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「橋の上の、遠い思い出」

 もしかしたら、誰にでも、そういう関係の知人がいるかもしれませんが、同じ中学で、同じ学年で、そんなに仲がいいわけでもないけれど、はっきりと仲が悪いわけでもなく、それでも、住所が近いせいで、思いがけない時に会って、少し話をするような人。そんな存在が、私にもいました。

中学の同期生

 一応、A君とします。
 中学が一緒で、同じ学年なのは、はっきりと覚えていますが、同じクラスになったことは、たぶんなかったと思います。
 そのくらいの気持ちの距離感でしたが、道路で会うことがあったのは、近所だったからです。でも、そんなにすごく近いわけでもないのに、夕方とか、思いもかけず、さらには、次に急ぐ用事もない時が多かったので、5分くらい会話したことが多かったように記憶しています。

 中学は一緒でしたが、高校は違うところに通っていました。
 それなのに、時々偶然会ったら、話をしていました。
 その時々の、お互いの近況を報告して、あ、そうなんだ、くらいになって、そして、別れていく。
 時間がたったことで、どちらかに、もしくは両方に変化があらわれて、というよりは、中学や高校の頃は、成長期でもあるのだから、確実に変わって行ったり、成長していく時期です。あるきっかけで、距離が縮まったり、逆に遠ざかったりすることもありそうなのに、年に1度も合わなかったかもしれませんが、その微妙な距離感は、変わらなかったと思います。

 ただ、それは、こちらが勝手に思っているだけで、A君にとっては、距離を縮めたかったり、もっと話を詳細にしたい時があったり、逆にムカついていたりしたのかもしれませんが、それも、よくわからないままでした。

 高校時代にも、何度か会って、体が細めだった印象で、柔らかい感じも変わらず、声も大きかったり、やたらと小さかったりということもなく、身長も伸びていたとは思うのですが、私も伸びていたし、だから、その差というか、違いも、そんなに変わらなかったと思います。

 今振り返って、すごく遠くなってしまった思い出だから、そんな風に解像度が粗いのかもしれませんが、それでも、そのA君のことを覚えているのは、最後に会った時の印象が、比較的、強かったせいかもしれません。

就職活動の頃

 A君は、高校も進学校でしたし、大学も確かいわゆる有名大学に通っていたと記憶しています。でも、会うたびに、ずっと学生服の一番上のボタンまで閉めているような印象は変わりませんでしたし、バブルにさしかかる頃ですから、大学デビューみたいな人も多かったし、浮かれた時代でもあったのですが、A君には、そういうところもなく、ずっと真面目で、どちらかといえば、硬い印象もありました。

 そして、最後に会ったのは、大学を卒業する頃だったはずです。
 私は、就職市場が売り手市場だったにもかかわらず、よく面接で落ちていました。その頃は大学4年生になってから就活を始めて、一般企業だったら、夏までには決まって、というパターンで、内定を複数、多いと5社くらいもらう大学生も珍しくない頃に、ずっと就職が決まらず、12月になって、やっと就職場所が決まって、それなりにホッとしていた頃で、でも、これからの社会人生活に不安もありました。

橋の上での会話

 実家から歩いて5分もかからない場所にがありました。
 その下の川は、大雨が降ると、場所によっては、すぐに洪水を起こす川でした。
 私が通っていた中学の近くまで、この川は流れていて、その洪水によって、近所では有名なマンモス団地では水があふれ、その棟ごとにボートが設置されている話もみんなが知っていましたし、もちろんA君も知っていたと思います。

 そのことは、まったく関係ないのですが、橋の上で、A君とたまたま会いました。
 どちらかが自宅の方へ歩いていて、どちらかが国道の方へ進んでいる時にすれ違いました。
 いつものように、短い会話をしました。

 その時も、その前に会ったのは、たぶん1年くらい前でしたから、話題は就職のことでした。
 いつも、A君が、私の近況を聞いてきたと記憶していますが、今になってみれば、はっきりとは分からなくなっています。それでも、その時の内容は比較的覚えています。たしか、こんな会話でした。

 聞かれたので、私が就職が決まった会社名を伝えました。

「あ、そうなんだ。なかなかのところじゃん」。

 A君の就職先は、ある銀行でした。

「あ、そうなの。すごいね」。

 わたしは、そんなことを言ったと思います。

 それで、会話は終わりそうでしたが、A君が続けた話が、私が就職が決まった会社のこととは、大きくずれていることに気がつきました。だから、確認のつもりで話をつなげました。

「あれ、おれ、●●●●だと言ったけど」。

「え、そうなの。それ、マスコミ?
 てっきり、△△△△だと思ってた」。

 A君があげた企業名の△△△△は大手のメーカーで、私の就職先の●●●●は中小のマスコミでした。

 話は、そこで終わりませんでした。

 A君は、比較的、抵抗なく、続けました。

「おち、ってさ。
 大学までは、なかなかだったと思うけど、就職先も、△△△△だったら、わかるんだけど、●●●●だと、なんだか、階段を踏み外したようなかんじだよね」。

A君の価値観

 わたしは、最終的には、マスコミで、しかも現場で働けると思って選んだ職場でした。ただ、確かに最初の2音は同じでしたが、●●●●と言って、△△△△と、間違える人は、あとにも先にもA君だけでした。その2音で始まると、A君には、就職先として考えられる場所は、△△△△しかなかったのかもしれません。

 そして、マスコミでも、私が就職する場所が、たとえば大手の新聞社だったり、テレビ会社であったら、A君の反応も、違っていたのかもしれません。

 ただ、たとえば、A君が気持ちの中で、「目の前にいる中学の同期生は、自分と比べて、就職を失敗した」と思っていたとしても(当時は、就職先として銀行は勝ち組でした)、なかなか面と向かって言えませんから、その時に、はっきりと口に出したA君に対して、怒ったり不快になる前に、まず不思議な気持ちに襲われたと思います。

 偏差値だけが学力の違いであり、知力の違いであると、本気で信じている人と同じように、就職先で、人生の価値が決まってしまうし、その就職先にも明確なランキングがあることを、心から信じている人を実際に見て、その価値観を人に対して、てらいもなく、今でいえばマウンティングをしてくる人間がいるとは思っていましたが、目の前で口に出す人間がいるとは思いませんでした。

 もちろん自分も世間知らずの大学生に過ぎません。確かに、就職先で、その後の人生は大きく左右されるし、影響もされるでしょうが、問題は仕事の上でプロとなることが大事で、そこから先だと思っていましたので、こんなことを言う人だったんだ、と改めて思って、その価値観のシンプルさに、驚きはありました。

それからのこと

 ただ、この話に関しては、実はA君の側の人のほうが多いのではないか、と思うことが、そのあと生きてきて感じることがけっこう多く、だから、よけいに覚えているのかもしれません。

 さらに、この話を読んだ人の中で、これは、私がそのA君の言葉に怒っているから、もしくは、ひがんでいるから、覚えているのではないか、そして、こうして書いているのではないか、と思う人もかなり多いのかもしれません。

 そして、確かに、そういう面がまったくないのか、といえば、完全な否定はできないと思っています。

 その後、最初の会社は2年足らずでやめて、次の会社にうつり、大学を卒業してから3年後くらいには、フリーのライターになった私に、またA君が会ったら、真面目に銀行員をしている目から見たら、すでに人生の落伍者に見えていたでしょう。

 さらに、その仕事も介護に専念するためにやめて、介護ばかりをしていた頃に会ったら、とても暗い顔をしていたと思いますし、私は完全に終わった人として見られていたかもしれません。

 そして、その後、世間的にはそれほどメジャーではない資格をとって、介護の経験を生かすような仕事をしていても、今も生活はギリギリで、来年のことは分からず、そして、他には、何をしているのかと思ったら、こうしてよくわからない文章を書いている、と言ったら、A君は、どう思うのでしょうか。

21世紀現在のこと

 さらには、21世紀の現在では、A君の価値観のほうが、より正しいと思われていて、私のような考えは、まさに「負け犬の遠吠え」と思われるような時代になったことに、何とも言えない恐さを感じるようになったので、改めて「橋の上の思い出」が、違う意味合いを持ってきたような感じもしています。

 あれから、ずいぶんと時間がたちましたが、それから、A君には一度も会っていません。
 だけど、自分の口に出すのは正直だから、そのぶん、悪い人間ではないと思いますし、思っていても、言わないだけで、A君の価値観と近い人は、増加しているような印象さえあります。

 それは、もちろん良し悪しには、直接には関係もないし、A君のような価値観は現代で生き残るためには必要なので、そうした流れに対しての無力さも、十分に自覚はしています。

 だから、価値観が違う人に対して、何かを伝える事は、無理かもしれない、と思うことの方が多くなっているのかもしれません。それでも、こうして書いて、伝えようとジタバタしているのですから、まだ、諦めきっていないかも、と書いていて、改めて気がつきました。

ほんの少し広い場所

 今考えていることは、ただ、近くの日々のことだけのようにも思います。

 2年前(2018年)に、介護も終えて、うちには子供もいないので、妻と二人の生活ですが、それなのに経済的には厳しく、コロナ禍もあり、妻には不安を与えていると思い、その点は申し訳ないと感じています。そう思うことも、今の時代の考えを内面化している可能性もあります。

 確かに、わたしは、本当に階段を踏み外したままなのかもしれません。

 それでも、今も、妻と一緒に、おやつを食べて、録画したテレビを見て、笑っていたりする時間はとても大事で楽しいのは変わりません。それに、細々とですが、始めて6年目になる仕事は、正直であることが大事なので、(これについては同業者でも同じことを言わない可能性はありますが)、その点がとてもありがたいと思っています。

 今日も誰に頼まれたわけでもないのに、とにかく毎日noteを書こうと決めて、5ヶ月が過ぎて、なんとか毎日投稿は続けられていますが、毎日締め切りに追われているような気持ちで、どうして書いているのだろう、という勝手な焦りとともに書き続けています。

 でも、始めてよかった、という気持ちもずっとあります。

 こうした、もしかしたら、ひがみ成分や暗さが多いような思い出のことも、誰かに伝わることによって、違う意味を広げてくれるかもしれません。

 錯覚かもしれませんが、そんなことを思うと、ほんの少し広い場所で、生きられるようになった気がします。




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