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【時事】 〈イラク 混迷をもたらしたのは誰か〉

新年あけましておめでとうございます。

新年を迎え、ヨルダンでの滞在期間も残すところ半年となりました。
1年半滞在して、ここでの生活はもはや自身にとっての日常となっていますが、これが当たり前の生活ではないということを忘れず、恵まれた状況を噛み締めながら残りの任期を全うしたいと考えています。

今回は表題のとおり「イラク」について考察をまとめていきます。

(アラビア語の授業での一コマ)

【混迷が続くイラク】

●イラク、米国との関係見直し 親イラン組織空爆に反発 (AFP通信)

●親イラン派デモ隊、米大使館を襲撃 イラク空爆に抗議 (AFP通信)

●トランプ、在イラク大使館襲撃を受けてイランを非難 (The Guardian)


【報道の概要】
12月27日

イラク軍の基地がロケット弾で攻撃され、米国人の民間業者の1人が死亡した。
同月29日
米国によるイラク国内の親イラン派勢力への空爆で、戦闘員25人が死亡した。30日、イラク政府は米国との関係を見直すと表明した。
同月31日
親イラン派の住民が空爆によって死者が多数出たことに対し、国内各地で抗議活動が起こる。一部のデモ隊が在イラク米大使館を襲撃し、「米国に死を」と激しい抗議を繰り返すなど、イラクからの米軍撤退を要求した。
マーク・エスパー米国防長官はこの事態を受けて、「米国の人員と施設に対する脅威の高まりに応じた、適切な予防的措置として、約750人を中東地域に増派する用意がある」と発表した。

2003年に米国がイラクを侵攻してから17年になるが、汚職、暴力、テロと未だに国内は不安定な状態にある。

そこで、なぜイラクでは混迷が続いているのか。そして米国による侵攻・統治は何をもたらしたのか、そもそも侵攻は正当なものだったのか。
年末年始に起きたイラクでの報道を受けて、歴史を振り返りながらこれらについて考察してみたいと思う。

【モザイク国家イラクとサッダーム・フセイン】

イラクという国は、第一次世界大戦時にイギリスやフランスなど列強国の一存によって国境線が引かれたことから、多様な宗派、民族が複雑に混在する国である。
同じイスラーム教でも、国内多数派を占めるシーア派と、少数派のスンニ派がおり、キリスト教を始めとしたイスラーム教以外の信者も存在する。更に、イラク北部には世界最大の民族であるクルド人も居住している。

このように統治が極めて難しいイラクという国を、強力なリーダーシップを以て率いていたのが、サッダーム・フセインである。彼はスンニ派政党バアス党のトップであり、一国の大統領だった。
イラク戦争が勃発するまでは、フセインの息がかかった軍や秘密警察の存在もあり、治安の面で見ると今より安全だったとも言われており、多様な宗教や民族が混在するイラクを安定させていた。

化学兵器によるクルド人虐殺、スンニ派優遇の姿勢など問題視されることもあったが、アラブ地域では彼を英雄視している人も一定数いる。私がヨルダンでバスやタクシーなどの交通機関を利用した際、運転席の傍らにフセインの写真が飾られていることがこれまで何度もあった。

【困窮するイラク】

イラクは1980年代から90年代まで、長きに渡って戦争をしてきた。

1980年にはイランと戦い、停戦を迎える1988年まで交戦状態にあった。
長期化したイラン=イラク戦争によって戦費がかさみ、イラクは莫大な借金を抱えて困窮していた。イラン=イラク戦争ではイラクを支援した米国だったが、軍事大国と化したイラクがこれ以上強大になり、中東におけるフセインの威信が増すことも望んではいなかった。

経済面での困窮に追い打ちをかけるように、この時期は原油価格が下がり続けており、石油収入に頼るイラクはいよいよ危機的状況に陥った。
そんな最中、クウェートは無償援助した約100億ドルを返済するように迫ってきた。そもそも、石油価格の下落はクウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦が石油を大量採掘して売りさばいたことが要因だった。

1990年8月2日、フセインはクウェート侵攻を開始し、瞬く間に占領した。
この侵攻を受け、国連の安全保障理事会の決議によって米国を中心とした多国籍軍が組織されることになった。
1991年1月17日、湾岸戦争が始まる。戦況は、圧倒的な戦力差からイラクの劣勢に終始し、国連決議を受け入れる形で敗北。戦闘が始まって1か月ももたずに、クウェートからの撤退を余儀なくされた。
イラクはその後も多国籍軍の監視下に置かれ、厳しい経済制裁を科せられることになる。

【偽りの大義名分】

2001年9月11日。世界を震撼させる事件が発生する。

旅客機をハイジャックしたテロリストが、ニューヨークの世界貿易センタービルなどを標的に、同時多発テロを起こした。当時、大統領だったブッシュは「対テロ戦争」を旗印に、テロとの戦いを宣言した。ここからブッシュの反イスラーム・プロパガンダが始まることになる。

同時多発テロ以降、ブッシュはイラクがテロに関与しているとして再び目を付け始め、更には大量破壊兵器を保持しているとの嫌疑もかけた。イラク侵攻を正当化するためのキャンペーンである。
イラクがテロ組織に加担しているという証拠もなく、フセインは大量破壊兵器の保持も繰り返し否定してきたにも関わらず、ブッシュはその主張を無視し、イラク侵攻へと突入した。

占領後の調査で、大量破壊兵器の保持は虚偽だったことが判明する。

【占領、その後】

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロによって「対テロ戦争」を打ち立てたブッシュ元大統領は、イラクに対して大義なき戦争を引き起こした。
2003年に始まった戦争は、圧倒的な軍事力を持っていたアメリカ主導の連合軍の圧勝に終わり、頑強なリーダーシップを維持していたフセインが追放、2006年に処刑された。
米国は、フセインを追い落とし、イラクを事実上占領する。そしてフセイン色を一掃するため、息のかかっていたスンニ派主体のバアス党を警察、軍諸共解体し、空いたポストにはシーア派の人間を据えた。スンニ派からシーア派への移行を図り、イラクに欧米流の民主化を植え付けようと試みたのだった。
当時の米国は、この安易な措置によってイラクが民主国家へと生まれ変わり、平和が訪れると思っていたのだろう。

しかし、今まで国内の治安を維持していた組織をすべて取り払われた国に、どういった未来が訪れるのかは想像に難くないはずだ。
既存の軍も警察も解体したことで国は一層不安定化した。フセインという強力なリーダーシップを持った人間が取り払われ、彼ほどの指揮力を持った人間が現れることもなかった。
シーア派政府はスンニ派住民への迫害を強め、果てには仕事も居場所も失ったスンニ派住民は次々にIS戦闘員へと加わり始めたのだった。

ここまでの動きを見ると、米国がイラクを統治する決定的なプランを持たずに乗り込んできたことは明らかで、当時のブッシュ政権はその場しのぎの計画で乗り切ろうとしていたことがわかる。
フセインの追放を願っていたイラク人も当然いたはずだが、その人たちは今、国の現状について何を思うだろうか。彼らが期待していた未来は訪れたのだろうか。

【世界の安全保障を阻害する二重基準(ダブルスタンダード)】

「偉大なる国は、小さな戦争をすべきではない」
ナポレオンを破ったウェリントン公爵は生前、この言葉を残した。
ことにイラク侵攻を実行した米国に関しては的を得ている。

西側の国は「自国の都合」を持ち込み続けることで、世界の安全保障を阻害しているように映る。
米国にもイラクやイランと親密な時期があった。それは、共に豊富な産油国であることが最大の理由である。しかし、いずれの国も米国の「自国の都合」を阻害するような振る舞いをしたことから、侵攻や制裁を加えられた。

米国は上述したイラクのフセインを始めとした中東の独裁政権に反感を抱いているにも関わらず、王制を敷いているサウジアラビアやアラブ首長国連邦にはお咎めなしの姿勢を貫いている。これも石油利権や軍需産業が絡んでいるためだ。
こうした二重基準(ダブルスタンダード)を捨て去ることが安全保障を守る大前提であると思うのだが、これは果たして理想に過ぎないのだろうか。

私が勤めている職場には、シリア、パレスチナ、イラク難民の子どもが通う。先月、見慣れない女の子がいたため声を掛けると、彼女はイラク人で、いつヨルダンに来たのかを尋ねたところ「2週間前」と答えた。
米軍のイラク侵攻から20年近くが過ぎてもなお、難民を生み出し続けている。そして、こうした戦争で最も苦しむのは無辜の市民、ひいては子どもたちだ。自国の利益や利権よりも優先させるべきものがあるはずだ。

年末年始に冒頭のような不安を掻き立てる事件が起こったことは残念でならないが、2020年は明るい未来を期待できるような報道が増えることを願いたい。

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