「人権」の「現在地」を確認する。(後編)。
ラジオ番組で「人権機関」という言葉を聞いて、本当になじみがないことに気がついて、それで少しでも調べると、自分が「先進国」の「民主主義」の社会に生きているのに、「人権」について、どれだけ知らないのかが改めて分かった。
ただ、それが、自分が勉強不足で無知なだけではなく、日本という社会の環境にも関係があるのではないか、ということを、もう少し考えたいと思った。
啓発と実効性
(法務省「人権週間」)
https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.html
日本国内の人権状況に関わりなく、「人権週間」は毎年設けられている。そして、それは年末になるとやってくる。
こうした「人権啓発活動」は大事だと思うし、こうした活動をしていれば、少なくとも、そうした機関では「人権」が大事にされているはずなのに、それでも、こうした事件↓が起きてしまったのは、「前編」でも触れた。
こうした事件とは微妙に違うのかもしれないが、似たような出来事が「東京都人権部」が関係して起こっている。
飯山由貴の作品も、まさに「人権」に関わるテーマを、かなり繊細に扱っているという印象だったのだけれども、それが「人権プラザ」で作品上映を中止されるのは、法務局で人権侵犯される印象と近いように思う。
啓発をしている側が、その「やってはいけないこと」をやっているように思えるが、どうして、こうなるのかと考えると、自分も、少しでも調べてみて改めて知ったことが多いので偉そうには言えないものの、法務局でも、人権部でも、やはり、「人権を尊重」することが本当に根付いていないせいではないだろうか、と思ってしまう。
それは、やはり、権力を持つ人たちが、どう考えているのかに関係しているに違いない。
自民党議員の意識
前編でも触れたが、「自民党憲法改正草案」の基本的な考えの一つに「基本的人権の制限」があるという分析もあるが、それを裏付けるように、この草案が起草された頃、自民党議員の、こうした発言があった。
第一次安倍政権で法務大臣を務めた自民党の長勢甚遠は、こうした発言↑をしている。東京大学法学部を卒業しているのに、とは思ってしまう。
これは、当人たちが「保守」と称しているが、歴史的にみても「人権」を否定するような思想は「保守」とはいえないようだ。
保守主義の源流とも指摘されるエドモンド・バークも人権を否定していないという。
だから、こうした自民党議員の発言は「保守」という思想に基づいたものではなく、人権を否定する、あくまでも「独自」の思想としかいえないものではないだろうか、といったことを、この著者・古谷経衡氏も指摘している。
どうして、このような思想が出てくるのだろうか。
立憲主義
憲法とは、権力側に対して守らせるルールということを、ここ何年かの色々な出来事で聞くようになった。それは、憲法学者にとっては、当然のことながら常識になっているようだ。
この書籍自体、憲法が理想を説いているわけではなく、もっと実質的なものであり、当然ながら、長い歴史をもとにしてできてきたシステムといったことも伝えようとしているのだから、こうして部分的に抜き出すことは、あまり良くないことかもしれない。
それでも、前出の自民党議員の発言自体、現在の民主主義の国であれば、常識でもあるはずの「立憲主義」を理解しているようには思えないことはわかる。(知っていて無視しようとしているのだろうか)。
その上、どうして、いつも自分たちが権力側にいることを前提に語っているのかも不思議だと思う。もしも、自分たちと敵対する勢力が政権をとった場合、少なくとも基本的人権が保障される憲法でなければ、その時の自分たちも危うくなるはずなのに、そうした想像はないようだ。
どちらもしても、こうした長勢や片山のような、自民党議員の発言は、それこそ「本音」のようであるし、その後、根本的に改めたという話も聞いた記憶がなく、だから、現在、政権与党が自民党である以上、これからも人権状況が良くなる可能性は、外圧がない限り難しいのだろうと思えてしまう。
人権思想
現在の「日本国憲法」の第三章 第十一条に、こういう条文がある。
今でも、「ルールを守れ」と、やたらと言われていて、インターネット上の、いわゆる「炎上要件」に、この言葉はよく聞くような気がする。
それなのに、日本国内で、おそらくはもっとも重要で基本となるルールである「憲法」に関しては、なぜか、とにかく「ルールを守れ」ではなく、前出の自民党議員の発言のように「ルールを守る」よりも「改正する」ばかりを語る人たちは一定数いて、それは「ルールを守れ」といった批判を受けにくい。
このあたりは、少し不思議でもあるのだけど、この憲法の定めがあるから、わかりにくいのだけど、毎日の生活があるし、そして、この憲法の条文があるから、「人権侵犯」に対して、(その実効性については、場合によって違うかもしれないけれど)、正面から抗議できる。
だから、自分が尊重されないような状況で、これは「人権を侵害された」というときに初めて、こうした憲法の条文の意味や、有り難さのようなものを感じられるのかもしれない。
この「思想」も、もちろん急に誕生したわけでもなく、そこには「歴史」がある。ただ、それについて、フランス革命、といった大きな単語が頭に浮かぶのだけど、そこから始まったとしても、すでに200年以上の年月がある。
しかも、その間には、さまざまな大きな事件、さらには、大きな戦争さえあって、その中で生き抜いてきた「思想」であるということは、そこにおそらくは、「こうあってほしい」といった、それこそ命がけの願いが形になったものかもしれない、とも思える。
日本でさえ、「天賦の人権」という思想が入ってきてから、100年以上になるものの、戦前の日本で、この基本的な人権が保障されていたとは言えない。
それでも、もしこの「天賦人権説」のようなものを否定するのであれば、この200年以上の歴史に対して、その蓄積をひっくり返せるような強くて緻密な思想をもとにするべきだと思うのだけど、前出の自民党議員のような言動に、申し訳ないのだけど、そんな力は感じない。
ただ、一般的にも、「人権」の「現在地」は、この自民党議員の発想に近いのかもしれない、という話も聞いたことがある。
人権の臭い
作家・中村文則が自身のブログに、大学生活の頃からの話を書いている。長くなるが、この時代のある部分が印象的に描かれているので、引用する。
この後編で、前出した自民党議員の発言と、このブログに登場する「二人」の発想は、とても似ている印象がある。
自民党憲法改正草案は、イラク人質事件よりも8年後のことになるが、こうした「人権の臭い」といった発言をする人が存在するのだから、自民党議員の「人権を否定するような言葉」は、こうした、一般の空気を読んだ可能性もある。
だから、決して、一部議員の言葉と軽視もできないように思うし、さらに自民党憲法草案が、そうした一般の思想も汲み取って形にしたものにもなっているような気がするから、それだけに、とても根深く、その分、怖さも感じる。
「戦前」と「戦後」
この傾向は、実は、もっと以前から始まっていると指摘するのは、前出の古谷経衡氏だった。
「戦前」と「戦後」の連続性については、いろいろなところで指摘はされてきたのだろうけれど、それは専門的で正確なことだけに大きなが流れがつかみにくかった印象がある。
だからこそ、これだけいい意味で大掴みに提示されたことで、改めてその連続性について、明確になったように思えた。
そうであれば、イラクの人質事件のとき、バッシングをした人たちも、「人権の臭いがする」と発言した若い男性も、実は、そうした日本社会の構造に、より素直だった、というだけなのかもしれない。
基本的人権
もちろん、「人権の臭いがする」という発言をした青年に対しても、「自由に発言できる」といった、基本的人権が守られているのは間違いない。
そして、普段は当たり前に維持されていることは、あまり意識もしない。
本来、民主主義の先進国なら「人権教育」がもっと行われているはずだから、もしそうだったら、こんなに「人権」という言葉に過剰に意味を見出し、もしかしたら特殊な思想ではないか、と思うような人も少ないと思う。
(ところで、古谷経衡氏が、著書の中ですすめていたのですが、保守を考えるのであれば、必読ではないかと思いました)
ただ、当然だけど、フランス革命以来、特に現在「先進国」と言われている国であれば、「保守思想」を持つ人間でも、「基本的人権」を否定したり、制限したりする人間の方が、どうやら特殊らしいというのは、少しわかってきた。
どれも、剥奪されたり制限されたら、人生が変わってしまう。それに、想像もできないほどの苦痛を味わうと思う。
改めてみると、本当に人の基本を支えているものだと感じる。
義務と権利
義務を果たしてから、権利を主張するべきだ。
一見正しそうで、「人権の臭いがする」という青年も、こうした主張をしていたようだし、自民党議員も、こうした発言をしていたはずだ。
だけど、少しでも考えたらわかるけれど、義務が果たせない場合がある。
生まれたばかりの赤ん坊がそうだし、長生きをして体がうまく動かせなくなることもある。病気になったり、ケガをしたり、本人に全く落ち度がなくても、そういう状況になるのは、誰もが知っていることだと思う。
だから場合によっては「義務を果たさないと権利を主張してはいけない」という条件がつけば、永遠に権利が認められないことも珍しくなくなる。
それは、やっぱり不自由で辛く、嫌な世の中だと思う。
まず基本的人権が保障されていれば、こうして義務が果たせない場合でも、その人の存在が踏みにじられるようなことはない。だけど、もし、基本的人権が制限されたり、認められていない状況では、どのように扱われるかわからなくなる。
それは、歴史的にも、とても素朴すぎる言い方になるけれど、権力によって力がない人たちが、ひどいめにあってきたから、その暴走を止めるために「憲法」というルールによって歯止めをかけた、ということになるはずだ。あまりにも粗い捉え方だけど、それが「立憲主義」の基本ではないか、と思っている。
だから、今も普段は意識していないけれど、基本的人権の保障があるからできていることが、もしも基本的人権が制限されたら、途端にできなくなり、そのとき初めて「基本的人権」が保障されている有り難さがわかるのかもしれない。
自由に考えられなくなったら、とても辛い気がするが、例えば戦争中の国だと、報道を通してでしかわからないけれど、とても自由に発言できるような状況には思えない。
私自身は、人権のことを、あまり理解していないのかもしれないが、やはり「基本的人権」は守られてほしい。それは、本来ならば、特殊な思想ではなく、現在の憲法の下では、ごく普通の考えなのが改めてわかる。
基本的人権が制限されるようなことになったら、その時こそ、現在の国際基準だと「先進国」ではなくなるのだと思う。
行き過ぎた「個人主義」
時々、主に政治家や、もしくは、社会的に力を持つ人から、「行き過ぎた個人主義」という言葉が聞かれることがあった。それは、政治的な意味合いの前に、発言する人の、「人をコントロールしたい欲望」のあらわれのように思うこともあった。
(このブログ↓では、どんな人が「行き過ぎた個人主義」という言葉を使ってきたかをまとめてくれています)
それを聞くたびに、違和感が強めに出たのは、「個人主義」が行き過ぎた状況に遭遇した記憶がないからだった。
「行き過ぎた個人主義」が、本当に日本社会に浸透しているならば、どうして、このような「校則」が今もあって、実効力を持っているのだろうか?
こうした場面↑では、「行き過ぎた個人主義」の影すらなく、ここでは厳密に言えば「人権侵犯」が行われているといってもいい。今もこうした社会なのに、どうして「行き過ぎた個人主義」などと、ありもしないことが言われるのだろうか。
「行きすぎた個人主義」というのは、利己主義のことを指すようなのだけど、憲法改正、という動機のために、道徳と憲法の混同はあえてしているのだろうか。そうであれば、「行きすぎた個人主義」というのは、「憲法改正」という目的のためにつくられた「存在しない敵」という可能性はないのだろうか。
「世間」のルール
ただ、確かに「世間」という視点から見たら、「行き過ぎた個人主義」という発言も、それほどおかしくないのかもしれない。
この著者は「世間学」の研究者という側面があり、今も、日本の中で、人々を最も強力に抑圧しているのが「世間」である、という分析をしていて、それは、とても説得力がある。
同時に、ここで語られている「世間」の理屈は、ここまで挙げてきた自民党の政治家の発想ととても似ていることに気がつく。
そうであれば、「世間」に支配された国で、その「世間」のルールに精通する人たちが、長く与党であるのも自然なことのようにすら思えてくるが、これは言い過ぎだろうか。
そして、当然のことながら、「行き過ぎた個人主義」と口にする人たちには、「基本的人権」の意味も見えていないと思う。
基本的人権の「自主規制」
ただ、「行き過ぎた個人主義」という言葉が長年使われ続け、その言葉が本当に具体化されているのかもしれない、と思えたのは、今年になって「教育と愛国」の上映会とトークショーを見てからのことだった。
映画の内容は、2006年に教育基本法が改正されたあと、やはり以前よりも政治が教育に介入したような状況になっているのではないか、という印象だったが、それよりも怖さを感じたのは、そのあとのトークショーでの、現在の教育現場でのエピソードだった。
そこで話された事柄は、教育の現場では、すでに「基本的人権の制限」がなされていて、その結果、そこにいる人たちは(学生も含めて)、そのことを内面化し、その結果、まるで「基本的人権の自主規制」が行われているようにも思えた。
やっぱり、それは反射的に怖いと思えることだった。
「人権思想」の二重構造
こうした道徳と憲法を混同した「行き過ぎた個人主義」という批判ではなく、民主主義自体を、正面から思想的に批判し続けている人もいる。
例えば、「基本的人権」も、生まれながらに誰もが持っている権利という天賦人権説がある一方で、「基本的人権」という権利は、憲法で保障されたルールという見方もあるということについて、著者は、こう指摘している。
そして、このようにも述べている。それは、考えてみれば、当然のことかもしれないと思える視点だった。
さらには、民主主義そのものへの言及もある。
実は、民主主義の、こうした限界を踏まえて、それを体現しているのが、現在のドイツなのかもしれない。
憲法改正ができない、というのは、民主的な原理から言えば矛盾しているけれど、過去のことを反省し、おそらくは「有権者ひとりひとりが賢明になる社会など永遠に来ない」を覚悟を持って前提としなければ、どんな時でも基本的人権は守る、という取り決めはできないと思う。
こうした国が存在する以上、日本が、こうした選択をするのも不可能ではないはずだ。
「人権」の「現在位置」
今回、この記事を「前編」と「後編」まで使って書いたのは、「人権機関」という言葉を恥ずかしながら知らなくて、それで、「人権」の「現在地」は、どうなっているのだろう?と思って、少しでも調べて、考えてみたくなったからだ。
そうしたら、歴史的にみても、日本の場合は「戦前」と「戦後」がかなり接続しているといっていい状況がある、という見方も改めて知り、そこに説得力を感じ、そういうことであれば、「人権」について、本当に根付いているわけもなく、だから、「人権機関」ができる可能性は、現時点では、とても低いことを、納得させられた気がした。
その上、「人権」が語られるときに必ず出てくる「天賦人権論」も、改めて考え直した方がいいのかもしれない、という「二重構造」への指摘もあった。
この思想は、ある意味では純粋で、理想的な響きもあり、だからこそ、人を熱狂にも導けたのだとは思うし、私のような無知な人間が簡単に疑問を持ったり、ましてや否定できることではないと思う。
ただ、この思想は、権力によって否定されると、とても弱い部分があるようだ。それは、自民党の議員が、Twitter上での発言であっても、生まれながらにある権利として考えないようにしたいという指摘は、実は、弱点をついている、と言ってもいいのではないか、と思えてくる。
「基本的人権」に関しては、21世紀の現時点では、「先進国首脳会議」に参加している国でありながら、国際人権規約の批准をしていながら、その実効性に関して、国際人権委員会の再三の勧告にも、それに対応するような対策をとっていない。
つまりは、「人権」について、日本という国では、それが保障されている憲法を持ちながらも、今も十分に保障されているかどうかも定かではない。
そして、その「基本的人権を尊重するという意識」は、おそらくは日本に住んでいる多くの人にとっては、それほど大事なことではない。それは、自分自身が、調べる前は、「人権」について無知であったし、関心も持てていないことが、証明しているように思う。(少し調べ、考えたくらいでは、まだ足りないとしても)。
だから、まず、今の状況は「人権」という視点から見たら、日本は、完全に遅れているどころか、逆コースをたどりかねない危うい状況にある。
まず、それを認めて、そこから始めるしかないのだと思う。
これからのこと
現時点で、基本的人権が認められている世の中に生きてきて、それは、普段は意識していないけれど、もしも、それが制限された社会になったら、とても苦痛であろうことは、予想がつく。
そうであれば、「天賦人権説」が、現在の日本で共有できるとは限らないので、基本的人権は取り決めに過ぎない、という前提に立ち、だからこそ、憲法を守ることを改めて決意し、特に、その基本的人権について保障されている条文については変えないことを国民として希望し続けた方がいい。(今のところ、どうすればいいのかは、よくわからないけれど)
個人的には、それほど意識が高く行動をすることは、これからもできないし、「基本的人権」について、ずっと考えていくことも難しいと思うのだけど、「基本的人権」が、今も決して盤石ではないこと。それに、黙っているだけで、社会的に力を持っている側の人が、親切にも保障してくれるわけではないことは、意識した方がいいのかもしれない。
「基本的人権」は、この国ではとても脆弱で、かなり危うい根付き方で、油断をすると、気を抜いたら制限されるような状況で、私のように「基本的人権」への関心もそれほど高くない人間が(おそらく)ほとんどなのが「現在位置」だと思う。
それでも、これから、「基本的人権」は、単なる取り決めで、現状では憲法によって、ようやく守られている人工的なものだという自覚と覚悟を持つことからは、始められると思う。
変化
最近、旧ジャニーズ事務所の性暴力の問題で、思った以上にスポンサー企業が素早い対応をした。
江戸末期以来、変わる時は、ずっと「外圧」なのが、日本という国だった。
そればかりに頼るような状況自体は、あまりいいことではないけれど、「人権問題」も、外からの視線や圧力が、今後も影響するのは間違いないようだし、これ自体は、ここのところはあまりなかった「変化」だとも思う。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。