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がん患者の家族になろう。

ある日、
あなたの家族が癌になったら。

癌ってなに?
癌保険って入ったほうがいいのかな?それくらいのもの。

僕だってそうでした。
癌なんて、どこが人ごと。

自分は関係ないと思っていました。

しかし、癌という病が急に目の前に現れることがあるんです。

これはそんな話。

ある日突然、当たり前が当たり前じゃなくなる日。
今、親孝行してますか?

これは僕ら家族に起こった最悪な話。


📍久しぶりの母からの電話は
「お父さんが癌になったよ」だった。

2021年11月 横浜。
今思い出せば、僕はただただ気だるい毎日を過ごしていた。

コロナ禍で暗い世の中。個人的にも楽しみや目標すらなかった。仕事は正直惰性でやっていたような、そんな気がする。

昨日も今日も明日も変わらない毎日を送っていた。

そんなある日…

2021年11月10日
宮崎県の母親から電話があった。

「お父さんが癌になったよ」

急に予期せぬ話が起こると理解できないもので何が起こったかわからなかった。

どういうことなのか?
よくあることなのか?
深刻なのか?
もうすぐ死ぬのか?

癌になるって何?
馬鹿みたいな疑問だけど、本当にこういう気持ちだった。

いろんな思いがよぎり、すぐにでも親父に会いたかった。
癌が分かった次の日、即入院だった。

母からのLINE

この日の胸のモヤモヤはすごく覚えている。
なんともいえない気持ち悪さ。

感じたことのない不安な気持ちだけど、何もできない。

水を飲んでも何も落ち着かない。

そして、すぐに飛行機を予約した。
次の日は帰れるように。

こんな時に限って本当に最悪だった。

明日、締切の仕事が1ミリも進んでなかった。

でも、仕事終わらせなきゃ!

親父の心配でモヤモヤする中、夕方から17時から仕事を開始した。

ほぼ休みなく、朝の10時くらいまでずっと作業していたと思う。
必死で終わらせた。

最悪なのは仕事だけではない、空港までの陸路もだ。

飛行機に乗るためには成田空港までいかないといけない。
うちからは片道2時間半以上だ。

乗り換えも多く、寝過ごしたら絶対に飛行機に乗れない。

「無理しないで少しでも寝たら?」
と嫁がシフトを早番から遅番に変えて、俺を寝かせてくれた。

もう、目覚ましだけで起きる自信はなかった。

嫁に起こしてもらい、最悪な状態のまま成田空港へ向かった。

地元の宮崎には、コロナの影響で2年くらい帰省してなかった。

あんなに帰りたいと思ってた地元に帰る理由が、こんな最悪な理由になるなんてね。


僕が宮崎に帰った時には親父は既に入院していた。

幸い母ちゃんと2人で面会にいくことができた。コロナ禍だったが、特別対応してくれた。

2年ぶりに会う親父は白髪が増えたくらいで、昔と何も変わらないおっさんだった。

「この人はもうすぐ死ぬのかな」
そう思いながら親父に会ったのを覚えている。面会フロアの窓から見える景色は、山とバイパスが見える綺麗な景色だった。

親父、母ちゃん、僕。誰も実感なんてない。
癌なんて、どこか人ごとだった。

そこに2人並んでよ、と言って僕は写真を撮った。

母ちゃんと親父

親父はパジャマでザ・患者という感じだったが、今撮っておかないと後悔するような気がしていた。

父親は冷静だったのか、現実を受けとめてないかわからなかったが比較的楽観的だった。
正しく治療すれば治る。癌は治る時代だと思ってたからだと思う。


📍癌患者の家族になる

関東からやってきた僕はコロナ禍では病原菌扱いだ。
どこそこで検査しろだ、なんだと言われる。近所にも帰ったきたことは内緒にしていたほどだ。

宮崎に帰ってきたついでに連絡をとった友人からも「関東から来たならちょっと…」とコロナ差別を受けていた。そいつの名前はずっと忘れないと思うけど、今ではコロナ禍の懐かしい思い出と思っておこう。

病院の面会をするにも、どこから来たかを聞かれる。PCRで陰性が出てるのに、しつこいほどに。これ以上どうしろというのか。



親父が入院して2日ほど。
今度は兄、兄嫁、母、僕の4人でお見舞いにいった。

4人でいったが親父と面会の間、僕は待合室で待機だ。理由はもちろん関東からやってきたからだ。

待合室の椅子に座りながら、Macbookを広げ仕事。全くエモくない。

しばらくして3人が戻ってきた。あとから先生の話があるから、4人で聞くと言われた。

ドラマでよく見るあれだ。
「ご家族の方だけにお話があります。」

本当にそうだった。親父の癌の詳細を聞いた。
ステージ4。元の肺がんが肝臓にも広がっている。多分、全身に広がっているという話だった。

この前まで何もなかったおっさんがいきなり癌のステージ4?こんなことがあるのか。

全く現実味がなかった。

衝撃的なことに、
「年を越せないかもしれません。」
と言われた。

母ちゃんは号泣していた。

僕と兄は、冷静に先生の話を聞いていた。同じように辛かったけど。

この時の先生の話だと、肺の低い部分に癌ができていてレントゲンでは臓器(胃?)に隠れて見つけにくい位置にあるとのことだった。

今の大きさだからなんとか見つかったが、小さかったら見つけられていないという。

兄が「去年の健康診断では何もなかった、その時にはわからなかったものですか?」と聞くと、ここ1年でできた癌の可能性があるとのことだった。

親父はとんだ人生のはずれくじを引かされた。

当たり前が当たり前じゃなくなり、
日常が壊れた瞬間だった。

こうやって僕らは
「癌患者の家族」
になった。


2021年も11月になり、年が暮れようとしていた。
コロナ禍でなかなか帰ることができなかった実家。

久しぶりの実家だが、家には母ちゃんと僕だけ。
ずっと重い空気が流れていた。

これからどうなるんだろう?
そんな気持ちしかない。そして、何もできることがない毎日だった。

ただでさえ無気力だった僕が、もっと無気力になった。何も楽しくなかった。

親父と繋がっているのはSMSだけだった。
令和の時代にガラケーだったのだ。

年末には死ぬかもしれない親父に少しでも元気になってほしかった。

だから僕はメッセージを送った。

僕(右)から送ったSMS

僕は結婚しているが、子供はいなかった。兄貴には3人の子がいた。
新しい孫が増えるかもよって、少しでも元気を出して欲しかった。

親父の事も母ちゃんも、自分の未来も心配だった。

全てが真っ暗だった。
本当にクソみたいな世界だと感じていた。
本当にクソで、クソで、クソだった…。



こんな日々が数日過ぎた。

僕は母ちゃんにこんな提案をした。
「父ちゃんにスマホを買ってやろう」

この頃、ありがたいことに楽天モバイルの通信料が無料で使える時期だった。

本当に楽天さまさまだ。楽天商圏で生きてる僕は本当に感謝した。

近所の中古屋で型落ちiPhoneを探す。
ジジイだしでかいほうがいいだろう、と僕がiPhone6s Plusを選んだ。

良かれと思って選んだが、のちに「でかくて重い、すぐ電池が切れる」とクレームを受けた。
ま、このiPhone代を出したのは母ちゃんだったが。

初期設定を済ませて病院へ持って行った。
簡単な操作方法のメモを作って渡した。

2021年11月20日が親父が初めてスマホという文明に触れた記念日だ。

親父はじめてのLINE

僕はスマホが好きだ。
というかPCとかiPadとか機械全般が好きだ。

これも中学時代が始まりだろう。
親父が買ってきた、ブラウン管のどでかいパソコン。

確かWindows95だった。

インターネットは電話線をブッ刺して繋ぐ。ネット中は電話が繋がらないという時代だった。

親父がよくグラビアアイドルを見て、それを僕から後ろから覗くのが定番だった。

あのおかげで機械全般が好きになり、今も詳しい。あの頃の経験が今に繋がっていた。

iPhoneは最高だ。
コロナ禍でも人と人を繋げられる。

僕、母ちゃん、兄貴はそれぞれ親父と連絡を取り合うことができた。これはすごくよかったことだと思う。

直接は会えないが、TV電話をすることはできた。

癌患者の本人だけじゃなくて、家族にとってもこれは嬉しいことだった。

親父は本当に勇気づけられていたと思う。

兄貴の子、僕からみた姪っ子甥っ子はすごくいい子たちだ。
親父あてに動画メッセージをたくさん撮ってくれた。

「じいちゃん、早く元気になって帰ってきてね!」

この頃は本当に帰って来れるのか不安だったが、この動画メッセージが親父の活力になったことだけは間違いない。



夜になると不安は続いた。

「お父さんどうなるとかね・・・」
TVを見ながら母ちゃんがつぶやく。

僕も辛かった。辛いけど、あまり言葉にしないようにしていた。母ちゃんを考えさせてしまうだけだから。

だけど、僕自身も本当に寂しかった。親父が死ぬかもしれないというのは恐怖だった。

500ml3本ビール飲んでいた僕は情緒不安定だ。

でも、母ちゃんの肩を抱きしめて一緒に泣いた。
「俺と兄ちゃんがいるから大丈夫、1人にはしない」と言った。

心の底から母ちゃんを支えようと思った。



親父の治療がはじまった。

先生の話は難しくて正確に覚えていないが、肝臓の数字がめちゃくちゃ悪いという話だったと思う。

医者が500で驚くところを2000くらいある、みたいな感じだった。

だから、親父は即入院だったんだ。

もし、あのとき病院に来るのが遅れていたら、どこかで急に倒れて死んでたかもしれないと言われた。

とりあえず、今病院にいることは不幸中の幸いだった。

抗がん剤治療の前に別の治療の注射などをしていた。

数日おきに連絡をもらっていたが、この治療はすべて順調に進んでいた。

体力が戻ったら本格的に抗がん剤治療に入るとのことだった。

親父の治療は、僕らの心配とは裏腹に治療は順調だった。

病院にお見舞いにいくたびに数値はよくなっていると言われていた。

そして、
体力が戻ってきた親父は11月22日ごろから抗がん剤治療をはじめた。


📍初めての抗がん剤治療

抗がん剤治療と聞くとどんなイメージを持つだろうか?

僕は吐いて、苦しくて、髪の毛が抜けて最悪なイメージを持っていた。

しかし、現在の抗がん剤治療というのはかなり進歩しているらしい。もちろん人によるとは思うが患者が苦しいをしないように最大限配慮されてる治療とのことだった。

親父の1回目の抗がん剤治療も、何事もなく終わった。

終わったあとの面会も、特別感も一切なく変わりない親父がそこにいた。

むしろ、「甘栗買ってこい」とワガママに磨きがかかったような感じだった。

しかも、メーカーまで指定してきやがる。
母ちゃんといろんな店を回った。
この時くらいは親父をぶん殴ってもよかったのかもしれない。

とりあえず、治療は順調か?

いまいちパッとしない気持ちのまま毎日を過ごしていた。

僕はたまに気分転換に釣りをした。
宮崎港で、初心者セットの釣り竿をで大物を狙う。

何時間たっても何もきやしない。海に餌をまいただけだ。
もはや、何が悲しいのかもよくわからなくなっていた。

2021年12月。
僕は一旦神奈川へ戻ることにした。

たかだか数週間だったが、いろんなことがあった。
「父親が癌だ」という話をすると多種多様な反応があった。

「お兄ちゃんが宮崎にいるんだよね?じゃあ大丈夫じゃん」
「本人(親父)が一番辛いからそばにいてあげて」
「やっぱりタバコがいけなかったのかな」

きっと誰も悪気はないんだろうが、言葉は難しいなと思った。言い返すことは一度もなかったが、すべての言葉に僕はイラついていた。

結果論でしか話せない人間は浅はかだ。
というか、ただの馬鹿だ。

それを今気づけた僕は、これだけでも収穫だったのかもしれない。

神奈川へ戻ると嫁とペットのウサギが迎えてくれた。やっぱり自分の家と家族は嬉しい。そばにいるだけで幸せだ。

ウサギはずっと僕の近くにいて離れなかった。たくさん甘えてくれたのが嬉しかった。
嬉しかったけど、心はずっと晴れることはなかった。

休みの日は嫁と出かけたり気分転換をした。
でも、心は上の空。

僕にはずっと心配ごとがあった。僕を支えてくれる嫁も、僕と同じように心配してくれていた。

2021年12月17日、また僕は宮崎へ。
あれからもずっと親父は入院している。実家で母ちゃんを1人にさせないためだ。

母ちゃんを1人にさせないということは、嫁を1人にするということでもあった。

僕はずっと罪悪感を抱えていた。

12月14日に2回目の抗がん剤治療をしたらしい。親父からLINEがきたので、割と元気そうだ。

「10日くらい様子を見て問題なければ帰れるかも」と連絡がきていた。

本当か?と思った。

先生は「年末死ぬかも」って話だったじゃないか。



11月から家族みんなを巻き込んで心配していた親父。
しかし、すごく拍子抜けなことが起こった。

僕【右】と母【左】のLINE

親父が帰ってくることになったのだ。

は?癌はどうした??

なんか、本当にこんな気持ちだった。あれほど心配したのなんだったんだ?と。いろんな人に言った。

飛行機代の高い年末には嫁も宮崎に呼んでいた。年末死ぬかもしれない親父に一目会うために。

ものすごい拍子抜けだ。

12月25日のクリスマス、親父は家にいた。
あの頃と変わったことといったら少しハゲたことくらいだ。

それから今までと変わらず家にいた。

今まで当たり前だったことが無くなりかけていた。

でも、もう一度戻ってきた。
それがすごく嬉しかった。

年末にみんなで集まった。
乾杯のとき、母ちゃんは泣いた。親父が帰ってくれてくれたことに泣いた。

年末に撮った集合写真

姪っ子たちは号泣するばあちゃんを茶化していたが、それでいいんだと思った。

親父が癌になったなんて話はすべてコメディだったんだ。

「全てがギャグでした、ご苦労さん!」
と言われているような年末だった。

親父は「2年は病院通わないといけないみたいだけど、車の運転くらいはできるみたいだわ」と嬉々と話していた。

僕も心の底から安心しきっていた。なんだったんだ、ここ2ヶ月弱の騒動は。人騒がせなオッサンだなとしか思っていなかった。



年明けて1月2日。
僕は大淀川河口で釣りをしていた。

最高に暇だった。

「何もなくてよかったな〜」そんなことを思いながら竿を振る。大物目掛けて。もちろん、釣果はゼロだ。

僕が宮崎にいる役割もなくなり、2022年1月7日ぼちぼち神奈川へ帰った。

この2ヶ月弱、僕はどんな息子だっただろうか。
もちろん僕は良い息子ではない。どっちかといえばバカ息子だろう。
だけど、この2ヶ月すごく無理をして親父と母ちゃんを支えた。それはサラリーマンではない、フリーランスという働き方を選んだ僕だからできたことだ。
僕は最高だ。バカ息子だけど最高だ。

そして、僕にとって大切でクソみたいにつまらない変わらない日常が戻ってきた。

2022年1月上旬。
「今年は頑張るぞ!」と言った。
何年目、何回目の嘘の誓いだろう。

iPadの日記に今年やることなんかを書いてみる。多分やらないだろうな。

正直、去年の年末が刺激的すぎたんだ。

毎日がスリリングすぎた。
親父が死ぬかもしれないというプレッシャーの中過ごしていたんだからな。



そして、1月19日。

母ちゃんからのLINE

また親父が入院するらしい。
抗がん剤の副作用のようだった。

抗がん剤治療は強力な分、副作用が出やすい。

親父は下痢や背中の痛みなど結構な副作用が出ていた。でも、きっと大丈夫。心のどこかでそう思っていた。

ここからは癌治療と、副作用の治療という2つの戦いが始まっていた。

年末でめでたしめでたしなんてことは全くなかったのだ。

愚かな僕は自分の仕事が忙しかったり、心のどこかで「大丈夫だろう」とアホな期待のせいで1月〜2月は全く宮崎へ帰らなかった。

その間も、親父の看病を母ちゃん1人で支えてくれていた。

「入退院を繰り返す」なんてワードは聞いたことがあるが、まさにそれだった。最悪のループに入ってることを自覚した。

この時期をずっと母ちゃん1人にしていたのかと思うと、僕は本当に救いようのない馬鹿息子だ。

何もなければあっという間に過ぎていく1ヶ月、2ヶ月も母ちゃんにとって1秒ごとが拷問だったと思う。

そして、この馬鹿息子は
3月27日に帰省した。

この頃、親父の癌は脳に転移していた。

この頃、親父の経過を先生が夕方に電話で報告をくれるのが定番で、うちの家電にかかってきていた。

夕方、家電の呼び出し音が鳴り響く。
最初は母ちゃんが出るが、僕が変わって詳しい話を聞く。

親父の肝臓の癌は大きくなり続けていること、そして脳への転移が確認されたこと。

電話が終わると毎日母ちゃんは号泣だ。そりゃそうだ、嬉しい電話なんて一度もないんだから。

それでも、母ちゃんはいつも僕の晩飯を作ってくれていた。

2人だけの食事はいつも暗かった。

「どうなるとかねえ・・・」そう呟く母ちゃんを毎日見ていた。何もできなかった。

もうこの頃は僕自身も情緒不安定だった。
酒を飲んでは夜中にひとりでイライラしていた気がする。仕事のこと、過去のこと、親父のこと。

TVニュースで悪人を見るたびに、なぜこいつは普通に暮らしてるんだ?と呪っていた。

素朴な家庭を襲った不幸はあまりに大きすぎた。

2022年3月29日、30日。
親父は脳の癌治療へ。

実家から少し遠い別の病院へ、一泊二日の治療だった。脳の癌はレーザーで焼くことができるらしい。

僕らの心配とは裏腹に、親父の楽観的だった。

1泊した次の日、親父を迎えにいった。
手術どうだったか?と聞くと、頭を固定する機械が痛いだのなんだのと言っていた。

次の通院はなく、脳の治療はあっけなく終わった。

病院の帰りに桜を見て帰ろうということになった。この頃は桜がちょうどいい時期だった。

病院から実家への帰り道、ちょうどいい公園があった。

そこは田舎らしくすごく広い公園で、遊具もたくさんある。子供のころに来たら最高に楽しそうな場所だった。

駐車場につくと、そこから既に満開の桜が見えていた。

本当に大迫力だった。

全然写真スポットではなかったが、駐車場の前で僕は「写真撮るから2人並んで」と言った。

なぜ、あの位置でそう言ったのかわからない。
もっといいポイントはたくさんあったのに。

そこで2人の写真を撮った。
iPhoneの性能か、僕の腕か、いい写真が撮れた。間違いなくいい写真だ。

桜の前で撮った母ちゃんと親父

これが、永遠に残る写真になった。

親父は病人らしく、少しヨタヨタと歩いていた。抗がん剤治療ではげた頭はいつも帽子で隠していた。

この頃、もはや帽子が親父のトレードマークだった。

桜の真下まで行くと本当に綺麗だった。
満開のベストタイミングだ。

桜吹雪が綺麗だった。これから先を予感するように、見事に散っていった。

公園を散策してそろそろ帰るか、という頃。
「もう1ヶ所行こう」と母ちゃんが言った。

僕は正直勘弁してくれと思っていた。桜を満喫しながらもスマホには客からの連絡が大量に来ていた。

「今日中!早くしろ!」と言わんばかりのメッセージ。この頃の僕のお客(モンスタークライアント)は本当に暴れ馬だった。

どうにか暴れ馬に謝りつつ、もう1つの公園へ向かった。途中、スーパーで弁当を買って花見をすることにした。

もう1つの公園も桜は満開だった。
こんなにベストタイミングで桜を見たのは初めてかもしれない。

桜をバックにした夫婦の写真がたくさん撮れた。一生分、未来の分まで撮ったんじゃないかと思う。

弁当を食い終わる頃に親父が言った。
「デザート買ってくりゃよかったな」

そういえば、ずっと僕には違和感があった。

これだ。

コロナ禍で2年会ってなかった親父。癌をきっかけに久しぶりにあった親父はよく甘いものを食うようになっていた。

子供頃はお菓子やアイスなんか一口も口にしない親父だった。その印象があるから違和感だったんだ。

アイスを食ったり、どら焼きを食ったり、昔では考えられないような光景を家でよく見ていた。

味覚が変わったんだ。

これは一つの大きな兆候だったのかもしれない。
味覚が変わるなんてことは、人間の体の変化としてめちゃくちゃ大きい。

妊婦さんが好きな食べ物が変わるというが、それと同じ現象が69歳のおっさんにも起こっていたということだ。



脳の治療後、親父は落ち着いた感じだったので僕はまた神奈川へ帰ることにして、少し先の4月10日(日)の飛行機をとった。

あの花見から数日がたち、変わらない日常のような気がした。親父は家にいて。でも、どこか元気がなくて。横になってばかりだった。

4月7日、親父の検診に連れていった。
なぜか、次の4月8日も病院へいった。その時は母ちゃんが連れていった。

僕は母ちゃんが楽しみにしていた新型洗濯機が運ばれてくるのを待つ係だったので待機。

そして、昼になって連絡がきた。

僕【右】と母ちゃん【左】の会話

また親父は入院になった。最悪だ。

僕はもう神奈川に帰るのに。
母ちゃんを1人にしてしまう。
また1人にしてしまう。

癌患者の家族になるって大変だ。
癌はスケジュールなんて考えてくれない。

このとき確か4回目の入院だったと思う。



この頃、親父にも変化があった。

親父は入院中だが、抗がん剤治療はできていない。

副作用の治療だけに専念していた。その影響でどんどん癌は大きくなり、親父の体力もなくなっていた。

もうこの頃、抗がん剤治療はできないと言われていた。

親父に与えたスマホは良いのか悪いのか情報収集に便利だ。独自に癌治療について調べていたらしい。

僕【右】と兄【左】のメッセージ

この頃の親父は本当に焦っていたと思う。

当然だ。

親父はすごく落ち着いていて、僕の中のthe大人といえば親父の印象だった。

でも、その親父が明らかに死を怖がっていた。
こういうときは危険だ、なんでも鵜呑みにしてしまう。

僕は今の病院の治療方針を崩して欲しくなかった。こんなときに限って宮崎を離れているのが悔しかった。

LINE電話で何度も親父を落ち着けていた。



2022年4月25日、兄貴から電話があった。

母ちゃんと兄貴で病院へ話を聞きにいったらしい。
先生曰く「梅雨くらいが危ない」とのこと。

もしかしたら、親父に次の夏は来ないかもしれない。

去年末から何度も「親父が死ぬかも」という感覚を味わってきた。
でも、今回が一番リアルだった。

僕自身はというと、ここ数週間仕事疲れがひどい。ろくでもない客にひっかかり疲れている。
そこにこの追い討ちはかなり効いた。

親父の息子として、2つの心配がある。

・親父がいつまで生きられるか
・母ちゃんを1人にしてられない

僕は2022年で37歳だが、やっぱりいつまでも両親の元では子供なんだなと感じた。

父ちゃんがいなくなると寂しい、母ちゃんに寂しい思いさせたくない、そればかりだった。

その不安はアラフォーに向かうこの身体でさえも締め付けてくる。
人間は強くならないもんだなとつくづく思った。

この状態が続くのは良くない。
地元の兄貴に負担がかかるのは目に見えているからだ。

兄貴には子供もいる。
自分の家庭を犠牲にして、親のめんどうばかりを任せるわけにはいかない。

親父の癌が、家族関係を崩す原因になってはいけないからだ。

だからこそ、フリーランスという働き方をしている僕はまた宮崎へ行こうと思った。

母ちゃんを1人にはできないなと思いながら、今日もアサヒ・ザ・リッチを飲む。辛い日は酒飲むのがいい。僕は酒が好きだ。

そうだ。
ここから"真っ暗な未来"へ向かって、
家族全員で突き進むんだ。

📍5月、不幸は重なる

2022年のGW。
コロナ禍とはいえ、世間は楽しそうだった。

このとき、僕は神奈川県にいた。
GWも仕事だ。せめて最終日だけでも楽しむかと富士山方面へ日帰り旅行へでかけた。

芝桜を見るために。

その前に、山梨の神社によってお参り。
「親父が良くなりますように」
少しだけ神頼みをした。

昼過ぎ、天気は晴れ。
人も多く、たくさんの芝桜が綺麗に咲いていた。

世間の人と同じように楽しい時間を過ごせていたはずだった。

そんなときに兄から連絡が入った。

「ばあちゃんが死んだ」

ばあちゃんは92歳。母方のばあちゃんだ。
大往生だが、ばあちゃんっ子だった僕はすごく寂しかった。

楽しかった日帰り旅行もここで終わり。

たくさんの綺麗な芝桜は、僕に「早く帰れ」というように咲いていた。

富士山ふもとの芝桜

ばあちゃんの通夜・葬式のために、再び宮崎へ戻ることにした。嫁と共に。

僕にはウサギの家族がて、少しだけ大変だ。夫婦2人で家を空ける時はペットシッターに頼むしかない。
このときも急遽きてもらうことになった。

大好きなウサギにも何度も何度も寂しい思いをさせている。ごめんな。

そして、次の日。僕らは宮崎空港から葬儀場へ直行した。
そこには、静かに眠るばあちゃんと落胆した母がいた。

うちの母親は、息子の僕がいうのもなんだが良い母親だ。
そして、ばあちゃんにとって良い娘だったと思う。

すごく面倒見のいい母ちゃんは、近所や僕の友人からでさえも評判がいい。

うちのじいちゃん、ばあちゃんを一生懸命面倒みてくれたのは母ちゃんだった。ばあちゃんの葬式は、母ちゃんが一番辛かっただろう。

喪服姿の母ちゃんを見た時は、いつか親父の葬式でもこの格好をするんだろうかと嫌な予感をさせた。
すごく嫌な予感だった。ものすごく嫌な。

ばあちゃんが死んで辛いときも母ちゃんは親父の心配をしてた。

母は僕に「お父さんが心配だから、先に家に帰ってて」と言った。

コロナ禍もあって、親父は家で留守番だった。
今思ってみれば、この頃の親父はまだ元気な方だったんだ。

ばあちゃんの通夜、葬式はあっとういう間に終わっていった。

そして、火葬場へ行った。
あの母ちゃんの小さな背中は忘れない。

ばあちゃんありがとう、という気持ちと親父の火葬にだけは来たくないという気持ちだけが渦巻いていた。

母ちゃんは「ばあちゃんがお父さんの悪い病気も持っていってくれるよね」と泣いていた。

きっとそうだよ、と僕も信じたかった。本当に信じたかった。心から深く一緒に願ってたんだよ。全部が夢でありますように。

火葬も終わり、兄貴夫婦も一緒に実家に帰ってきて過ごしていた。

ドタバタしていた数日だったが、兄貴夫婦、僕夫婦から母ちゃんにプレゼントを渡した…。

「母の日」のプレゼントだ。

📍特別な誕生日

あれから数日。

5月15日は母の誕生日だ。僕は親の年齢を覚えるのが苦手だ、多分62歳になったんじゃないかと思う。

5月は「母の日」と「誕生日」があり、割とめんどくさいから毎年1日にまとめていた。

しかし、今年くらいはちゃんとしなきゃなと思っていた。

ばあちゃんの葬式もあって、疲れきっていた母ちゃんを少しでも喜ばせたいと思っていた。

朝起きて、僕がプレゼントでも買ってくるかと思ったら親父が話しかけてきた。
「花とケーキ買ってきてくれ。」

淡白な親父からは信じられない話だった。

続けて親父はメモを渡してきて「ついでにこれを代筆してくれ」と頼んできた。

母ちゃん宛の誕生日メッセージだった。

僕は
「いや、そんなのは自分で書かないと意味ねえだろ」
と家の奥からいつ買ったかわからないレターセットを見つけてきた。

それに親父直々に清書させた。
いい息子だ。

僕は花屋へ。
しかし、この日は本当にタイミングが悪かった。

実家周辺に花屋がほとんどない上に、貴重な花屋が数店舗も店休日だった。
割と遠くまで行ってやっと開いている花屋さんを見つけた。

親父から「バラを中心に花束を作ってくれ」と言われていた。
そのまま花屋さんに伝えて、見繕ってもらう。

予算は5,000円。正直1,000円で作ってもらってちょろまかそうかと思ったが、今回は我慢した。

5,000円なら、さぞ立派な真っ赤なバラの束ができあがるんだろうと思っていた。

しかし、出来上がった花束に真っ赤なバラは1つだけ。そして、その周りをピンクのバラと他の花が包み込んでいた。

1つのバラを包み込む様子は、まるで親父から母ちゃんへの気持ちを代弁したような花束だった。

僕思わず言った。
「最高ですね。」

花とケーキを買って家に帰った僕は、いい案を思いついた。

夜はでかけて、親父と母ちゃんを2人きりにしよう。
そして、押し入れからサプライズで花束を出すことを決めた。

親父が母ちゃんにサプライズをしたことなんで、人生で最初で最後じゃないかと思う。

そういえば僕が小さい頃、母ちゃんの誕生日に親父と兄貴と花を買いにいった。綺麗だと思って買った花が「菊の花」だったことがある。

数十年たった今も母ちゃんは根に持ってるらしいが、今思えばアレもアレでサプライズだったのかもしれない。

そして、僕はひとりで夜はぶらぶらと出かけた。
結果的にサプライズは大成功だったらしい。

嬉しさのあまり母ちゃんが自撮りしてた動画があったが、泣き顔でひどいもんだった。

なので、僕が2人を撮り直してあげた。いい思い出の写真だ。

誕生日の記念写真

僕はというと、1人で蛍を見に行っていた。すごく綺麗なスポットがあるからだ。

映像で見せたら少しでも元気が出るかと思ったけど、スマホでは映らずほとのど真っ暗な映像が撮れただけだった。

少しだけ見える蛍の光は希望の光のようでもあった。

📍新たな可能性を求めて

親父はもう抗がん剤治療はできなくなっていた。

癌が進行しすぎたこと、体力がないことで副作用の治療だけで精一杯だった。

親父はそれが嫌だったんだろう。それでもどうにか癌治療ができる方法をずっと探していた。

そこで親父が見つけてきたのが、熊本のある病院だった。

💬病院名や詳しい治療については伏せます。素人には効果がよくわからない上に良いも悪いも判断がつかないからです。ただ、この通院が生きる希望になっていたことは間違いなかったと思います。

宮崎から熊本というと、高速・下道で3時間ほどあれば着く距離感だ。

ただ、親父は病気の体なので休憩しながら移動すると4時間以上はかかった。

熊本へ向かう車内。
懐かしい雰囲気だった。

子供の頃、兄貴も含めた4人で三井グリーンランドへ連れていってもらったもんだ。その頃の親父の車はタバコ臭くて大嫌いだった。

今では、僕が運転して親父を連れていっている。これが楽しい出来事だったらまだ良かったのに。

熊本へ向かう途中、えびのという地域の道の駅に寄った。

ETCを使えば高速から降りても2時間以内で戻れば高速料金が変わらないという便利なことをやっていた。

宮崎の道の駅はレベルが高い。うまそうなものもたくさんあった。
小さなレストランがあったので、食っていくかという話になった。

入ってみるとバイキング形式らしい。そこまで腹は減ってない。
でも、値段を聞くと1000円ほど。じゃあ、食っていくかとなり、3人で食事をした。

全然期待してなかったのが、ここのバイキングは最高にうまかった。一流シェフの料理というよりは、母ちゃんが作る郷土料理的なやつ。

だが、どれも本当にうまかった。

親父も食欲があり、食いまくってた。病人とは思ないくらいに。
病人らしさといえば、インスリン注射を打ってた瞬間くらいか。

その後、病院へ向かう。
3人で先生から話を聞いた。特殊な治療法らしい。
金額も1発20万以上といいお値段の病院だった。

人の印象はそれぞれだけど、僕は正直あまりここの先生が好きではなかった。親身に対応してくれるような雰囲気ではなかったからだ。

だが、一言だけ忘れられない先生の言葉があった。
「癌は甘いものが好きなんですよねえ」



その後、治療方針などが決まり毎週熊本へ通うことが決まった。

ちなみに、その病院は入院することができず、通院しかなかった。
なので、宿泊施設を使うか日帰りかしかなかった。

日帰りの通院は、往復8時間を移動で使う。
健康な僕ですらキツい。

親父はこの通院で相当体力を削られたのだと思う。

📍18年ぶりの親子旅行

奇跡に賭けた親父の癌治療がはじまった。

宮崎から熊本まで送っていくのは僕だ。

5/25(水)から移動がはじまった。
5/25は朝から都城病院、その後熊本へ前乗りだ。

親父と二人で出かけることなんて記憶にないくらいなかった。ましてや泊まりでなんて18年ぶりくらいか?

僕が高3のときに、東京の専門学校の見学へ行った。その時が親父と二人だけの旅行だった。

あれから時が経って、また2人で旅行するハメになった。

全く前向きじゃない旅行だったけど、僕は心のどこかで少し嬉しかったんだと思う。
親父と過ごせる時間が。

この頃の親父は目に見えて体力がなくなっていた。
サービスエリアの階段を1人で登れないのだ。僕が腕を支えて登る事態に、すごく辛い気持ちになったのを覚えている。

どこかでコケないだろうか、常にその心配が付きまとうようになった。

すごくいい天気だった。暑すぎない最高の日だ。

癌になってからの親父との思い出は、晴れた日が多かった。だから、今は夏の青い空がすごく嫌いだ。嫌なことばかりを思い出すから。

この日は熊本へ前乗りした。
熊本市内のビジネスホテルを取っていた。

スマホのナビをしながら必死にホテルを探す僕。

熊本市内は結構入り組んでいて、運転は大変だ。

やっとの思いでホテルの目の前着くと親父が言った
「まだ飯を買ってない。」

「いやいや…俺が適当に買ってくるよ」というと、
「自分で選ぶ」と聞かなかった。本当にわがままな病人だなと思ったのを覚えている。

せっかくホテルへ着いたのに、今度はコンビニ探しだ。一方通行の道を突き進む。最悪なストーリーに一直線に向かう僕たちとそっくりだった。

やっとの思いでコンビニにつく。親父は弁当を選ぶのが遅い。15分くらいは待たされたんじゃないかと思う。

この日はビジネスホテルで一泊した。
僕は滅多にない機会なので、夜の熊本をぶらぶらと歩いてみた。

路面電車がうらやましい。宮崎にもあればいいのになと思う。
ギラギラ光る方向には風俗街。僕はその先のラーメン屋を目指していた。

そこは思い出のラーメン屋で僕が以前働いてた職場の社長と食べに来たところだ。あの頃は希望ばかりだった気がする。

会社をこうしていきたい、ああしていきたいなど語りながら食べていた。今となってはその会社は吹き飛んでしまったが。

アホな顔してラーメン食ってた僕が、今では癌患者の家族として暗い顔をしてラーメンを食ってる。

不安で仕方がなかった。どうなるんだろう、ではない。
最悪な結果しか待ってないことはわかっていた。

ホテルに戻ると親父は起きていた。

僕が最近ハマり出した競馬の話をした。親父は楽しそうに語ってくれた。

親父は生粋のギャンブラーだ。
母ちゃんをずっと悩ませるパチンカスでもあった。

親父が通うパチンコ屋さんで、母ちゃんは掃除のアルバイトをしている。綺麗に経済が循環していた。

家庭に影響があることはなかったので、僕にとってはどうでもいいことだった。

親父は若い頃は競馬が好きだったらしい。中山競馬場は最後の直線が短いだの、色々と教えてくれた。

僕が聞いてないことまでたくさん教えてくれたが、僕は大浴場の時間が迫っていたので早めに終わってほしかった。

適当に話を切り上げ、僕は大浴場。
親父はそのまま就寝した。



そして夜が明けた。
親父を病院に連れていかなくては。

朝が弱い僕には8時起きの行動は拷問だった。熊本の下道は混む。企業戦士たちが戦場へ向かう波だ。

親父と僕はほとんど会話もないまま病院へ向かった。

親父の治療は基本的に1泊2日。
1日目の治療の24時間後に次の治療をするといった流れ。

親父の治療が始まると僕は1人きり。
この時間くらいしか、まともに仕事できる時間はなかった。

近くのお店のフードコートに座ってMacbookを広げる。スタバのようなドヤ顔はできない。隅の方で何時間も座っていた。

目も肩も腰も最悪だ。頭も痛くなっていた。
楽しいことなんて何1つもなかった。

夕方、親父を迎えにいく。その後は、スーパーで夕食選びだ。これがまた長い。

20分以上飯を選ぶ親父。そんなに食うのか?というくらい量が多かった。しっかりデザートまで買ってやがる。

この甘いデザートを食うのは癌か親父か?

かたや僕は酒を大量に買う。飲まなきゃやってられるか、というアレだ。本当に飲まなきゃやってられなかった。

宿泊施設で1泊して、次の日の治療がある。
それもまた夕方くらいまでかかっていた。

治療が全部終了して、そこから車で家に帰る。
熊本→宮崎は楽じゃないぞ。

休憩も入れて4時間くらいかかったんじゃないかと思う。

途中サービスエリアに寄った。
僕は「熊本ラーメンを食う」というと、親父も「同じやつでいい」と言った。

この時、親父も僕も一緒に熊本ラーメンを食った。客観的に見れば、ただの親子の食事だ。
むしろ、僕はニートの馬鹿息子に見えてたんじゃないか?とも思う。

だけど、実際は癌患者なんだよな。
と、ラーメンを食ってる親父を見ながら思っていた。

家に帰ると母ちゃんが「お疲れ様」と迎えてくれた。本当にお疲れだった。
僕も運転で相当まいってたが、親父もかなりキツそうだった。

治療終わってそのまま長距離移動、そりゃきついよな。かわいそうだったけど、これ以上してやれることはなかった。

長距離運転で疲れた僕は休んでいる場合じゃない。ビールを飲みながら仕事した。

この時は無茶苦茶理不尽な客を相手にしており、飲まないとやってられなかった。

あいつは今思い出しても殴りたくなる客だ。


通院から帰った次の日、僕は神奈川へ戻った。
嫁とウサギをずっと会ってなかったからだ。

宮崎に慣れると宮崎がいいなと思う。神奈川に帰ると神奈川がいいなと思う。住めば都。どこでもいいんだなと思った。

親父の通院は続くので、神奈川に滞在するのは1週間だけ。

この間に伊東へ旅行へ行った。熱海の少し先にある場所だ。
最高に楽しい旅行で、夢のような時間だった。

親父が死ぬかもしれないという不安と、目の前の親父が毎日弱っていく姿を見るのは本当に辛かった。

一旦、距離を取れたことや嫁に会えたことで僕自身元気が出た。

伊東で食った静岡おでんが美味かったことはよく覚えてる。

旅行から帰った次の日からはまた宮崎だ。親父の治療のために頑張る時間だ。


2022年6月7日 神奈川→宮崎へ移動。
いつも成田空港からの移動だ。慣れてきた。

その辺のビジネスマンより飛行機乗ってるんじゃないか?
宮崎空港のPCR検査にも慣れてきた。

そういえば、いつからブーゲンビリア空港になったんだっけ?

実家に戻ると親父がいた。
なんかまた元気がなくなってる気がする。

僕は神奈川と宮崎を行ったり来たりしてたから余計に感じやすい部分もあるが、会うたびに"前より元気なくなってる"という状態が続いた。

元々口数の少ない親父と少しだけ話してその日は寝ることにした。また明日は熊本通院だから。

そして、6月8日。
通院のときは毎回午前中から行動だ、本当に辛い。

今回のスケジュールは8日に前乗り、9日に治療して一泊、10日の治療後に帰るというスケジュールだった。

病院のすぐ近くの宿泊施設に泊まることになってたので、道順もスムーズ。早朝からの移動もないので、前乗りさえ終われば気が楽だった。

熊本に向かう途中、サービスエリアによった。
この頃、親父は食欲が明らかになくなっていように感じる。

サービスエリアに辛麺があった。宮崎名物にもなってる。簡単に説明すると激辛ラーメンみたいなもの。

ちょうど食べたかったので注文してみた。しかし、このサービスエリアの麺は米粉麺だった。僕はこんにゃく麺が好きなのに。

納得いかない辛麺を食ってる間、親父は隣で静かにお茶を飲んでいた。何も欲しがらなかった。

この頃、親父から少しでも目を話すのが怖かった。トイレにも着いていっていた。サービスエリアのトイレで倒れるんじゃないか?と心配して、ずっと近くで見ていた。

きっと僕が子供の頃は親父が見守っていてくれたんだろう。子供の頃親父と手を繋いでたことを覚えている。

親父は背が高いので、子供の僕には手の位置がものすごく高かったのだ。

もう少し低くしてくれりゃいいものを、子供の僕は必死に手を伸ばしていた気がする。

時は経ち、今度は僕が見守る番になったってわけだ。

元気がなくなっていく親父を乗せて熊本へ向かう。この時でも、僕は親父と2人で出かけることがどこか嬉しかった。

宿泊施設についても大した会話はない。親父は基本的に寝ている。病院にいくか、飯を買いに行く時に連れていくくらいだ。

この頃の親父の手足はパンパンにむくんでいた。

特に足のむくみはきついらしく、寝る時は足を高くしてくれと毎回言ってきた。

僕は日中に履けるように着圧タイツを買ってきた。これで少しはマシになったらしい。

熊本についたその夜も近くのスーパーで飯を買った。偶然に2人とも同じ寿司を買った。

宿泊施設で一緒に食う。そのときになぜか親父の寿司のネタ1個行方不明だった。

米はあるのに上に何も乗ってない、そんなことあるか?と2人で本気で話し合った。今までで一番真剣に話したと思う。

周りに落ちてないか?なんで買う時に気づかなかったか?など。本当にどうでもいい話だが、この話が一番長かった気がする。

そんなこんなで前乗りの夜は終わる。

日付が変わって治療の日。親父を病院に送ったら、僕は仕事だ。
またフードコートに入り浸る。

そこは大きめのショッピングセンターで家族連れがたくさんいた。
子連れ、カップル、夫婦、親子、おじいちゃんおばあちゃん。

すごく幸せそうに見えた。
なんで僕の親父が…。この人生のはずれくじを引いた痛みは本当に痛かった。

親父が癌なのが辛い。母が辛そうなのが辛い。僕は嫁やウサギと離れてるのも辛い。そして周りの人も親父の死が近づくのが辛い。

でも、ふとしたときに思った。
僕は仕事をしながら、親父を通院させることができている。これが素晴らしいことなんだと。

幸せはあるときには気づかない。失くして初めて気づくものだと思う。

今、きっと最悪なんだ。
だから、僕の働き方は正しいんだと自分に証明できた。初めて自分に胸を張ることができた。

フリーランスという生き方だ。
社会不適合者の僕ができる、生き方だ。

この時に心の底から思った。親父に死ぬまで付き合ってやるよって。



一泊二日の治療も終え、帰るころ。
ショッピングセンターでいいものを見つけた。ウサギの置物だ。

僕は家にウサギがいる影響もあり、ウサギの置物を集めている。
買う時は必ず嫁に許可をもらって買う。

その日もLINEでウサギの置物の写メを送った。嫁からはなかなか返事がなかった。

そうしてる間に親父から「病院終わった」との連絡。迎えに行った。
そこから宮崎へ帰ってる途中に嫁からLINEが来た。

「可愛い!買おう」という内容。だけど、もう帰り途中で店から離れてしまった。

僕は「また来週来るから、その時買うね。まだ残ってたら」と返信した。

結果的に、あのウサギの置物が残っていたかはわからない。それが最後の熊本通院になってしまったからだ。


📍ろうそくの火はいつ消える?

自宅に帰ってきた親父は、全く治療の効果が出てないように見えた。

むしろ日々悪化していった。

よく覚えてるのは6月11日の朝。最悪の目覚めだった。

ドタン!!という音と、母の「お父さん!」と叫ぶ声で目が覚めた。
今で親父が倒れていた。

正確には何かにつまづいて転んだみたいだった。末期癌患者がこけるんだから、派手にこけていた。

幸い大きな怪我はなかったが、デコにたんこぶができる始末。でも、親父は病院に行きたがらなかった。

病院に行けば入院させられることがわかってたんだろう。

親父は少しでも家にいたかったと思う。
そして、僕らも少しでも家にいてほしかった。

それも叶わなかった。
親父と家で過ごす時間は、まもなく終わりだ。



2022年6月14日
「お父さん、病院に行こう。」
力無い声で母ちゃんが説得していた。

悲しそうに。
怒りながら。
泣きながら。

ずっと嫌がっていた親父も観念した。
もう相当きつかったんだろう。ずっと苦しそうだった。

家にいても居間かベッドで横になっているばかり。
朝も昼も夜も。夜中もだ。

僕だって嫌だ。全員が嫌だ。
でも、病院に行くしかなかった。

この時の母ちゃんの気持ちを考えると苦しくてしょうがない。
送り出したくない。家にいてほしい。本心は絶対にそうだった。

あの頃、癌患者なのに割と元気だったおっさんは、車椅子に乗らないと移動できなくなっていた。

少なくとも1年前は何もなく元気だった親父。
会えば説教くさい話ばかりだった。

でも、今は僕が車椅子を押している。
親を介護するってこういう気持ちなんだろう。すごくやるせ無い気持ちだった。

📍困った時の神頼み

僕は都合のいい人間だ。
普段は全く行かない神社にお参りしまくった。

困った時の神頼み。困った時"だけの"神頼みだ。

いつもお参りするのは正月だけ。
100円を投げ入れて「金持ちにしてください」と願うのが毎年の行事だ。

しかし、今は違った。どうにか助けて欲しかった。

もう見えない何かに頼るしかなかった。
「癌を治してくれとは言わないが、あと少しだけ」と願うばかり。

僕は親父のために鹿児島県の霧島神宮にお守りを買いに行った。この神社はなんとなく相性がいい。だから、ここのお守りがいいと思った。

そして、面会のときにそのお守りを親父に渡した。

もうベッドに寝たきり状態だった。もうトイレも1人ではいけない状態になっていた。

入院した部屋はナースステーションのすぐ隣だった。

常に点滴が欠かせなくなった親父。食事もほとんどできていないようだった。

母ちゃんが「TVでも見たら?」というと、「そんな気力もない…」と言った。あの言葉が印象的だった。

すごくズシンときた。
心の重さを感じた。

スピッツの「大好物」という曲に『低く飛ぶ心』というワードが出てくるが、本当にそれだ。もはや僕の心は飛べなかった。

もう親父は朝から晩まで寝ているだけ。
僕らが面会に来る以外は1人で時間をすぎるのを待つしかない。

しかも、待てば待つほど悪い方向にしか向かわない時間だ。

この頃から、親父は目に見えて元気がなくなっていった。食事ができなくなってきたことも大きかったんだろう。

それでも、まだプライドだけはあったように思う。

次の日、朝はやくに親父から電話がきた。
「オムツがなくなったから買ってきてくれ」

しかし、まだ8時。早くても薬局は9時からしか空いてなかった。
とりあえず出かける準備を済ませ、開店と同時に薬局へ行った。

オムツコーナーにはたくさんの種類がある。
どれを買えばいいのか?さっぱりだ。たくさん並ぶオムツを持ち上げては見比べていた。

「自分の親のオムツを選ぶ時期が来るようになるとはな」と時の流れを感じる瞬間だった。

これが介護だったらまだよかったのかもしれない。一緒にいられる時間がまだあるなら。

そして、僕はオムツを届けた。
看護師さんに手渡すだけだ。

この頃は予約しないと親父との面会はできなくなっていた。コロナがまた増えていたのだ。そんな大変な中でも、先生と看護師さんはすごく真摯に対応してくれたと思う。

数日に1回会うペースになっていたが、親父はどんどん悪化していった。

会いに行った時は部屋が独特な匂いがするときもあった。漏らしてるんだろう。

オムツ交換をしてもらっている間、僕と母ちゃんが先生に呼ばれた。

もう何度目だろう。先生からこうやって話してもらうのは。

今回の話はいつもと違った。
「緩和ケアに移りませんか?」

実質、死の宣告だった。癌患者の家族になった僕らも緩和ケアのことは知っていた。

もう手の内ようがなく、痛みを少しでも和らげるしかないということだ。

もちろん、まだ癌に抵抗したかったが何もできないのは素人目にもわかっていた。だったら、少しでも親父が苦しまない選択をしたいと思った。

緩和ケアに移るにあたって、やはり大切なのは本人の意思。
親父と家族とよく話し合ってくださいと言われた。

そして、その日は家に戻った。

話し合うというより、実質親父の説得だ。
僕らは親父を説得するというミッションを課せられたということだ。



これから親父と緩和ケアについて何度も話し合った。

電話で話したり、面会のときに話したり。
親父の答えは一貫して「諦めない」だった。

まだ熊本の病院へ行って癌治療をしたいと言っていた。
その方法を探してくれと言われた。

熊本の病院は入院はできないので、通院しかない。
熊本に住居を借りて通院する?寝たきりの親父を誰がどうやってめんどう見るんだ?

僕は熊本へ付いていけてもニートではないのだ。24時間面倒見るのは現実的に不可能だった。

そもそも、寝返りすらうてない親父をどうやって運ぶかという問題もあった。

問題だらけだ。
問題はあっても答えはなかった。

遠回しに、遠回しに諦めてくれというしかなかった。緩和ケアに移るための説得に時間の余裕はなかった。

緩和ケア病棟というのは、移動しますといって次の日に移動できるものではない。病院間の連携が必要になるし、空きの問題もあるので早くて1週間ほどと言われていた。

明日どうなるかもわからないような親父に1週間は長すぎた。だから、即決してほしかった。

僕は親父を説得するために何を話しただろう。
きっと"本音"と"事実"と"嘘"を絶妙にブレンドして説得したんだ。

ここで僕が吐いたたくさんの嘘は、優しさだったと思うんだな。息子として苦しくないわけないだろ?

数日に及ぶ説得と、苦しみから親父はやっと緩和ケアを了承してくれた。

そのことを先生に伝えると、先生は驚いた顔をしていた。
「どうやって説得したんですか?」

多分、親父は先生にも頑なに緩和ケアを拒否していたんだろう。それほど、諦めない執念の持ち主だった。

親父はずっと独りで病と闘っていた。

こうして、緩和ケアに移る了承を得て手続きが進んでいった。

📍真っ暗な希望へ向かって

数日後の2022年7月8日。
親父は緩和ケアの病院へ移ることになった。

先生たちが手配を急いでくれたおかげで、割と早い段階で移ることができた。

最後に、お世話になった先生と立ち話することができた。
僕と母ちゃんは「本当にありがとうございました、と感謝の言葉を口にした。

お世辞でもなんでもない、心からの言葉だった。僕はあの先生に死ぬまで感謝している。素晴らしいお医者さんだ。

ストレッチャーで運ばれていく親父。

どうしてこうなってしまったのか。そんな言葉が頭をよぎった。

以前、同じようなことを親父も言っていた「どうしてこうなったのかねえ・・・」

これはすごく悲しい言葉だなと思った。まるで罪人のようだ。何かの罰を受けているかの様な言葉だった。

親父が何をしたというのか。本当に心のそこから運命も神様も呪っていた。

世の中に腐るほど極悪人がいるのに、なぜ僕の親父が。
そう思うのが当たり前だろう。僕は正常だったと思う。何もかもが憎かった。

でも、憎むべき相手は誰もいなかった。
僕の周りは全員優しかった・・・。

親父は介護タクシーに乗り、母ちゃんも付き添った。

僕は自分の車で後ろからついていく。見えるのは親父の足の裏だ。

あの時の気持ちを表現する言葉があるのだろうか。

自分の大好きな父親がモノのように運ばれていく。しかも、安らかに死ぬために。

悲しいとか苦しいとか辛いとか、そういう二次元の感情ではないんだ。

もう最悪だ。
最悪。
最悪としかえない。

全てが最悪だった。全てが悪い方へ向かってる証だった。

しっかり伝えておきたいが、介護タクシーの運転手はすごく真摯に対応してくれて誠実な方だった。親父に最大限の敬意を払ってくれた。
あくまでも親父がモノように見えたのは僕の主観だ。

病院が変われば気持ちも変わるだろう。そんな期待も少しはあった。

すごく暑い夏。
最高に青空の最悪の日だ。

これから、親父はここで過ごすんだ。
最後の時じゃなくて、もう1回くらい巻き返せるだろ!?って心のどこかで思っていた。

でも、親父はもう寝返りすら満足にできない状態だった。

数人がかりでストレッチャーから移し、少し会話するのがやっとだ。

もう、母ちゃんと僕は満身創痍だった。
疲れているなんてものじゃない。

帰りに、母ちゃんと2人で飯を食いにいった。
うまいはずのちゃんぽんは、全く味がしなかった。

食欲なんてない。食っとかないとなという義理で食ってるんだ。

そんなときにスマホにニュースが届いた。

「安倍元総理が撃たれました」

母ちゃんは最初、僕が冗談を言ってると思ってたらしい。そんな笑えない冗談いうわけがない、そこまでセンスは悪くないはずだ。

この日は忘れもしない、世間にとっても最悪で衝撃的な日だった。

📍ロウソクガ燃エ尽キル匂イ

"緩和ケア"

すごく苦手な響きだ。

もちろん、たくさんの医療従事者に感謝しているのは前提で。

とにかく緩和ケアの病棟は重い空気だった。
コロナ禍というのもあり、特別なマスクもつけなければならかなかった。

本当に呼吸が苦しいくらいのマスク。そして、飲食も禁止だったのでお茶すら飲めない状況だった。

親父がいる部屋までの道はすごく遠かった。
病院独特の匂いは気が滅入った。

面会者用の入口で面会証を見せる。
そして、左へ曲がって「売店」の看板を右へ。
ずっと真っ直ぐいって付き合ったら右。
そこにあるエレベーターで6Fで。

すごく遠かった。

最悪の道のりだった。ペタペタくっつくような、あの独特の床が嫌いだ。

心に重力がかかる感覚。
もう本当に重い苦しい。

親父に会える時間もあとわずかかもしれない。
母ちゃんと僕は、お互いにカウントダウンを感じていた。

僕は不定期に日記をつけていた。この頃の日記は最悪だ。

7.9(土)
午前中親父に会いにいった。もう辛い。

7.10(日)
午後から父ちゃんに会いにいった。水も満足に飲めない。早く楽にしてあげたい。

7.11(月)
先生から話があった。あと1週間もたないらしい。葬儀の準備をしろと言われた。
親父はもうまともに会話もできない。

7.12(火)
俺自身元気がない。父ちゃんは今日は特に辛そうだった。見舞いにいくだけで気が滅入る。

7.13(水)
朝からマックで仕事して、親父に会いにいって、その後またマックで仕事をした。
マックには楽しそうな人がたくさんいる。

7月11日(月)はすごく不思議な日だった。

もう親父もいつ死ぬかわからないので、泊まりでの付き添いを許可された。そのための条件がPCR検査だった。

僕は空港で何回も受けていたこともあり、PCR検査は日によって結果が出ることが遅いのを知っていた。

いつも通り親父と面会が終わった。いつも母ちゃんと2人でドッと疲れたまま、車に乗る。

不思議とその日は僕が率先して
「今からPCR検査を受けに行こう」と言った。

すごく疲れていたし、すごくめんどくさかった。でも、今やらないと遅いと感じてその場で予約した。
宮崎市内のデパートの中のPCR検査場に母ちゃんといった。

検査を済ませて家に帰る。
結果は、次の日12日(火)の19時にきた。2人とも陰性だ。

そのおかげで13日(水)は母ちゃんが病院に泊まることができた。

2022年7月13日が親父の人生最後の夜となる。
母ちゃんは、父ちゃんとの最後の時間を過ごすことができたんだ。

📍2022年7月14日没

この日、親父が死んだ。


寝起きの悪い僕に朝から電話が来た。母ちゃんからだ。

「父ちゃんがもう危ないからすぐに来て」という内容だった。朝が苦手な僕もすぐに準備して、15分ほどで到着したと思う。

親父の病室は6階。
エレベーターを降りたら、廊下まで母ちゃんの声が聞こえていた。

親父は緩和ケアで、心拍計など大掛かりな機会は一切ない。
看護師さんが付き添って、脈や呼吸を見てくれるのみ。

僕が来る直前まで呼吸、脈は止まったり動き出したりだったらしい。
本当にギリギリだった。

僕は最後に親父を抱きしめた。
「父ちゃん、頑張ったな。ありがとな」そう声をかけた僕に、
親父は最後に「ふー…」と大きく息を吐いた。

それが最後だった。

闘病ですごく辛いラストだったが、親の死に目に立ち会えた僕は幸せだった。

夜に爪を切る僕でも、親を看取ることができたんだ。

それからしばらくして、兄貴も到着。
家族4人、これが原点だ。

先生が来て、"9:50"ご臨終を宣言してくれた。


全てが終わった。


父親が死んだ家庭なんてのはよく聞くけど、当事者になるとここまで辛いものなのかと痛感した。

きっと、この思いをいくら言葉にしても誰にも伝わらないだろう。

亡くなったあとはすごくドライだ。悲しむ間もなく「部屋を片付けてください」と言われた。

30分以内に部屋を全て片付けた。
1時間後には葬儀屋さんが来て、家まで親父を運んでくれた。

そして、
動かない親父が家に帰ってきた。

鮮明に覚えている。親父を布団におろすとき、手がだらんとしてた。
まだ硬直すらしてなかった。

僕と母ちゃんは思わず同じ言葉を吐いた。

「やっと帰ってきた…」

僕はここで初めて大泣きをしたと思う。
だって、大好きな父ちゃんが死んだんだからな。

家族は悲しむ暇なんてないというが本当にそうだ。特に母ちゃんは悲しむ暇なんてなく、葬儀の打ち合わせ。1時間以上。

正座して、小さな背中で必死に親父を見送る準備をしていた。

冷静な話なんてできないよな。誰が来るか、花は何にするか、そんなもの考えるのは一苦労だ。

遺影はどうしようか。
そんな話になり、親父の写真をパラパラと見ていた。

母ちゃんが「これがいいじゃない」と言ったその写真は、あの桜をバックにした写真だった。

遺影に使った写真

病気だが親父らしい、少し笑った写真だった。あのとき僕が撮った写真だ。何か全てがどこかで繋がっているような、運命のようなものを感じていた。

しかし、そんな感傷に浸る時間もなく、ドタバタと親父を送り出すスケジュールが決まっていった。

そんなドタバタをよそに、親父は和室で静かに眠っていた。
本当に静かな寝顔で。



親父が帰ってきたばかりのこの日、たくさんの人が家を訪ねてくれた。

叔父さん、母方の親戚、昔からの知り合い、近所の人たち、母ちゃんの親友たち。

すごくたくさんの人が親父の死を悲しんでくれた。それは、母ちゃんが"最高の妻"だった証明でもあった。

小学校以来会っていなかった近所のおばちゃんたち。本当にたくさんきてくれてありがたかった。

人波も落ち着いて、夜は親族だけの時間だった。

姪っ子甥っ子はたくさん泣いた。本当にたくさんの涙で親父を迎えてくれた。

この前のばあちゃん以来、2回目の死を見た。

親父はこの子たちにとって"最高のじいちゃん"だったと思う。だから3人とも号泣した。枯れるほど泣いた。

親父には僕の子のおじいちゃんでもいてほしかったが、それはもう二度と叶わぬ願いになってしまった。

親父が帰ってきた日、布団を敷いてみんなで寝た。

僕と兄貴がまだ保育園生だったころ、布団を並べて4人家族寝ていたあの頃のように。

📍通夜・葬儀の日

通夜の日を迎えた。葬儀場へ運ばれて行く親父。

葬儀場に着くと、棺に入れる前に親父を綺麗にしてくれるらしい。湯灌(ゆかん)といって、親父をお風呂に入れてくれるのだ。

僕らは目の前でそれを見ていた。

持ち運び式のお風呂に親父を入れ、全身にお湯をかけてゴシゴシ洗ってくれた。
正直大丈夫か!?と心配になるくらいゴシゴシだ。

でも、その様子を見てて僕と母ちゃんはすごく嬉しかった。

「ずっとお風呂入れてなかったもんね、よかったねお父さん」
母ちゃんは泣きながら言っていた。

もう1ヶ月以上、風呂も食事もまともにできていなかった親父。本当に苦しい思いをしていたと思う。

最後のときを迎えるために綺麗にしてくれた業者の方には心からありがとうと言いたい。

その後、親父は白装束ではなくいつものポロシャツ姿になった。
それがお父さんらしい、ということだ。

ちなみにその服はパチンコに行く時の正装だ。

この日もたくさんの人がきてくれた。大賑わいだった。
久しぶりに親戚も大集合し、大騒ぎだ。

親父がしゃべれたら「うるさい」と怒鳴ってきそうだが、それももうない。

あんなに連日天気がよかったのに、通夜は大雨だ。
綺麗にバッドエンドを演出してるようだった。

そんな中、親父の昔からの職場の知り合いの男性が来てくれた。
僕は一切面識はない人だった。

「ギターしてる息子さんはどちらですか?」
そんなことを言われた。

なんで僕がギターをしてることを知ってるんだろう?と疑問だった。
そんなこと人生で初めて言われたから。

その男性は言った
「息子がギターしてて、東京で頑張ってるって自慢してましたよ」

初めて知った。
親父にとって僕はどんな息子なのか、ずっと疑問だった。

ギターに夢中になることや、東京に行ったことをどう思ってたのか聞いたことがなかった。

親父が誰かに僕の存在を自慢してくれていたことは本当に嬉しかった。
そして、恥ずかしいし申し訳なかった。

今ではすっかり夢も何もない男になってしまったから。

でもね、ローリーの言葉を借りるなら「ギターが僕を選んだんだ」と言いたい。ギター、ロックとは僕にとって生き方だ。

それを許してくれた親父のおかげで僕の人生があり、人生観がある。
そして、仕事があり、働き方がある。

だから、親父の人生の最後を全力で付き添えたんだ。

親父は僕という未来に投資して、成功した。
だからきっと幸せなんだ。
少なくとも、僕は幸せだった。

夜には、棺の中で寝ている親父と、葬儀場でゆっくりと過ごした。母ちゃんと僕と嫁は葬儀場に泊まった。

この日だけは僕も酒を我慢した。



そして、葬儀の日。

朝から親父との思い出を振り返る。

本当に波乱の2022年だった。

神主さんが現れ、着々と葬儀は進んでいった。

玉串。
通夜、葬儀に出ると合計何回やるのだろう。

でも、玉串を置くたびに親父との時間が終わっていく感じがした。

「それでは最後のときです」
司会の方が言う。

みんなで親父の棺に花を入れた。たくさんの人が号泣した。

夫を失った母ちゃんが一番号泣した。

もう二度と会えないのか、これで全部終わりなのかとおもうとやるせなかった。

僕も今までで一番号泣した。

だって、ここ最近ずっと一緒にいたんだからな。

親父の棺を締めるとき、僕は母ちゃん、兄貴の手を引っ張った。

3人で親父の顔に触れた。
「また家族になろう」
それだけしっかり言いたかったんだ。



また、火葬場にきてしまった。つい、この前きたのにね。

予感した通りの最悪な出来事だった。

火葬するボタンは母ちゃん、兄貴、僕の3人で押した。

「ありがとう」
兄貴がそう声を出してくれた。

この親父と過ごした時間が、一番兄貴と僕の絆を感じる時間でもあったかもしれない。

兄ちゃんはいつまでも兄ちゃんだった。

そして、全てが終わってしまった。
救いようのないほどに全てが終わった。

僕は生まれて初めて心労を感じた。
心って疲れるんだな、心からそう思った。

寝ても覚めても、平日も土日も祝日もすごく重い心は体力どころか生命力を消耗させるようだった。

ずっと心労続きだったこの期間。
すべてが終わった今、心のどこかが欠損した気がする。

それは母ちゃんも兄貴も同じだったと思う。

心に義手や義足はない。
もう二度と再生しない心の欠損を受け入れて、生きていくしかない。

📍その後

親父の遺影が実家に飾られている。
すべてが終わったんだなと思う。

遺影に手を合わせる毎日だ。
昨日も今日も明日も。

僕はひとり話しかけていた
「馬鹿息子でごめんな」と。

でも、冷静に考えてみた。
馬鹿息子だったからそばにいれたんだ。

僕ができる人間、出世してたらどうなった?
たくさんの人の生活を背負うような人間だったら?
最後までそばにいれたか?

ああそうか。
僕は馬鹿息子だから最高なんだ。そう思えた。

親父は19歳の僕を専門学校へ行かせてくれた。
ちょっと特殊な学校で、あまり就職状況などは良くないものだった。

何も言わず学校へ出してくれた親父。
2年間で100万以上の学費だった。

だけど、あの経験があったからこそ今の僕があり。
そして、僕だったからこそ約9ヶ月もの長い期間を親父に尽くしたんだ。

100万ほどの投資をしっかり回収した親父。
どこまでも親父の思惑通りだったと思うと、ちょっと悔しい。

僕は会社員ではなくフリーランスとして生きている。
会社員にはなれない社会不適合者だからだ。

だからこそ、親父の闘病に時間を費やすことができたし、親父の死に目にもあえたと思う。

でも、これは僕の実力うんぬんではない。仕事をくれる人たちの優しさ以外の何者でもない。

見えないところでたくさんの人が僕を支えてくれた。その恩だけは忘れないでいたい。

結局、僕はクソなままだ。



でもね、父ちゃん。
親孝行できただろ?
こんなもんだよ、俺なんて。



母ちゃんは毎朝、親父の遺影に「おはよう」という。
親父は最後の朝に母ちゃんに「おはよう」と言ったらしい。

今も声は聞こえないけど、おはようと言ってるんだろう。

8月某日。
今日も天気がいい。
"最悪な僕たちの夏"がすぎていった。



2022年8月16日
あるバンドの新曲がYoutubeにアップされた。

King Gnuの「雨燦々」だ。

衝撃的だった。
ものすごく泣いた。今までの苦しみを全部洗い流すように。

家族にとって、親父にとって、僕にとって最悪な2022年をすごく優しく包んでくれるような曲だった。

歌詞とメロディに本当に涙が出る。何度も感動した。そして何度も救われた。

最悪だった時間がすべて許された気がした。
頑張ったなって言ってもらえたような気がした。

King Gnuは元々好きなバンドだったけど、もっと好きになった。本当にありがとう。

音楽は、ロックは最高だ。

King Gnuが降らせた雨は、僕の心を綺麗に洗い流してくれた。

僕がここまで苦しい思いをしているのは、家族愛があったから。

家族が好きだから、親父が好きだから。

そして、親父が僕を愛してくれたから。

父ちゃん。
めちゃくちゃ愛してるよ。
また会おうな。

💬2021年11月-2022年7月
約9ヶ月の間に起こった僕たちの悲劇。
心は傷ついて、折れて、割れて、引き千切れて、ダメージの全てを感じている。その痛みはまだまだ消えません。
その間、本当にたくさんの人が支えてくれました。
僕にとって「人と人の繋がり」というものを、すごく感じた時間でした。
自宅、通夜、葬儀にきてくださった、たくさんの人たち本当にありがとうございました。
遠方からメッセージをくれた人たちも本当にありがとうございました。
この期間にも僕を信じて仕事をくれた方々本当にありがとうございました。
ずっと僕を支えてくれた、嫁とウサギ本当にありがとう。
たくさんの人に見送ってもらえて本当に親父は幸せでした。
そして、僕も救われました。
心の底から感謝しています。ありがとうございました。
この9ヶ月の出来事は僕の価値観を大きく変える出来事でした。
癌は人ごとではない。病気で家族を失うのは人ごとではない。
いつ誰に起こってもおかしくないことです。

このつらつらと長い物語を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

この体験が少しでも誰かの役に立てば嬉しいです。良かったと思ったら記事のシェア、スキをお願いいたします。

家族に寄り添える人が、ひとりでも増えますように。

最後に一言。



「最近、親孝行してますか?」


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