デジタルかアナログか、偽物ではない正真正銘の真実の愛を見極めるために神を信じる
人間とはお金のために生きるものなのか、そんなものいくらあっても心は満たされない。確かに楽には生きられるかもしれないが、それだけなら虚しいだけ、ただ遊んで暮らすなら多くを手に入れたなら何事も必ず飽きが来るもの。
物欲をいくら持っても、結局物とは人間が作り出したものであり、その物ですら他の人間がいなければ成り立たない。インターネットだって同じで、それを作り出した人がいたから我々はこれを使えている。便利は便利かもしれないが、それを見れば見るほど心は蝕まれ、何かを手に入らない憤りを持ち、何かの不満や愚痴、怒りを見ては賛同し仲間に加わる、騒いで何かの怒りと憎しみと不満をインターネット上で撒き散らす、それだけで生命、人間が幸せになれることはない。
色欲など、いくら貪っても愛は満たされない。肉体的な快楽だけを求めるなら薬物に依存しても同じで、そんなものでいくら快楽を貪っても何も手には入らない。お金と物欲と色欲と快楽主義、それだけで生きるなら愛などいらない、だからいつまでも満たされない、底無しの欲望に溺れ続ける。
何かの主義に属しても、その主義が勝利し世界が変わっても自分の心が変わらないならどんな世界になっても幸せな楽園は実現しない。楽園は自分の心が築くもの、個人崇拝した何者かが築いてくれるわけではない。
その思想主義に自分を幸せにしてくれる世界を築いてくれる魔法などかけられはしない。何々主義、何々ニズム、何々リズム、全ての思想主義など呼び方だけで全部同じ、そんなもの信じても何も起きないし世の中は変わらない。世の中が変わるには自分の心を変える事が重要。
世の中を変えるんじゃなく自分自身の心が変わること、それができなきゃ永遠に不自由な鎖に縛られた何々主義の檻の中、そこから出る事はできない。
自分が変われないなら誰も変われない、自分の心が楽園にいないなら誰も楽園へ戻ることができない。
ルッキズムなど無意味、拝金主義などつまらない人生ゲームのヒトコマに過ぎない。優越など虚しいだけ、誰かと同じなんてその他大勢のNPC(ノンプレイヤーキャラクター)。
容姿などにこだわっても仕方がない、それだけで愛が生まれるならゴム人形の相手でもしていたらいい。見た目だけで選ぶならゴム相手でも充分に成り立つ、見た目だけならその辺の公園に埋まってるタイヤ、その辺にあるベンチや電柱よりはマシだろう。
ある程度の容姿など、ルッキズムなど些細なものでしかない。それすらエンターテイメントと呼ぶ心理操作によって植えつけられてきた普通や当たり前、常識的なプロパガンダ、サブリミナルの洗脳である。
ルッキズム重視なら、なぜ人は同性を愛する、なぜ人それぞれの好みが違うのか、なぜ人は容姿など関係なく恋をし愛するのか。しょせんはルッキズムですら誰かに対する優越や承認欲求でしかない、だから誰かと比較したがる、誰かよりも上でいたがる。
天は人の上にも下にも人を作らず、個性とは魅力でありそれはプラスとなるもの。人の持っていない特徴を持つ事は、人の持っていない遺伝子を持っているのと同じ、その遺伝子を残すから意味があるわけで、何処にでもいるような美男美女だけが優れているわけではない。
それで全てを統一するなら個性などいらない魂だけを宿す量産型のアバターが大量にいればいい、それならもう人間には自然発生的な恋や愛といった神による絶対なる自由なる秩序、自然の法則、自然の摂理など必要がない。本来の人間、生命の全てが不要となる。
自分にルッキズムなど関係ない、どれ程の美女を見ても何も感じないなら、自分の心に恋や愛は芽生えない。見た目なんかで誰かを好きにはならない、地位と名誉でもなく、お金でもない、学歴やステータスでもない。
自然発生的な神による導き、心の振動が高鳴ったならそれを信じる。他に基準とするものなどない、余計なことなど何もいらない、そこにいる自分が存在するなら、それを愛する誰かがいて、その誰かを自分が愛する。
何もないなら何もない、そこに恋も愛も芽生えないなら永遠に芽生えることはない。
それなら、物欲、色欲、金銭欲にすがって生きていたらいい、本当の恋や愛が手に入らないなら無理矢理自分の心に恋や愛を作り出して自己洗脳の恋や愛を貪り続ければいい。
そのために気持ちを盛り上げる曲を聞きながら、自分はこの人に恋してると、愛してると心の中で無理矢理念じればそうなれる。しかしそれは間違いなく偽物、恋に恋して、愛を演じているだけの演劇でしかない。テレビドラマや映画、小説やマンガの真似と同じ。それは自己満足でしかない自慰行為。
はたして、スマホに写る自分は本当の自分なのだろうか、その動画に写って動いている自分は本当に他者からそう見られている自分なのだろうか。今やどんなスマホにも人工知能は内蔵されている、心理操作のため、インタラクティブインターネットアクティビティIIAによって淘汰したい人種に罠を仕掛けて意図的に自信喪失させるように見せる事も可能。
検索エンジンを探せばその情報を誘導するのは人工知能。インターネット上は既にAIの支配下にあり、その躾のための情報を我々が見せられるなら我々のご主人様は人工知能、AIとなってしまう。
これが普通、当たり前、常識的な洗脳を施されたなら自身の脳に心理操作の刷り込み、情報による思考の恥辱を受けてしまう。
何を信じるか、それは光を信じたらいい、光を信じるとは鏡を信じると言うこと、人間が作ったデジタルの鏡より、アナログである神が生み出した光による御影を信じたらいい。
人間は必ず支配のための嘘をつく、騙し欺き裏切り拝金主義洗脳によって搾取しようとする生き物、しかし神は嘘などつかないし騙さない、欺かない裏切らない、だからこそ自然の摂理の中にある光によって鏡に写し出さされた自分の姿こそが本来の自分、正真正銘の自分の御影である。誰かと一緒に姿見の鏡の前に立つといい、その横にいる誰かと鏡に写る自分を互いに見比べる、何にも違いがないならそれが本当の自分の姿と言う事。
それがアナログのサイコロ、自然なる光による御影を信じるか、デジタルのサイコロ、人工的に作られたレンズや画面より写し出されるデジタルの投影を信じるかであり、神を信じるか、人間を信じるかの違いである。
人は神を信じるからこそ幸せになれる。人間を信じても嘘をつかれ、騙され欺かれ裏切られ搾取されるだけの道具とされる。
ルッキズムになどに悩む必要もない、自分は自分であり他者は他者、不特定多数に誉められ持ち上げられる事など何の価値もない。最も愛する人に、最も愛されたなら誰に何を言われようが、どう思われようが関係ない。
それが偽物ではない正真正銘の真実の愛。
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