アキヤマヨウコ

産後うつとうつ病になること3回。現在も服薬中。不健康真っ只中。10歳の三毛猫、8歳児、…

アキヤマヨウコ

産後うつとうつ病になること3回。現在も服薬中。不健康真っ只中。10歳の三毛猫、8歳児、3歳児の3姉妹の母。

最近の記事

落ちた底に見えたもの

今日は1日中寝ていた。 朝から、頭も身体も心も重かった。家族で行くつもりだった夏祭りにも、どうしても出掛ける気にならず、外にすら出たくなくて、夫と子どもたちで行ってもらった。 朝、最低限の家事をして横になって本を読んでいたら、いつの間にか眠っていて、気づいた時には家にわたしと猫だけになっていた。 しばらくして家族が帰ってきて、起きてまた少し家事をして、子どもたちと話して、やっぱりしんどくて横になりながら音楽を聴いていたら、また眠っていた。その間、夫と子どもたちはコンビニに出

    • 結局変わる気がない

      姉妹揃って手足口病。下の娘は2週間前にも罹っていて、なんと2回目。恐ろしや、この感染力よ…。 幸い、高熱は2回とも一晩で下がり、微熱になっているし、基本元気。(上の娘に至っては熱が出ず、発疹が出るまで気づかなかった。)ただ、前回よりも発疹が口の中に広がっていて、食べたり歯磨きする時に痛いらしい。それでも『おやつ命』の彼女は、その時だけはしっかり食べていた。 軽いし元気とはいえ、一応病人の姉妹を見守るのは、やはり心配だし、感染力もあるのでなるべく家で…と閉じこもっていると(元

      • 手離す、諦める、許す

        ある時、うつ病を治そうと思うことをやめた。 長女を産んだ後、産後うつになった時は、本当に早く治りたいと思っていた。娘と一緒に楽しくお出かけしたい。自分の家に帰りたい。実際に、半年後には寛解して断薬もできた。 けれど、2回目になった時(入院のストレスからのうつ病だった)絶望した。また薬を再開しても、しばらくは辛い症状(常に動悸がする、そわそわする、ただただ泣く)が続き、数ヶ月後にようやく症状がある程度落ち着いて、また日常生活を「普通の人のように」送れるようになった。けれど…

        • アップデート

          先日、オードリーのオールナイトニッポンを聴いていて共感したことがある。 「昔の曲ばっかり聴いている親父にアップデートしろよ!と思っていたけれど、結局自分もできていない。」(だいぶ言葉は違うけれど)そのようなことを言っていた。 わかるわかる。 高校生〜学生くらいに聴いていた曲が、なんだかんだグッとくる。その時の情景や思いがありありと思い浮かぶ。自分にフィットするカルチャー(音楽、本、絵とか)を、とにかくがむしゃらに探していた。 子育てとか家事とか年齢とかで疲れていたり、自分

        落ちた底に見えたもの

          45歳からの教習所

          前々から思っていた。車の免許を取ろうか、やめた方がいいのか。 そもそも車に酔いやすいたちで、子供の頃は車や観光バスに乗るのが憂鬱だった。家族で車で出掛けるのも近場で、移動手段は専ら電車。家は駅近で、さほど不便を感じずに生きてきた。 それからもうひとつ、取らずにきた理由がある。事故を起こしやすい性格だと自覚があるからだ。時々、大きなうっかりミスをやらかす。それが致命的になる気がしていた。自分だけならまだしも、人様を傷つけるわけにはいかない。いくつになっても、わたしは自分を全

          45歳からの教習所

          さよなら、先生

          年賀状で繋がっている人がいる。それぞれ違う場所でがんばっている友人、恩師、なぜか卒業以来交流が無くとも毎年送ってくれる同級生。 小学6年生まで通っていたアトリエの先生は、何年か前に故郷の広島に戻り、変わらず子どもたちに絵を教えていた。頚椎を怪我し、思うように字も絵も描けなくなってしまったと、2年前に「年賀状は今年で終わりにさせていただきます。」と書いてあり、心配していた。 ところがその数ヶ月後、突然手紙が届いた。文面こそタイプしていたが、宛名は、自由の利かない手で書いてく

          さよなら、先生

          トラウマなんて、簡単に癒えないんだ。

          わたしには、いくつかトラウマがある。 1番しんどかったのは、術後腸閉塞でイレウス管を入れる施術を受けた時。喉にお情け程度の麻酔を塗られ、小腸の入口まで太い管をズルズルと入れていくという、単純だが何とも恐ろしい処置だ。管が動く度に、身体の中に溜まっていた緑色の液体を何度も吐いて、それでもなかなか管が進まない。2時間近くかかっただろうか、身体は冷え切ってガチガチになって、終わってからもすぐには楽にならなくて、身体から水分がどんどん無くなるから怠くなるわ、それでまた大量に点滴され

          トラウマなんて、簡単に癒えないんだ。

          うつ病を経て失ったもの、手に入れたもの

          かつては、ジャンルを問わず、本や映画や音楽に触れていた。それができなくなったのは、初めて産後うつになってからだ。 本の内容が入ってこない。そもそも読みたくない。映画ももちろん、音楽もだ。 急性期を乗り越えた頃、ようやく漫画なら読めることがわかって、気力があれば実家に保管していた漫画を読んでいた。 普通に過ごせるようになった今でも、わたしは物語を読めない。TVドラマも観れない。音楽は聴けるが、内容によってはものすごくエネルギーを使う。登場人物の気持ちに共感しすぎる→それを引き

          うつ病を経て失ったもの、手に入れたもの

          今年の夏は何も起こらなかった。そして雑記。

          一昨年の夏は、義父と父が病に倒れた。昨年は、わたしが網膜剥離で入院、手術した。今年は何事もなく平穏に夏が終わっていった。それにものすごくほっとしている。 9月から下の娘も幼稚園に通い始めて、自分の時間がたくさん持てるようになった。まずは家の片付け。どんどん増えたものを精査し選定して、少しずつ減らす。そして普段手の回らない場所の掃除、庭の草むしりや伸び放題の庭木の手入れが待っている。というより、何かしていないと色んな悲しみが襲ってきて危ない。それを避ける手っ取り早い方法が、掃

          今年の夏は何も起こらなかった。そして雑記。

          もう1年⑤

          父が亡くなったと母から連絡が来てから、直ぐに病院に向かった。幸い、夫が休みの日で全てを任せることができた。父を入院させた日も運良く夫が休みで、わたしはこういうことに割と恵まれている。 母と病院の待合室で落ち合って、呼吸器を付けられた父と対面した。触れるとまだ温かく穏やかな顔をしていて、まだ生きているようだった。お医者さんの話によると、急に呼吸が乱れてそのまま逝ったらしい。もう長いこと意識も無かったから、さほど苦しいという感じなかったと信じたい。外には雪の溶け残りがあり、前回

          もう1年④

          父の面会に行ったのはたったの2回で、その2回目が去年の1月の始め。その時は既に昏睡状態で、父と会話することは叶わず、ただ眠っているのを母とずっと見ていただけだった。一見したところ、いつも家で昼寝をしている父の様だけれど、頬は痩けていて、髪もボサボサで、顔色も悪くて、確実に死に近づいているのだと感じた。窓の外には溶け残った雪が見えて、「お父さん、雪が降ったんだよ。子どもたちと雪だるまを作ったよ。」と報告した。上の娘が2歳の頃、大雪が降って、父と雪だるまを作っていたのをよく憶えて

          お父さん、お祭りだよ。

          最近、すこぶる調子が悪かった。 やる気が出ず、できることならずっと寝ていたい。食欲もない。気分が沈んでいる。とてもイライラする。もうすぐ排卵日のせいかな、気圧のせいかな、最近ちょっと無理してたかな、とかいろいろと原因を探ろうとする。もしかしてうつがひどくなったのかと不安になったり。久しぶりの落ち方だった。 こういう時は、抗わずになるべく寝る。食べたいものを無理せず食べる。うつ病を治すことを辞めた=共に生きていくことを選択したわたしは、この波風が過ぎ去っていくことをたいてい寝

          お父さん、お祭りだよ。

          一周忌が過ぎて、わたしは4年生になった

          2月11日が父の一周忌。1年前のことは、昨日のことのように憶えている。 一周忌の法要は1月に終わらせていたので、特に変わらない1日を過ごした。わたしは家事や子どもたちの相手をしながら、算数の勉強を毎日コツコツと続けている。 ずっと家でナンプレをしていた父を思い出す。毎日テレビを観ながら。 入院中「やりたくてやっていたわけじゃねえよ。」と、言って受け取ろうとしなかったナンプレの雑誌と老眼鏡。いつ頃まで解けていたのだろう?そんなことを思いながら、わたしは今日小学4年生に進級し

          一周忌が過ぎて、わたしは4年生になった

          もう1年③

          父が入院してから、面会に行けたのはたったの2回。コロナ禍で制限されていたからだ。そのうち1回は、兄が病院に掛け合って、病院側に「お父さんに家に帰れないことを説得する。」ことを条件に快諾してもらった。それが11月のこと。 その頃の父はまだ意識があって、何となく家族のことを覚えている状態だった。看護師さんの話によると、家に帰りたいとずっと言っていたらしい。それが毎日夕方頃に激しくなって、なだめるのが大変だ、とも。わたしたち兄妹も、1度は父を家に帰してあげたいと思っていた。それを

          もう1年②

          8月の始めに実家から自分の家に帰った、とはいえ、私の実家は自転車で10分もかからない場所にある。中旬にも2日連続に遊びに行って、気分転換させてもらっていた。 月末に、母から電話がかかってきた。父が認知症になったかもしれない。ここ数日様子がおかしい、買い物に出かけても何も買わずに帰ってくる、テレビの操作がわからなくなったみたいだ、という内容だった。にわかに信じがたかった。何故なら父は、暇つぶしに毎日ナンプレを何年も続けているような人である。しかし心配なので次の日に父のスマホに

          もう1年①

          一昨年から昨年にかけて、我が家はバタバタしていた。それは2021年の8月、義父が倒れたという連絡から始まった。玄関前を掃除していて脳出血を発症し、救急車で運ばれたという。 その頃、わたしは産後うつから回復しつつあり、実家から自分の家へ戻ったばかりだった。下の娘を出産してから7ヶ月余り、ようやく自力で生活する体力や意欲が戻ってきた矢先の連絡。 もちろん大変だったのは、1人息子の夫だった。というのも、義母は腰を痛めていて、生活の殆どを義父にやってもらっていたからだ。家の中は歩