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【短編】共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜⑧

誰でもない誰かの話

⑦はこちらから。


ヴァイオリン教室。
その看板は少し薄れているものの僕が小学生の頃、毎週見ていたものと変わりなかった。

木村さんに呼び出された午後1時。

午前中にiPhoneが鳴って夢から現実に戻されてそのまま電話に出た。木村さんは極めて静かに話し、僕は言われるままに「はい」と返事をした。

ベッドから起き上がってシャワーを浴びて首の傷跡は隠す必要があるだろうから襟の大きめのシャツを着た。僕にしてはちゃんとした服。

仕事をする。
そんな心算でここに来た。

家屋から音色が聞こえる。きらきら星。きっと小学生が習いにきているんだろう。
レッスンの邪魔にならないように玄関の引き戸を開けて中に入った。

何も変わらない。

時が戻ったようだ。いや、ここだけ止まってるんだ。

レッスンが終わるまで玄関に座って待っていることにした。木村さんの声と、音色が交差しているが、音色が聞こえなくなった。弾くのを止めたのか。

玄関からすぐのレッスン部屋。襖を開ければ中が見える。座ったまま襖をずらす。

部屋には木村さんと小さな男の子。1年生くらい。学校の制服を着ている。その体に木村さんが触れている。

何も変わっていない。

「姿勢が大事なのよ。」
小さな体に細く長い指を這わせている。
何も言わない男の子がその行為にじっと耐えているように見える。顔が強張って今にも泣き出しそうなのに誰も助けてくれない。閉ざされた世界。

僕は僕を救えなかった。隙間から見えるこの光景に思わずiPhoneを向けた。

「あなたには才能があるわ。だから、ちゃんとがんばるのよ」
木村さんのその声に細める目に幼い頃の僕の記憶が蘇る。才能があるから木村さんから逃れられない。
「パパにもママにも喜んで欲しいわよね。」

男の子の制服のシャツのボタンを外す。僕が見ているとも知らず。男の子の体に舌を這わせる。僕は、思わずiPhoneを落とした。

先生が男の子の服のボタンを締め始めて、僕は襖を音を立てないように閉めた。iPhoneは拾ってポケットにしまう。僕が見ていたことがバレないように。僕は僕で必死だ。

襖が開く。
「来ていたの?」
木村さんが僕を見下ろしている。
「すみません、つまづきました。」
「生徒が驚くじゃない。」
木村さんの後ろには男の子が立っている。僕は取り繕って笑顔を見せた。
「綾くん、ちょっと休憩ね。リンゴジュース持ってくるわね。」
「はい。」
男の子は綾くんと呼ばれ、とても物静かに見える。
「越智くん、仕事の資料持ってくるから、待っていて。」
「はい。」
木村さんは、ダイニングを抜けて奥の部屋へ。僕と綾くんは2人きり。少し手持ち無沙汰だとは思いながらもレッスン室に入る。

やはり変わっていない。スタンドピアノがあって、壁際に2脚椅子がある。壁面には教材の楽譜と、マガジンラックには早く来てしまった生徒の暇つぶし用のガラスの仮面とドラえもん。

「お兄ちゃんも生徒?」
「いや。僕はお仕事で。」
「ねえ、ちょっと見て。」
男の子は僕の前でヴァイオリンを構えて見せた。
「姿勢悪いの?僕。」
すっと、構える出立は僕の見る中では完璧だった。
「とてもかっこいいよ。姿勢悪くないよ。」
「そうだよね。僕、ちゃんとやってるのに。いつもお仕置きされる。」
「ん?」
「肩とかぐいぐいされたり、脚もお尻もつねられる。」
俯いていじられた場所を教えてくれる。お仕置きという体裁のいい言葉で体を触られていると、僕に訴えているのだ。

「お父さんやお母さんは知っているの?」
「先生が上手になるためだから言っちゃダメって。体がザワザワして嫌な気分になるの。嫌なの。嫌なの。」
綾くんが小さな声で一生懸命話してくれる。木村さんがいつ戻ってくるか分からない。

「さっきも嫌だったね。」
「信じられないんだから。お腹舐めるの。」
「怖かったね。」
僕に自分がされたことを話していることが木村さんにバレてはいけないとわかっている。滲む涙を服の袖で静かに拭う。
「綾くん、ヴァイオリンは好きなの?」
「…好き。綺麗な音出したいの。」
「うん。先生は木村先生だけしかいないわけじゃないよ。」
「そうなの?」
「もっと大きな教室だってあるんだ。お父さんとお母さんにお話ししてごらん。違う先生に習えるようになるかもよ。ここで嫌な気持ちでいちゃダメだ。」
「信じてくれるかな。」

ポケットのiPhoneが、ずっと録画しっぱなしになっている。
「綾くん、スマホ持ってる?」
鞄から出してくれたのは偶然にもiPhoneだった。どんなご両親なんだろうと少し疑ってしまうが、エアドロで動画を送った。
「お話ししても信じてくれなかったら、これを見せるといいよ。そしたら、絶対に信じてくれるから。」
「怒らないかな。パパとママ。」
「大丈夫。パパとママは綾くんの味方だよ。」

僕がこの子を救えるわけもない。だけど、僕と同じ結末にはなってほしくない。

「ねえ、きらきら星聞いて。」
すっと構えて弦に弓を滑らせる。弾むような音色に僕は手拍子をする。楽しそうに一生懸命、左指を動かし右手で弓を滑らせている。演奏を終えた顔には自信が満ちている。
「どう?」
「とてもステキだよ。」
「うん!」

綾くんはお母さんが迎えに来て木村さんにさようならを言って帰っていった。

僕は木村さんから資料を渡された。
演奏曲が書いてあったり、楽屋に必要なものだったり。
「娘と一緒に弾く曲が2曲。」
ため息をついて珈琲を口に含む。
「私と娘じゃニュアンスが違うのよ。私があの子に合わせて弾かないといけないのかしら。」
僕は娘さんがどんな人なのかよく分からないから、黙って聞いている。

「ジュピター…。ロンドンデリー…。弾いてもいいけど私の本質じゃないのよね。娘に寄せてるのよ、気に入らない。」
聞く人にとってはどうでもいい話だろう。僕は、木村さんの言葉にあくびが出そうだった。だいたいコンサートの主役は娘さんなんだし。

「主催者の教養の無さが伺えるわね。」
つまりは、川内さんが木村さんの本質を理解していないと僕に八つ当たりしているということ。
「黙ってないで何か言ったら?」
僕は資料を読み込んでいるふりをして、
「…楽屋に必要なものは、理解できました。差し入れは受け入れていいのですね。」
理解したように話す。
「そうよ。」
「わかりました。」
「それだけ?」
「はい。」
「あなた、私と仕事するのよ。」

明らかなイラつきを見せてくるので僕も少し腹が立った。
「ピアニストの方とのリハーサルは、何時が良いでしょう。川内さんとも擦り合わせる必要があります。前日は、通してリハーサルをするそうです。楽屋には何時に入りますか?」
だけど、ここに個人的な感情はいらなくて、ただただ事務連絡をすることに徹する。僕は、自分の感情を殺すことに慣れてきている。社会の片隅にそっと生きるために必要なこと。

「そんなこと、そっちで考えなさいよ。それを私に伝えてくれたら合わせるんだから。」
「では、そのようにお伝えします。他には何かありますか?」
「空気清浄機を置いてちょうだい。加湿器も忘れないで。ドレスはシワがよらないようにハンガーにかけておくのよ。」
「わかりました。」

主役の母は、主役よりも高みにいなければいけないのだろうか。演奏曲は3曲。
演奏技術のレベルの高い曲が並ぶ。ただ、素人向けではない。開始5秒で飽きてしまいそうなクラシックのマイナー路線。自分を見せつけたいだけのエゴイズムの塊だ。


対する娘さんの演奏曲は…当日のチラシを見て僕はそういうことかと、今まで気づかなかったことに笑うしかないと思った。

僕の忘れられない人が堂々とした姿で印刷されている。

弦群弓美 ふるさとコンサート2022

僕はとても鈍感だ思う。

ティボール・ヴォルガ シオン国際ヴァイオリンコンクール優勝。 若手のヴァイオリニストが挑戦する国際コンクール。

もう手の届かない存在になった。
僕がリハビリをしている間に遠くに行ってしまった。

路上でヴァイオリンを弾いていた彼女はどんな曲でも弾いていた。ロックにポップス、オルタナティヴ、演歌に歌謡曲まで。人気の楽曲も定番のクラシックも。弾けないものはないのではないかと思った。

彼女が木村さんの娘だと気づく瞬間なんて全くなかった。

ここにいた彼女には一度も会ったことがなかった。ここに来ていた頃僕より2つ年上の彼女がヴァイオリンをやっていることも知らなかった。

「木村さん、それではまた。」
僕が帰ろうと玄関を開けると木村さんは
「あなた、いつまで私に嘘をつく気?」
僕が、木村さんの生徒であったことには間違いがない。その記憶の正しさを僕に押し付けてくる。

「嘘などついていませんよ。」
僕は、この小さな嘘は突き通そうと決めている。
木村さんの元生徒ではない、という嘘を。



コンサートが終わるまで、アルバイトには行かなくていいと川内さんに言われていて僕はそのようにする。

2つのことを抱えるときっと僕が破綻するから。

木村さんに言われたことを川内さんに話すとふふんと鼻で笑うようだった。
コンサートのチラシを見ながら川内さんはピーナッツを食べる。
「映画の主題歌も演奏しているそうだよ。」
弓美の写真をとんとんと突きながら言う。
「どんな映画なんですか?」
「桜の舞う日におじいさんと犬が死ぬ映画。」
「……良い話の映画ですか?」
「おじいさんには過去に犯罪歴があって…犬は殺処分寸前の…。」
「へえ。」
「ね。見てみようか。ネトフリにあるかな。」
「残念ながら、死ぬ話はまだ見たくありません。」
鬱の治療中であり、人が死ぬのを目で見たら映像であれ自分の死を想像してしまうからなるべくそういった類のものは避けていた。
「そう。」
「はい。」
川内さんはウイスキーを飲みながら機嫌が良さそうだった。

「しようか、越智くん。」
川内さんがこんな風に僕を誘うのは珍しくて
「……良いですが。」
僕は少し戸惑った。
「気分じゃない顔だね。」
川内さんは機嫌がいいんじゃない。こんな時は、きっとイライラしている。木村さんのことが面白くないのだろう。

「すみません、面白くない話をして。」
「…ほんとうだよ。あんなおばさんどうでも良いでしょ。」
明らかなイラつきで、僕の唇に唇を重ねる。ピーナッツの味が苦い。ウイスキーの残り香が喉の奥を熱くする。
「川内さん。」
「何?」
首筋の傷跡を舐められる。
「僕は木村さんから虐待を受けていました。」
「え」
「今日、同じ目に遭っている男の子に会いました。その子は、僕と同じようにヴァイオリンをやめることにならなければいいと思っています。」
頭を包み込まれる。
「どこ触られてたの?」
「全てです。本当に嫌でした。その娘さんが彼女であり、弦群弓美さんで僕は頭がおかしくなりそうです。僕はどんな顔で彼女に会えばいいのでしょうか。」
「彼女のことは好きだったの?」
「大好きでした。嫌いになったと言われても今でも忘れられません。おそらく今でも大好きです。」
「越智くんがヴァイオリンをやっていたことは知っている?」
「知りません。彼女には全く関係のない僕の過去です。」
「ごめんね、君に俺がイラつくのは違うよね。怒りに任せて抱くところだった。ごめんね。」
僕を抱きしめる川内さんが僕の肩に涙をこぼしている。どうして泣いているんだろう。川内さんの腕の力が緩むと不安になる。

「あの、川内さんもっと強く抱きしめてもらっていいですか。」
「え」
「人は優しい体温で暖かいと記憶したいんです。」
「なら、越智くんもやりなよ。」
「え」
「いつも俺しか抱きしめてない。君もしがみつけばもっと暖かいよ。」
川内さんの肩に手を回した。久しぶりに人にしがみついた。子どもの頃、父にしがみついていたことを思い出す。
「いいでしょ。」
「はい。とても。」
「お酒くさくてごめんね。」
「いえ。僕にも飲ませてください。」
「どうしたの?」
「たまには酔ってみたくて。」
「いいね。」

父と母は、僕がヴァイオリンを辞めて仲が悪くなった。父は僕と口をきいてはくれないし、母も僕と距離を取るようになり、僕は家にいても1人だった。家族はバラバラで辛うじて共に食卓を囲むだけだった。

だから余計に弓美と出会えて僕の毎日は明るく見えた。彼女の弾くヴァイオリンが好きでたまらなかった。とても贅沢な時間だった。

僕には受け入れるのが難しいウイスキー。少しだけ飲んでみる。固いような渋いような棘のあるような味が僕の記憶を呼び起こす。

「好きです。父も母もヴァイオリンも彼女も。みんなは僕を求めなくなりましが。僕は、今でもずっと好きなんだと思います。」
「そう。」
川内さんがふっと笑って僕にマシュマロを2つ差し出す。
「色んな話をしてくれたからご褒美。」
「ふふっ。ありがとうございます。」

口の中に広がる渋みを緩和してくれるマシュマロの甘さ。

僕の壊れてしまった小さな世界。
僕が壊してしまった小さな世界。

共通世界 〜マシュマロにピーナッツとアルコール〜

⑨につづく

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