落ちた底に見えたもの
今日は1日中寝ていた。
朝から、頭も身体も心も重かった。家族で行くつもりだった夏祭りにも、どうしても出掛ける気にならず、外にすら出たくなくて、夫と子どもたちで行ってもらった。
朝、最低限の家事をして横になって本を読んでいたら、いつの間にか眠っていて、気づいた時には家にわたしと猫だけになっていた。
しばらくして家族が帰ってきて、起きてまた少し家事をして、子どもたちと話して、やっぱりしんどくて横になりながら音楽を聴いていたら、また眠っていた。その間、夫と子どもたちはコンビニに出かけ、そこで夕飯を調達してきたらしい。
音楽を聴きながら、覚醒と眠りのあいだ、いろんなことを考えていた。わたしの前からいなくなってしまった人のこと、自分で決めて離れた人のこと。どうしたって会えない人のこと、自分が望めば会える人のこと。転々といろいろな場所を生きてきたこと、生まれ育った街に帰ってきたこと。見切りをつけてやめたこと。やっぱり諦めきれていないこと。捨てたもの、置いてきたもの、失われたもののことを。
いろいろな大切なものを手に入れたけれど、何かが足りていない。それは、音楽をやめたときからずっと持ち続けていた感覚だった。それに変わる何かを必死に探し続けてきたけれど、17年経っても見つからないでいる。自分の人生の四半世紀を音楽で満たしてきたけれど、違う世界に行こうと決めたのは自分だったし、その時は間違いなく未練はなかった。でもやっぱり、あの時から自分を表現するものを失ってしまった。そして、新しい手段を見つけられていない。抱えきれない感情を表現することのできないフラストレーションが溜まっていて消えない。
病気になったのも、それが一理あるかもしれないと思い当たった。なんなら、もっと早く発症してもおかしくない状況もあった。けれど、感情を発露できる手段をまだ持っていたから、持ち堪えられたのではないか。
目の前には幸せがある。間違いなくわたしの選んだ道で、選んだ場所で、それは本当に悔いていない。だけれど、それでは穴は埋められない。フラストレーションは消えない。
新しいフェーズへ。新しい生き方を。元に戻るのではない、新たに0から始める。やってみればいい、だめならやめればいい。やらないより、やってみればいい。
「人生1度きりだから、自分のやりたいことをやりなさい。」わたしの生き方に一切口を出さなかった父が唯一言った言葉を、また思い出した。
わたしは、わたしの人生を生きる。
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