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【短編】共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜⑨

誰でもない誰かの話

⑧はこちらから。


修理に出していた弓を受け取った。午後2時。

街の外れの小さな楽器屋さんは、有線の演歌が流れる。店主のおじいさんは時々その歌を口ずさんでいる。

音を出すには、松脂が必要だから意を決して買うことにした。

「松脂の付け方知ってるのかい?」
「やってみれば思い出すと思います。」
「弓貸してごらん。」
僕に渡してくれたばかりの弓を貸せという。僕は抵抗することもなくおじいさんに弓を渡す。おじいさんはお会計したばかりの松脂の包みを剥がす。
「こうやって、弓を張ってから、松脂に擦り付ける。やってごらん。」
「はい。」
言われる通りにやってみる。
「上手いね。」
「覚えていたようです。」
「忘れないでね。」
「はい。」

実家の自分の部屋に入る。午後3時。
ヴァイオリンをケースから出して弦を張り直す。YouTubeを見ればなんとなく弦は張れた。調弦の仕方も覚えている。
四年生の頃に使っていたものなのに顎と肩で挟んでみるとしっくりきた。背伸びして大人用のヴァイオリンを買ってもらったのを思い出す。ずっと使うと約束して買ってもらったのだ。
弓を滑らせチューナーで確認しながら音を合わせていく。正しい音になる。


左指で弦を押さえて右手で弓を滑らせる。

昔と同じ音だ。

指が動き出す。

「とおき、やまに、ひはおちて…ほしは、そらを、ちりばめ…ぬ。」

弾ける。
僕はまだ、僕の指はまだ、ヴァイオリンを覚えている。綺麗な音も、力強い音も、全部覚えている。

「ユキト、いたのか。」
無我夢中で気が付かなかった。僕の部屋の扉を開けて父が僕を見ている。
父は交代制で働いている。早番の日は、午後3時半ごろ家に帰ってくる。

「ごめん。うるさいよね。しまう。終わりにする。ごめん。」
たたみかけて謝るより他ないと思った。今更、ヴァイオリンを弾き始めてどういうつもりだと、きっとこの後冷たい目をされる。
「まだ、弾けるんだな、ヴァイオリン。」
僕の予想とは裏腹に父は、柔らかい表情を見せてくれた。
「弦、張り直して、弓も修理したから。」
父が部屋に入ってきてベッドに腰掛ける。
「聞かせてくれ。」
「え。」
「そうだな。キラキラ星かな。」
「…わかった。」

父は、僕がなぜヴァイオリンを直したのかとか、いつもどこで何をしているのかとかそんなことは一切聞かず、僕の奏でる音を黙って聞いていた。

昔を懐かしむようで、今を取り戻すようで。
「懐かしいな」
「うん。」
このまま、また、父との距離が縮まれば良いと思った。
「お父さん。」
「ん?」
「ごめんね、…ずっと。」
「…お互い様ってやつだな。」
僕の頭を少し遠慮したようにポンポンと触る。小学生の頃に戻ったように、もっと父と話したい。
「やっぱり、ユキトはヴァイオリンが上手だよ。」
「うん。」
誰の賞賛の声も要らなかった。父や母が喜んでくれるだけで良かった。才能があるとか、そんな汎用性のある言葉なんかちっとも嬉しくなかったんだ。
「また聞かせて欲しい。」
「うん。」
父にしがみついた。そんな僕を受け入れる父はとても暖かかった。


コンサートの前日。午前10時。
退院後始めて車を運転する。
心臓が飛び出しそうなほど緊張している。後ろの席に木村さんを乗せて会場の小学校までたった10分の距離なのに。それでも手汗でハンドルが信じられないくらいに濡れている。

「越智くん、会場に着いたら荷物運んでね。」

この信号は右だ。だからウインカーは下に。右手でゆっくりウインカーを下げる。

「楽屋にはミネラルウォーターを準備するのよ。ボルビックしか飲まないからね。」

青になったら、アクセルはゆっくり踏み込む。
青だ。ゆっくり。急発進にならないように。

「あと、ウエットティッシュも忘れないで。」

ここは追越車線に入らないといけない。
曲がるときに入っておけば良かったのに、すっかり車線変更のコツを忘れている。

「ねえ?聞いてる?越智くん?」

木村さんの声が近いけど、そっちに気を取られていては事故を起こしてしまう。車線変更に集中しなくてはいけない。サイドミラーもルームミラーも確認しても後ろから車は来ていない。ウインカーを出して車線変更に成功した。

「ねえ、越智くん!聞いてるの!?」

無事に右折して直進。目的地の小学校に辿り着いた。お疲れ様、僕。木村さんの話は何ひとつ聞いてなかったけど。駐車もうまくいった。自分を誉めて然るべき。

車から降りて後部座席のドアを開けた。
「ちょっと?私の話、聞いてた?」

明らかに怒りの様子を見せてきたから、少しからかってやりたい気持ちがこみあげてくる。僕は元来、少し性格が悪い。運転中に大したことでもない注文を付けてくる方がどうかしている。

「すみません。運転に集中していました。ひとつのことに集中しないといけなくて。
あ、言ってませんでしたっけ。僕、パニック障害って言う病気なんです。事故を起こさなかっただけでも良かったと判断してください。」
木村さんは、文字通り開いた口が塞がらない様子だった。
やがて考えがまとまったのか、更に怒りをあらわにした末の結末。僕の頬に木村さんの右手が飛んできた。つまりビンタってやつだ。

「あなたの仕事は私の言うことを聞くこと!!荷物!楽屋に運んで!」
他人のヒステリーを全身に浴びるのは生まれて初めてだ。こんな理不尽なことがあるんだと逆に笑いそうだ。
「それとあなた、綾くんに何を吹き込んだの?」
突然の問いかけに記憶の整理をする。レッスン生の男の子のことだ。知らないふりをしなくてはいけない。
「…誰ですか?」
「また、嘘をつくの?」
「どういったお話なのかわかりません。」
おそらく、綾くんはご両親に僕が撮った動画を見せたのだろう。だから、木村さんは立場が危うくなっているに違いない。
「今夜、少し話をしましょう。」
「時間外の労働は川内さんに怒られますので。」
「労働?それなら、川内さんに言っておくわ。」
「…そうですか。」
僕は、こんな自分勝手な人に振り回されてはいけないと自分に誓う。
口で反論する術を探しては心が揺さぶられてしまう。あえて、言われたことを受け止めないように、言葉を蓄積させないようにする。
僕の中に溜めていいのは、言われて安心した言葉だけ。

楽屋に荷物を運んで、明日木村さんが着るロング丈のドレスをハンガーにかける。真っ赤で右胸には堂々としたワインレッドのバラの花。袖はレースで、バラの模様になっている。
予備のヴァイオリンはケースから出さない。下手にいじらない方が賢明だ。
自販機でミネラルウォーターを買う。ボルビックを2本。楽屋のテーブルにウエットティッシュと一緒に並べて置いておく。

なんて真面目なんだろう僕は。少し疲れた。

廊下の椅子に腰掛ける。
会場からヴァイオリンとピアノの音がする。

木村さんのヴァイオリンの音を久しぶりに聴いた。やはり演奏は素晴らしくて、性格と技術は比例しないのだと思う。

少し休憩しようと目を閉じる。

足音が近づいてくる。無視して寝ようとするが、スリッパを履き慣れていないのか、リズムがおかしくて気になる。
「わあっ!」
明らかにスリッパの滑ってくる音と子どもの悲鳴のような声に瞼を開く。
目の前には片方だけのスリッパと、片方だけスリッパを穿いた女性。
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
何度も頭を下げるその顔を見て、僕は思わず、ふっと笑った。

ヴァイオリン以外のことは本当にちゃんとできない人だった。履き慣れない靴が苦手で、特にスリッパは上手に履けなかった。
僕にはそんなところも魅力的だったんだ。全く変わらない。

「大丈夫です。僕には当たっていません。」
「本当に…。」
「大丈夫ですよ。それより履き慣れた中履きを明日は用意することをお勧めします。それがあなたのためかと。」
彼女が顔を上げてまじまじと僕を見た。 

「うそ。」

驚いた顔に、また、笑ってしまう。声を上げて笑いたいほどだけど我慢する。
「越智くん?」
「はい。」
「なんで?」
「さあ…なぜでしょうね。」

彼女は困ると唇を尖らせる癖があって、僕はそれを見るたびに唇をつまみたくなったけど気持ちを抑えていた。
また、つまみたい気持ちが込み上げてくる。あの頃なら100歩譲って許されたとして、今は流石に訴えられそうだ。

「…仕事です。コンサートのいちスタッフみたいなものです。大した役には立たないのですが。」
「へえ。」
「まさか、あなたのコンサートだとは思わず…。」
「…随分、他人行儀だね。」
彼女が納得のいかない顔で僕を見つめる。
「他人ですし。おすし。」
「…何それ。」

僕の隣の椅子に腰掛けて横目で睨みつける。
「少し、ふざけてみました。」
「へえ。馬鹿みたい。」
「ふざけるとは、そういうことでしょう?」
「はは。」
「ふふふ。」
嫌いになった、僕にそう言った彼女とまさか笑って再会できるとは思ってもいなかった。

彼女は、僕の顔をじっと見て、僕の前髪を掻き上げる。
「顔、相変わらずかわいいね。」
「…恥ずかしいから、やめてください。」
見事に赤面する僕は年下であることを理由にされ、頭をもみくちゃにされる。
「ううっ。」
うめき声をあげて抗う。少し、戯れ合うように。
「やっぱり、わんちゃんみたい。」
彼女はケラケラ笑う。
「なんなんですか!久しぶりに会ったのに、馬鹿にしすぎです!」
「んー、よしよし。わんちゃん。」
頬を挟まれておでこをおでこに押しつけられる。
「やめろって!」
彼女はとても楽しそうで、本気で抵抗する気にはなれないから冗談のように少しだけ強く言ってみた。
彼女は僕の頭を優しく撫でる。
「ただいま、私のかわいいわんちゃん。」

嫌いになった、そう言っていなくなったのに。

何も言わずにただ、彼女を見つめた。
「そんな顔しないで。」
僕には返す言葉がない。ただいまに対してお帰りと言えたら楽なのに。心の奥で言葉がつかえる。

「元気?越智くん。」
「弓美と別れてから元気ない。」
「うわ、責任感じる…。」
「…冗談だよ。」
「はは。」
音を立てて崩れた僕の日常。原因の中心は、彼女がいなくなったこと。僕は彼女に依存していたのだ。

「ごめんね、私、うそつきなんだ。」
「え」
「ずっと、ずっと、越智くんに会いたかった。」
「嫌いになったって…。」
「そう言わないと、離れられないと思った。」
「本当に嫌いだったってこと?」
「違う。好きだから離れたの。」
言い聞かせようと僕をじっと見る。

「……難しい。よくわかんない。」
眉間に皺を寄せて子どものように拗ねてしまうのは僕の悪い癖だとわかっている。

こんな時、彼女は少し笑って年上の余裕を見せてくる。今もそう。スリッパもまともに履けないくせに。
「お母さんに今付き合ってる人に会わせなさいって、言われたの。」
「…え。」
「絶対に嫌だった。お母さんが言うには、自分の娘と付き合ってる彼が、本当に娘を大事にする人か見極めたいって。怖いよね。」

ある意味、木村さんらしいと僕は思った。
「私、越智くんと一緒にいた頃はお父さんと暮らしていて、お母さんにはあまり会ってなかったのに。私に彼氏がいることなんとなく勘付いたのかな。嫌だね、女の嗅覚。」

彼女の母親が木村さんであることは僕はわかっているが、彼女の姓は弦群で、木村さんはなぜ木村さんなのかは少しわからなかった。
「お母さんは仕事でずっと木村でやってきたからお父さんの姓は名乗らなかったんだって。
お父さんのヴァイオリンの方が私は好きだったから、お母さんから習ったことはなかった。
お母さんが私のヴァイオリンをあまりよく思ってないのは子どもの頃からなんとなくわかってる。
それでも小学生の頃レッスン室で時々ヴァイオリンを弾いて遊んでいたの。
そういえば、小さくてかわいくて指の綺麗な男の子が、時間を間違えて1時間早く来てしまったことがあってね。」


小学2年。父に送られてレッスンに来た僕は、まだ木村さんがいないレッスン室に入って全く知らない女の子に会った。とても背が高くてヴァイオリンを構える姿が美しかった。
「先生、まだ来ないよ。時間、あと1時間ある。」
「…どうしよう」
「オレンジジュース飲む?トロピカーナあるよ。」
「いいの?お姉ちゃん誰?」
「私?先生の子ども。君、名前は?」
「ユキト。」
「ユキトくんか。私、弓美。よろしくね。」
「うん!」
コップに注がれたオレンジジュースは、氷が入っていて冷たくて、落ち着かない僕にちょうど良かった。女の子は、聞いてと言ってアニメの音楽を弾いてくれた。

僕は木村さんの娘さんがヴァイオリンを弾いている姿を見ていたのにずっと忘れていた。


彼女は昔を思い出しながら、僕が木村さんに体を触れている姿も見てしまったことがあると話してくれた。
「私が、越智くんがあのユキトくんだと知って、母には絶対に会わせたくないと思ったの。
母は、あなたが来なくなってから、私のヴァイオリンも聞くようになって、やっぱりユキトくんには才能があったとか話すようになった。
母はユキトくんに触れなくなってストレスが溜まっていくのが私にはよくわかったし、そのストレスを私にぶつけてくるようにもなったから父と2人で家を出たの。」
「僕が、レッスンを辞めたから弓美にも迷惑をかけたんだね。ごめん。自分勝手で。」
「違うよ。私は、あなたが来なくなって良かったって思ったんだから。いじめられているのをわかっているのに助けてあげられないことが辛かったんだ。」
ため息をひとつ。彼女が俯いた。
「だから、母に恋人に会わせなさいって言われた時は、あなたを守らなくちゃと思った。母に会えば、母はあなたをまたいじめると思ったの。」
僕は彼女の言うことを自分の中で順を追って組み立ていく。
「それと、僕を嫌いになるのが繋がらない。」
「…ごめんね。私に恋人がいない事実を作るための、精一杯の嘘なんだ。あなたを忘れるために、国際コンクールに打ち込んでずっとスイスにいたの。」
思考が飛躍しすぎてついていけない。
ただ、僕を守るために彼女なりに頭を使った結果が嫌いになったという言葉を投げることとコンクールの優勝だった。
「だけど、やっぱり越智くんが忘れられなかった。」
彼女は自分の足を見る。僕も彼女の足を見た。未だちゃんと履けていないスリッパを諦めたストッキングに包まれた足指。
「弓美、ストッキングだから上手くスリッパが履けないのかもしれないね。」
センタープレスのパンツを履いた脚をバタバタさせている。
「意地悪言わないで。」
また、唇を尖らせる。
「僕もね、弓美が忘れられないよ。」
少し頬を赤らめた。
「今でも、…好き。」

彼女の求めに僕は首を横に振る。

「辞めといた方がいいよ。今の僕は、弓美をがっかりさせるから。」
「私のかわいいわんちゃんでしょ?」
「違う。つぎはぎだらけで汚い。」

自分で切った首筋の傷跡を見せる。どんな顔をしたかは見なかった。でも、泣いているのがわかった。

「ごめんね、越智くん。私が隣にいなくて。」

僕がこうなったのは彼女のせいじゃない。彼女と出会えたことは間違いなく僕にとって幸せなこと。

「僕は弓美と一緒にいた時間とても幸せだった。また弓美のヴァイオリンが聴けるのが嬉しいよ。」

求めることにはもう疲れている。
求めなくてもただそこにいると知っているだけで幸せだ。
「コンクール、おめでとう。」



彼女の泣き声に謝る言葉が見つからなくて、隣に座っていた。

共通世界 〜マシュマロにピーナッツとアルコール〜

⑩につづく

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