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ウズベキスタン人にとって言葉は壁ではない【ウズベキスタン旅⑤】

2017年の夏に20代女子2人でウズベキスタンを旅した時に出会ったウズベク人とのエピソードを紹介するnote。前回は、ヒヴァで出会ったおじいちゃんの追っかけをした話。

2017年の夏、9泊11日の旅でウズベキスタンが大好きになった。ウズベキスタンの人々との素敵なエピソードは今までの4話のnoteに書いてきたが、なぜこんなにもウズベキスタンが好きなのか、理由を考えてみた。

ウズベキスタンが大好きになった理由を突き詰めて考えると、
言葉の壁を壁と思わないウズベキスタンの方々の大らかさがあったから
だと思う。

私たち2人は、いつもその土地の言葉を少し勉強して、現地の人とコミュニケーションをとることを楽しんでいるので、基礎的なウズベク語はインターネット調べて単語をメモしていき、もしかしたらロシア語が通じるかも、と微かな希望を持って、ロシア語の指差し会話帳を持っていった。

嬉しいことに、とにかく話しかけられるのだけど、特に地方のおばあちゃんおじいちゃんは、英語もロシア語も話せない。加えて、ウズベキスタンにはウズベク系民族以外にも、タジク系、カザフ系など多民族が住んでおり、その民族の言葉しか話せないお年寄りもたくさんいて、カタコトのウズベク語でも通じないのだ。

そんな言語の壁があったけれど、ウズベキスタンで出会った人たちにとってみたら、言語は壁ではなかったみたいだ。

こちらのおじいちゃんは、ブハラのメドレセの前のベンチで休んでた時に端に座っていて、私たちが外国人だと気づくと、優しく話しかけてくれた。何か私たちに聞いているようだけど、言っていることがわからないから、なんとなくこちらから自己紹介をして(「ヤポン!」と日本から来たことをアピール)、しょうがないから日本語で色々話していた。そうしていたら、お土産を売っている少年が近づいてきて、英語で、おじいちゃんはタジク語しか話せないんだよ、と教えてくれた。

タジク系のおじいちゃん

その少年を通じて、私たちは日本から来ましたーときちんとお伝えすることができた。その後もおじいちゃんは優しくタジク語で話しかけてくれた。お土産売りの少年の英語力も限界があって、結局何を話したのか、今となっては忘れてしまうくらい会話の内容は浅かったけれど、日本から来た女子2人を気遣って、受け入れてくれている気持ちが伝わってきて、それが何よりも嬉しかった。

ロシア語の指差し会話帳に興味を持ってくれたおじいちゃん

タジク語しか話せないおじいちゃんにとって、隣に座っている人が知らない言語を話していることは、至って普通のことなんだろう。

若い女性2人だったからとか、ウズベキスタン人が元々親日的だからとか、観光都市に来ている人は田舎から来ているから外国人が珍しいとか、そんな理由なのかもしれないけれど、言葉が通じない私たちに、自分たちの言語を使って、伝わるかどうかお構い無しに話しかけてくるウズベキスタン人がとてもとても多くて、それらの交流がなんとあたたかかったことか。

サマルカンドでは、警察官にプロフをご馳走になったし、

ウズベク人ファミリーと一緒に観光をしたりもした。

ブハラでは、熱中症で倒れた私を、通りがかった人たちが真剣に助けてくれた。

どの出会いも、言葉が通じる人たちばかりではなかった。
でも、彼らの言葉で話してくれて、ポジティブな気持ちを交換することができた。

話が少し脱線するが、私は今、タイのバンコクに住んでいる。
タイ語も1年間みっちり勉強して、日常生活で困らないくらいスムーズに意思疎通が取れるようになった。それでも、私の発音に外国人っぽさが残っていたり、言い間違いをしてしまったりすると、私が外国人だということで、タイ人に構えられることがたまにある。
「構えられる」というのは、
例えば、私がタイ語で店員さんに質問しているのに、英語で回答されたり、
スポーツジムの講師に、タイ語の説明が理解できることを事前に話しているにも関わらず、私に対してわざわざ英語でアドバイスをしてきたりといった、「外国人対応」をしてくるのだ。

彼らに悪気がないことは重々承知している。私が「外国人」だから、より理解しやすいように、彼らなりに配慮した上での行為だとわかっている。

それでも、
そのくらいの回答は、私はタイ語で十分理解できるのに、わからないと思われたのはなぜ?
タイ語で質問をして、彼らは私の質問しているタイ語を理解しているのにどうして?
なぜ私はタイ語で話しているのに、タイ語で返事がもらえないのか。そんなに私のタイ語が変なのか。
という負の感情が渦巻いて仕方がない。

自分の未熟なタイ語能力に対するコンプレックスがあることは認めるが、こういった「外国人対応」が悲しいのは、彼らがわざわざ英語という壁を使って、私という外国人と距離を置いたからだ。
英語で答えることで、「同じタイ語が話せない、外国人だ」と彼らが距離をとったことが明らかだからだ。それがたとえ善意だとしても、距離をとったことには変わりはない。

そうやって距離を取られると、”私は外国にいる孤独な外国人なのだ”、という気分に一瞬にして落とされてしまう。

今挙げた例はほんの一例で、タイでも気持ちの良いコミュニケーションをしてくれるタイ人が大多数であることを捕捉する。そしてこの現象は、タイ人だけでなく、日本や他の国でも起きる現象だと思う。

こうやって私がタイでコンプレックスを拗らせて、ネガティブになってしまう時に、ウズベキスタンで出会った人々のことを思い出す。

言葉が伝わるとか、伝わらないとか、そんなことはお構いなしに、話そうと、とにかくコミュニケーションを取ろうとしてくれていた人たちのことを。彼らの言葉を使って、一字一句は伝わらないけれど、あたたかい気持ちや、思いやる気持ちは十分伝わってきたこと。
そこに、ウズベキスタン人と日本人という対立や壁は無くて、人間同士のあたたかさを交換できたこと。
多民族国家であるウズベキスタンの人たちにとっては、当たり前のことなのかもしれない。

ウズベキスタンという国に行って、言語の壁を作らないコミュニケーションをたくさん経験したことが、2017年の夏からずっと、私の心をあたため続けている。

いまでも思い出す、ブハラのおじいちゃんとの出会い
写真慣れしていないので表情がコワモテだけど本当は優しい顔をされてます

#海外旅行 #旅エッセイ #言葉の壁 #言語学習  #異文化コミュニケーション #ウズベキスタン

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