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あれから9年

東日本大震災から今日で9年。

寒い寒い、曇天の、雪の降る日だった。

思い出しながら書く。
当時私は高校3年生で、卒業式も終えていた。同年代の親戚の家に集まり、お菓子を作ったりお喋りしたり、いつもと、本当にいつもと何ら変わらない日を過ごしていた。

お昼が過ぎ、床に寝そべっていた所、地震が来た。地元は特に地震が多い地域で、揺れ始めはまたいつもの地震かくらいに思った。

強い揺れが止まらない。気持ち悪い、嫌な揺れがいつまでたっても止まらない。とにかく物が倒れないようにタンスを押さえたりするが、立つのもやっとなほどだった。いとこの1人が、泣き出した。これはただごとではないと思いながらも、なにも考えられなかった。

揺れから5分ほどして、隣の建物で仕事をしていた叔父が来た。私の親は親族経営で店を営んでおり、幸いすぐ近くにいた。慌てて部屋に入ってきて、行くぞ、と言われた。
親の会社は海町にあり、海岸からそう離れていない場所だった。昔から津波の被害もしょっちゅうあるようなエリアなので、皆急いで避難することになった。

10分程経ったころだろうか。今度はサイレンが鳴り始めた。近くの消防団から出動した消防車が、近隣住民に高台へ逃げることを促しながら町内を走り回っていた。親戚たちはすぐさま踏切のある線路の所まで上がった。

私の実家は海が見えないようなうんと高台にあったので、母親と一緒に車で妹を迎えに行きながら自宅へ向かった。そして実はこの辺で記憶が曖昧になっている。どういうルートでどのように自宅に戻ったか、その時何があったか憶えていない。

とにかく思い出せる範囲だと、その後家に着くと実家の猫が怯えて丸くなっていた。二階にある自分の部屋に行くと、勉強机に上がっていた教科書やら貯金箱が床に散乱していた。私の寝床の上には、タンスの上にあった重い1枚板が落ちていた。かなりゾッとした。
すぐさま情報を得ようと、当時まだ携帯電話がガラケーだった時のワンセグ機能を使ってテレビを視聴した。

その頃すでに、宮城や岩手の沿岸部に津波が到達していた。今まで見たことのない、嘘みたいな映像だった。母親の蒼白した顔が今でも頭に残っている。もうじき、親の会社がある所に津波が来ることはすぐ分かった。

その頃父親は、線路上で親戚たちと一緒にいたらしい。自分の会社がどうなってしまうのかとにかく気になって、しきりに様子を見に行こうとしていたようだ。それを消防団の人に止められて、線路上にいたらしい。母親も父親に電話しながら、絶対に見に行くなと怒っていた。

とうとう、その時は来た。

自宅で母親とワンセグ視聴で、津波の到来を見た。海岸からどす黒い波が町へ向かって来る。停泊した船が打ち上げられながら町の方へ流れていき、海岸近くにあったコンビニまで波が来て流された時、ああもうだめだと思った。現実なのに、現実とは思えなかった。恐らくこれが、地震が来てから40〜50分の出来事だったと思う。

先に言うが、私の親族たちは全員無事であった。親の会社も床上浸水にとどまった。
津波の到達までに多少なりの逃げる時間があったことと、もともと津波がよく来る場所であったため、特に高齢者の危機意識は強く、ほとんどの人が逃げることができた。それでも、市内で3名ほどが命を落とした。

その日の夜、母方の祖父母、父方の祖母、親戚の一部が私の自宅に泊まることになった。停電して電気が使えなかったので、キャンドルの火を灯してその灯りで夜ご飯を食べた。幸い、ガスは止まっておらず、温かいご飯を食べることができた。反射式ストーブでみんなで暖をとった。

そのまま停電は4〜5日続いたと思う。風呂にも入れず、洗濯もできない。水道はかろうじて出ていたので、歯磨きだけした。家族が隣にいるだけで、安心した。

翌日から朝日が登った時間に起き、陽が出ている間だけ本を読んだり、過去の新聞を読んだりして過ごすことになる。家の目の前が県道で、ガソリンスタンドに並ぶ列が約2キロほどにわたっていた。スーパーの食品類はどこも全て売り切れ、物流も止まった。みんな物が足りなかった。異様な光景だった。

家からは1週間ほど出なかった気がする。町の経済も、人の動きもほとんど全てが止まっていた。電気が供給されるようになると、毎日テレビで震災のニュースが放送された。どのチャンネルも1日中、被害にあった場所を報道していた。

自分たちは、家族全員が助かった。それだけで幸運だった。みんな、もっともっと苦しんでいた。

避難所を渡り歩き、家族を探す子ども。避難所で、顔を歪めながら家族を探していることを報道陣に訴えかけるおばあさん。誰も、何も分からない、どうしたらいいか分からない中、家族を探し続ける。テレビで見た惨状はこれ以上は思い出したくないので、ここまでにする。

毎日ずっと、ずっとテレビを観ていた。その時の自分の感情を思い出すことがなかなかできないのだが、とにかく泣いていた気がする。凄まじすぎて、悲惨すぎて、気持ちが追いつかなかった。ほとんど食事をする気にもならなかった。

震災から2週間ほどして、私は県内の大学に進学するためにアパートへ引っ越した。そこは地元から車で約2時間半ほどのところで、震災の影響がほとんどない所だった。事前に住む場所が決まっていたのは、幸いであった。

町はいつも通り動いていて、普段通りに人々は生活していた。ホテルに一泊だけしたが、本当に何事もなかったかのようにみんなが過ごしていた。この人たちは、地震や津波があったことを知らないのかなとさえ思った。かたや同じ県内で、混乱に喘ぐ人々。同じ現実とはとても思えなくて、何とも形容し難い感情があった。いまだに言葉にならない。

それから私の地元は復興に向けて進んでいった。比較的早い段階でいつもの生活に戻れたように見えたが、その内情はひと言で表すことはできない大変なものであった。祖母の家に行く途中にある橋の下には、震災で流された漁船が何年もそのままであった。両親も、店を立て直すのに相当苦労していた。

私は、海が大嫌いになった。港町で育ったわたしは、それ以降何年も海を見に行かなくなった。大学2年生の時に車の免許を取得したが、海沿いの道路を走るだけで気が滅入って何度も引き返した。復興途中の町を目にするだけでその時のことが思い出されて、居られなかった。ようやく海岸沿いに行くようになったのは、5年ほど経過してからだったと思う。

いまだに、ちょっとした地震にも敏感である。

それから今日まで、震災に関する様々な情報が自分の中を通って行った。現在は地元から離れ他県に住んでいるが、ここもまた被災地である。復興は少しずつ進んではいるが、慢性的な人手不足や超高齢化によって町の活気が以前の水準に戻ることはもうないのかもしれない。人口もかなり減ってしまった。それでも人々は、今日を生きている。生きていくしかないから。




今まで何度も、この記憶を文字にしたためようとしたがずっと出来ずにいた。そして9年目を迎え、ようやく書けるようになった。
本当はこんなことは忘れてしまいたい。でも忘れられない。その時のことなんて思い出したくもないから、本当は忘れたい。なのに絶対に忘れることができない。だから書くしかない。

映像も今まで数え切れないほど見たが、何度見ても涙が出る。感情よりも先に、ほとんど反射的に出てしまう。もう見たくない。

被災地に住んでいない、住んだことのない、ゆかりの無い人々からすると、もう過ぎたことなのだろうか。わたしにはわからない。ただひとつだけ言えることは、これは「終わったこと」ではない。2011年の3月11日からずっと続いていて、これからもずっと続いていくことなのだ。




日本に住んでいて何かしらの自然災害や人災に一度も会ったことのない人はいないと思う。地震、津波、台風、水害、原発、コロナウイルスなど。過去幾度となく様々な場所でたくさんの人々が被災している。今現在も、人々は不安に陥り、恐れ、苦しみ続けている。誰もが、逃れることのできない出来事と常に隣合わせでいる。

絶対的なことが存在しない世の中で、人はどう生きていけばいいのだろう。人は何のために生きるのか。人はなぜ生きているのか。歴史的に有名な哲学者や賢人たちが、いくらもがいて探し続けても答えは見つかっていない。これからも恐らくは見つからないと思う。

ただひとつ言えるとするならば、「明日がある」ということが「生」の原点なのではないかとわたしは思う。その明日というのが、希望であったり、未来であったり、人が生きていくための余地なのだと思う。そうして私たちは、今日も生きていくのではないだろうか。

脱線してしまったが、わたしが震災で記憶していることで今書くことができるのは以上である。まだもっとたくさんの出来事があったのだが、書き綴るのにはまだ時間が必要な気がする。少し長くなってしまったが、今日ここまで書くことができて本当によかった。




筆者より

もし、この文章が誰かを傷つけていたり悲しませていたりしたら本当に申し訳ありません。それが怖くて、書けなかったというところもあります。ただ、今の私にはこれが精一杯の表現でした。どうか散文をお許しください。

震災でお亡くなりになられた方々に心からのご冥福をお祈りいたしますとともに、ご遺族の皆様、被災された方々のご平安を切にお祈り申し上げ、追悼の言葉といたします。
2020.3.11




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