情報戦や、それこそスパイや暗殺などは、行われていたと想像する。

 それでも、というのは、おかしいのだけど、ソ連が崩壊して、事実上、世界情勢が「アメリカ1強」になってからの、たとえばイラク戦争への疑念は強いままだし、それは、ライバルであり敵国がいなくなってからの暴走のように思える時もあり、世界の平和はまだ遠いままだと感じさせる。

 お互いに、「存在しない方がいい」と考えていた両大国ではあったと思うのだけど、どこかで、わずかにでも、何か無茶なことをする際に、アメリカであればソ連がどうみるか。少なくとも非難されにくい行動をするようにしていた可能性はある。それは、ソ連に対してのアメリカも、そんな存在でもあったと思う。

 国際政治は、一般的には見えにくいし、きれいごととは最も遠い営みというイメージはあるのだけど、それでも、結果的に、そうした「ライバル」であり「敵国」の存在が、自らの行動を律していた可能性もあるのではないだろうか。

 アメリカを止めるだけの国が存在しなくなってからは、特に21世紀になってからは、時によって「好き放題」という横暴さを、個人的には、アメリカには感じている。だから、現在、中国という大国が、本格的にアメリカに対抗できるような存在になった時には、アメリカの横暴は、その外部の視点によって、少しは律せられる可能性があるとすれば、そのことは、世界情勢から考えたら、望ましいことではないだろうか。
 それは、逆からもいえて、アメリカという超大国の存在は、中国にとっては、これからも気になる存在であるだろうから、うかつに非難されるような方法は、とりにくくなり、結果として、アメリカという外部の視点に律せられるということになるのかもしれない。

他人の存在という「外部」

 通称「アイヒマン 実験」と呼ばれる、心理学者ミルグラムが行った有名な実験がある。それは、人は命令されれば、権威に服従し、普段は善良であっても、残虐な行為をおこなってしまう確率が高い、という結論になっている。

 その実験の結果は、どこか恐ろしいものとして、自分も環境によっては何をするか分からない、という戒めとしても働くことでもあったのだけれど、何年か前、それに対しての反論のようなテレビ番組を見た記憶があった。

 それは、その実験では、実は残虐な指示を拒否した実験協力者は思ったよりも多かったこと。人は権威に従ってしまうという実験結果は、当時の歴史的な状況と無縁ではなかったことなどが伝えられていた。それは、これまでの「常識」とは違うものだったが、個人的に興味があったのは、その「命令」を拒否する理由だった。

 その番組では、酷い目にあっている人が近くにいること。または、途中から実験を拒否するサクラのような存在がいること。そういう「外部」が存在することによって、命令を拒否することが多くなる、という結果が印象に残ったし、どこか納得できる気持ちになった。

自分の中の「外部の視点」


 ただ、ここからの記憶は、このテレビ番組で見たのか、他の書籍などで読んだのか、それとも、今になって調べても、具体例が見つからないので、もしかしたら自分の願望が作り上げてしまった「偽の記憶」の可能性もあるけれど、私自身が「外部の視点の必要性」を考える時に参考にしているエピソードがある。

 こうした残酷な行為を命令される実験で、拒否した人たちの何人かに共通する特徴がある。それは、こうした命令に従うかどうかを迷った時に、判断の基準があることだった。それは、存命や故人かに関わらず、自分が迷った時に、自分の中にいる尊敬できる人たちに、心の中で聞くような習慣があることだった。自分の中の、その人に聞いて、それで判断して、実験の継続を拒否した、ということを聞いて、それは、自分の内部に「外部の視点」を持つことの重要性を示していると思った。

 ただ、改めて調べて、それが本当かどうかは分からなくなってしまったが、それでも、自分の中に、基準となりえる「誰かの視点」を設定する重要性への確信は、それほど揺らいでいない。それは、今までも、何かあった時に、そうした、自分の中の「外部の視点」を尊重してきたせいもある。

 具体的な、尊敬できる誰かだったり、時には亡くなった親の視線を思ったりすることもあるし、もっと抽象的な「お天道様がみている」といったことを考えることもある。その「お天道様」は、神や仏とは違い、自分が勝手に設定している「過去の人類も含めた集合意識」に近い感覚かもしれない。

 それで唐突に思い出すのが、宇多田ヒカルの楽曲だった。本格的に音楽活動を再開する時のアルバムで、それは、全ての曲が聞き方によっては、母親に対する追悼にも思えるが、でも、多くの人に届く一般性を持っていて、本当にすごいと思った1枚だったのだけど、「自分の中の外部の視点」という意味では、特に1曲目の「道」は、母親(と思える人)がいつも見守ってくれる、ということが強く伝わってくる曲だと思った。

俯瞰する「外部の視点」

 とても優れたスポーツプレーヤーからは、自分をも外から見るという「俯瞰の外部の視点」が語られることが少なくないと思う。
 
 どうしてそこのパスコースが分かるのだろう、と思わせてくれるサッカーのミッドフィルダー。時速300キロで走りながら、絶妙のコースどりをするレーサー。自分の次の動きに対する相手の反応までのシミュレーションを無意識で行えるような格闘選手。

 そんないろいろな場所で見たり聞いたりする記憶の集積はあるが、そうした「外部の視点」を持てるかどうかが、一流かそうでないかを分ける要素であることは、とても自分がそんなことをできないのに、なぜか、なんとなく納得してしまう。

 体を使うアスリートだけではなく、他のジャンルでも「外部の視点」の話をどこかで読んだことがある。たとえば、すぐれたカウンセラーは、面接の際、自分の視点、相手から自分を見ている視点。さらには、面接をしている自分とクライエントの姿までを見る「外部の視点」を設定できるという話を読んだ記憶がある。

 それが、まったくのフィクションに思えないのは、人間の意識には、そういう可能性があることを、自分が出来るか、出来ないのかを別としても、自分も人間である以上、どこかで知っているせいかもしれない。


(参考)
「宗教関連統計に関する資料集」https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kanrentokei/pdf/h26_chosa.pdf 



(他にもいろいろと書いています↓。クリックして読んでいただければ、うれしいです)。

場所に記憶が宿ること」について。

読書感想 「それを、真の名で呼ぶならばー危機の時代と言葉の力」  レベッカ・ソルニット 著  渡辺由佳里 訳

AIに、人類が滅ぼされない方法を考える

暮らしまわりのこと。

「スポーツについて」


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