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読書感想 『新写真論 スマホと顔』 大山顕 「〝生命体〟になったかもしれない写真」

 「写真論」という題名がついているが、ここでは、どうすれば「いい写真が撮れるか?」とか「どのような写真が優れた写真なのか」といった話は、ほとんどされていないと思う。ただ、厳密にいえば、それに近いことが書かれていたりする部分もあるのだけど、この著者は、「写真に一番近いところに居続ける存在」という意味での「写真家」で、その見せてくれる世界は、たぶん未知のものではない。見ているはずなのに、見えなかった視点を、示してくれているだけなのかもしれない。


カメラの変化の歴史

 空気のように、という言葉があって、それは、長年生活も人生もともにしてきたような夫婦が、お互いの存在を表現する時に使われて、それほどいい意味合いだけで、使われていないと思うのだけど、空気はないと生きていけない。

 たぶん、著者にとって、「写真」は空気のような、ごく当然で、しかもないと生きていけない存在だと思うが、そうした重い表現では、とらえきれないとも、すぐに考えさせられる。たぶん、もっと自然なものなのだろう。

 著者は、1972年生まれ、この世代は、生まれた頃からカラー写真で撮影されているのが一般的になった、という。それ以前は、小さい頃は白黒写真だった。そして、著者の育っていく時間の中で「写真」は、さらに変わっていった。

 フィルムと一体化していて、使い捨てのように使えるカメラ「写ルンです」が出たのが1986年デジタルカメラが、一般的になったといわれているのが1990年代後半からだった。携帯電話にカメラがついたのが2000年の頃で、スマートフォンが登場したのが2007年のことだった。この流れの中で、著者は、工場を撮り始めて、そののちに団地を撮り続けている頃のはずだった。

 この時間の流れは、誰にとっても、写真が空気のようになっていく時代でもあったと思う。
 ただ、それは写真の変化、というよりは、主に撮影機器、カメラの変化でもあった。

デジタルカメラの衝撃

 この本が出版されたのは、2004年。デジタルカメラが一般化され、新聞社や出版社から「暗室」がなくなってきた頃のはずで、このサブタイトルに「デジタルは写真を殺すのか」とあるように、デジタルカメラへの変化は必ずしもポジティブなものとして捉えられていない。

 今振り返ると、それは「カメラ」という撮影機器の変化であり、フィルムという制約がなくなった分、比喩的にいえば、無限に撮影ができることによって、決定的瞬間という価値や、操作の難しさがあるカメラを扱えるという意味でのプロの写真家、という存在がなくなるのではないか。そんな恐怖心が、この本の底には流れているように思う。

 著者の飯沢耕太郎は、1954年生まれ。写真評論家であるものの、生まれた時は、白黒写真しかないはずで、そこからカラー写真、写ルンです、デジタルカメラ、という歴史を順を踏んで見てきたはずだ。この2000年当時での変化を肌で感じたのは、著者が50代を迎える頃だから、その変化が、よりショッキングだったのではないだろうか。

 それは、写真(決定的瞬間も含めて)が、誰でも撮れるものになっていくことへの違和感だったのかもしれない。

スマートフォンとSNSによる写真の変質

 「新写真論」の著者・大山顕は、写真家の弟子になるといった古典的な専門家への道筋ではなく、個人的に、工場や団地やジャンクションや、自分が撮りたいものがあって、それを撮るためにカメラが必要で、その写真の蓄積によって写真家になった人物に思える。

 だから、より重要なのは、被写体であって、カメラという機械ではなかったのではないだろうか。そして、それは、今、カフェに入り、「かわいい」デザートを撮影してから食べる人たちの発想と似ているように思え、だから、大山は、未来の写真のことも語れるのかもしれない。

 ぼくはスマートフォンによって、ようやくカメラは完成形に近づいたと思っている。(中略)何も考えずに撮りたいものに向けてシャッターを押せば、望み通りの写真が撮れる。そうなるべきだ。
 そうなったらいったい写真家がやるべきこととは何なのか。それは「その時間、その場所にいる」ということだ。 

 どうすればいい写真を撮れるのか、といった従来の「写真論」とは、すでに質の違う話になっていて、著者にとっての「写真論」の「新」の部分は、スマートフォンとSNSが一体化した時代以降のことのようだ。

 スマートフォンで撮られSNSがシェアされる画像に対しては、従来の「写真」とは異なる名前を与えるべきかもしれない。 

 こういった見定めが、独特でありながら自然で説得力があるように思えるのは、ここで断片だけ述べると、(たとえば、「写真に触れるようになったのは、衝撃的だ」といった話など)うまく伝えられないけれど、この著書の、豊富なエピソードと、魅力的な視点に触れたせいだと思う。

 だから、こうした終盤の、結論のようなところも、あっさりと飲み込めるような気がしてくる。

 撮影もその解析も完全にぼくらの目に触れることなく行われるようになって、写真の自立は完成する。そしてそれはすでに存在している。「写真とは何か」という問いに答えるのが写真論の使命だとしたら、以上がそれに対するぼくの答えだ。
 こんにちの写真とは、写真それ自体のシステムのことである。写真は人間のものではなくなったのだ。こんにちの写真とは、人間のためのものではなくなった、それ自体のシステムのことである、と。

 これだけを読むと、大げさにも響くのだけど、この本を読んでくると、納得感もあるし、写真というものが、すでに新しい「生命体」のようなものになっているのではないか、といった印象も深まってくる。



 現代で、写真を撮らない日のほうが、少なくなっていると思われるし、それをSNSにアップしない日は、もっと少ないかもしれない。そんな時代だから、特に、写真を撮ってSNSにアップすることに、あまりにも自分が振り回されているかも、と感じている人ほど、読んで欲しいと思える本だった。

 この前、noteの記事↑で、この「新写真論」を読まずにおススメするという反則をしたのですが、(すみません)それは、面白いに違いないという見切り発車でした。それは、間違っていなかったようで、少しほっとしています。

スマートフォンの写真と、noteの写真

 ここからは、少し蛇足ですが、「新写真論」を読んで、このnoteを利用するようになってから気になっていることを、新たな視点で見られるようになりました。それはnoteの写真についてだった。

 スマートフォンのサイズは風景写真にまったく向いていない。おそらく今後、「風景の人物写真化」とでも呼べるスタイルが風景写真のメインになっていくだろう。極端に抽象化され、見るポイントをわかりやすくひとつに絞った風景作品がすでに台頭し始めている。

 スマートフォンのサイズは小さい、その上で、写真は、縦長になっている。それと比べると、noteの見出し画像は、明らかに横長で、それはちょっと不思議だった。

 実は、縦長と横長の違いについては、橋本治が、たしか、この本↑の中で、こうした指摘をしている。

 橋本治によると、絵画、例えば浮世絵でも、横長と縦長がある。
 大きく区分けすれば、横長は風景。縦長は人の意志が反映されいているもの、ということになる。人間の目が、横に並んでついている以上、自然に見られるのは横長の画像であって、ぼんやりと鑑賞できるが、縦長は何かしらの意図を働かせて見ることになる、といった話だった。

 分かりやすい例だと、同じ歌川広重でも「東海道五十三次」は、横長の画面で風景だが、「江戸名所百景」は、縦長で、構図にいろいろな仕掛けのある「風景の人物写真化」のように見える。


 スマートフォンの写真が、おそらくは大勢を占める中、インスタグラムの正方形よりも、さらに横長の写真を使用しているnoteの意図は、思った以上に、遠い射程を意識している可能性がある。

 それは、今は止まらない流れである「風景の人物写真化」とは逆の、「従来の風景写真の復権」までを視野に入れているのかもしれない、などと、「新写真論」を読んだあとだと、ふと考えたりもする。つまり、横長の、リラックスして見られるような写真を、インターネット上に意図的に立ち上げる、という狙いがあるのでは、と思うようなきっかけを、「新写真論」は与えてくれたのだった。



(参考資料)



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「読書感想」

「言葉を考える」

「noteについて。書くことについて」

「コロナ禍日記 ー 身のまわりの日記」①2020年3月

「いろいろなことを、考えてみました」



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