見出し画像

映画「タイタニック」とトーマス・クック…レヴァントへの想い〜トーマス・クックシリーズ(番外編)⑧


沈没後、トーマス・クックはこのポスターを全て撤去。よって、たまたま残ったわずかなポスターには凄い値段がつけられました。

1912年(明治45年)
「世界一大きな蒸気船タイタニック号に乗ろう。君の分も入れて3人分のファーストクラスだ。トーマス・クックのオフィスで予約を入れてくれたまえ」

  1912年3月、アメリカ人の富豪であり、ハーパー&ブラザーズ出版社の設立者ヘンリー・ハーパーは25歳年下の若い妻マイラを連れて、50日間に渡るエジプトとスーダンの旅を楽しんでいました。(*当時はエジプトとスーダンは一つの国です)

 毎日つきっきりで夫婦の観光案内および通訳をしたのは、トーマス・クック・カイロの専属*ドラゴマン(*オスマン帝国時代における身分の高い通訳兼ガイド、交渉人)のエジプト人のハマド・ハッサブでした。

 27歳のハッサブは黒い髪に印象的な青い目をしていました。赤いトルコ帽を被っていなければエジプト人には見えないような、白人と変わらない風貌です。それにとても背が高く姿勢もよくて、身なりがパリッとしています。

 ハッサブはハーパー夫妻のエジプト・スーダンの旅行にずっと長いこと同行して案内しているうちに、自分よりわずか1つだけ年下のマイラ・ハーパー夫人ととても親しくなりました。

 エジプト・スーダン観光中、夫ヘンリーだけがいつも離れたところにおり、若くて美男美女のハッサブとマイラ夫人だけがくっついている光景は遺跡でもレストランでも汽車の中、ナイルクルーズ船の中でも複数に目撃されていました。

 長い旅の終盤が近づくと、二人は互いに名残惜しく、そこでマイラの方があることを思いつきました。
「ねえ一緒にアメリカへ行きませんこと?主人があなたの分の旅費やアメリカでの滞在費を全額負担しますわ。ねえ、あなた、いいでしょう?」 
 若くて美しい妻を甘やかすばかりのヘンリーはパイプを口に咥えながら微笑み、ゆっくり頷きました。

 ハッサブは跳び上がらんばかりに驚き喜びますが、大きな問題がありました。実は彼は新婚で、妻のファティマの妊娠二ヶ月が発覚したばかりだったことです。

 帰宅すると食事の時に、アメリカ人の富豪夫婦に無料のアメリカ招待を受けた話をしました。
「それは断るべきではないわ」
 裕福なパシャ(貴族)出身の彼女はいつでも豪邸(ヴィラ)の実家に戻れましたし、経済的にも不安がありません。例え半年ぐらい夫が不在でも何も困ることもないのです。なのでむしろアメリカへの渡航を勧めてくれました。

 翌日、ハッサブはオペラ座近くにある、シェファードホテルのトーマス・クックオフィスへ足を運び、勢いよく重い扉を開けました。ここは彼自身がドラゴマンの契約をしている旅行会社です。

 余談です。トーマス・クック社のドラゴマンへの給料は1.25 ポンドだったとのことですが、それが日当なのかどうか、イギリスポンドなのかエジプト・ポンドだったのか、ちょっと分からず。

 トーマス・クックオフィスの担当者は、すぐにアレクサンドリア港からマルセイユ港行きの蒸気船の三人分のファーストクラスチケット、そしてシェルブールの港からニューヨークまでのタイタニック号の三人分のファーストクラスチケットをそれぞれの船会社のオフィスまで買いに向かいました。

 タイタニック号のチケットも船会社にて直接購入することはできましたが、大抵は気軽に寄り易いトーマス・クックのオフィスで購入するものでした。金額も変わりません。(しかし船会社から旅行会社にはコミッションが入ります)
 具体的に言うと、タイタニック号ファーストクラスのチケット代は4,350ドル(現在の10万ドルに相当)でした。

 ハッサブは胸の高鳴りをおぼえます。外国に出るのは長年の憧れでしたし、しかもフランスそれからニューヨークへ行けるのです。しかも、しかもあの世界最大の蒸気船、タイタニック号のファーストクラスに乗れるのです。これが興奮せずにはいられません。

 トーマス・クックシリーズ、番外編がまたまた入り申しわけありません。タイタニック号のことを忘れていました。しかしどうしても、この話を知ってほしく、私も書きたく、ここで差し込みます。読んでいただくと心底嬉しいです。BGMは高い評価を得ているアラビア語版のmy heart will go onで...。アラブのテイストを取り入れ完成度が高いカバーです。


ジェイムズ・キャメロンの映画「タイタニック」

 1990年代
 
 プラハで私はレバノン系イギリス人の女友達と「タイタニック」を見ました。アール・ヌーヴォー様式の古い劇場を映画館に改築した、歴史のある劇場です。

 今でもこの演出を覚えています。上映時間開始5秒前くらい前でした。

 いきなり警報がけたたましく鳴り響き、
「なんだなんだ?火災?」
 
 館内の照明が消え、真っ暗に。
おや?と思った直後、非常に古いカーテン幕がするりするり開き、正面のスクリーンが現れ、そしてそこには大きな文字「TITANIC」。続いて本編が始まりました。劇場のこの演出は一生忘れません。苦笑

 映画が終わり、館内が明るくなりました。ふと隣を見ると、レバノン系イギリス人の女友達が呆然とした表情でいます。
 私も大いに泣きましたので、彼女も同じように感動したのだろうと思い、日本製の質の良いティッシュを一枚渡しました。
「こんな上質なティッシュを日本では無料で配っているのか!?ルーマニア辺りで高く売れそうだ」
 とよくチェコ人に感心された、街中で無料配布のポケットティッシュです。

 劇場を出た後、彼女はぽつっと言いました。
「3時間以上に及ぶ長い映画だったけれど、あのたった2秒のシーンに衝撃を受けた…」
「えっ?氷山にぶつかるシーン?ローズが胸を見せちゃうシーン?」
 チッと彼女は舌打ちをしました。外人の女はすぐに舌打ちします。笑
「全然違う。あのシーンよ」

トーマス・クック・カイロでタイタニック号の乗船券を購入する

 1912年
 エジプト人のハマド・ハッサブの血筋はアル・フセイン家という長い家系図で、彼はこれをとても誇りに思っていました。
 恐らくチェルケス系、または私の小説「エジプトの狂想」にも書きましたが、パシャたちは黒海地域から強制的に連れて来られた奴隷白人女性達を自分たちのハーレムに入れていましたので、きっとハッサブにもそういった白人の人種の血が流れているのだと思います。

 父親は地主で、カイロ市内にも不動産をいくつか持っていましたが、息子をヨーロッパ留学させるほどまでの財力ではなかったので、ハッサブは国外に出たことがなく、独学でフランス語、ドイツ語、英語を学び、難関であるドラゴマンの資格も取りました。
 ドラゴマンとは再度言いますと、オスマン帝国支配時代の位の高い通訳を指します。
 今でもエジプトでは観光ガイドが「ドクトール/ドクトーラ(教授、先生)」と呼ばれるのは、もともとこの仕事をドラゴマンが行っていたためではないか、と私は見ています。
 
 頭が良く外国語が得意だっただけでなく、人格も素晴らしかったハッサブは人々に「シェイク」(首長)と呼ばれ尊敬をされていました。
 外見にも恵まれ、知的であり人徳もある。アメリカ人実業家の若い妻マイラ・ハーパーが彼に夢中になるのも不思議ではありません。

シェルブール港でタイタニック号に乗船する

シェルブール港
ルート

1912年4月上旬
 アレクサンドリアの港を離れマルセイユ港経由でパリの街に到着すると、ハーパー夫妻とハッサブはパリの高級ホテルで数日滞在しました。
 
 このパリでハーパー夫人は小型犬を購入します。可愛いあまりの衝動買いだったのか、事前に購入予約を入れていたのか分かりませんが、 犬種はペキニーズ。

 夫人はその犬に孫文と名付けました。(中国原産の犬だからでしょう。そして1911、1912年といえば辛亥革命ですね…)

生き残った孫文(ニックネームはサンだがソンだったようです)

 4月10日。  
 ハッサブがハーパー夫妻と共にシェルブールの港に到着した時、そこにはシャアニーという名前のレバノン人の若い娘も大勢の家族と共にやって来ました。 ぱりっとして涼しい顔をしたハッサブと違い、彼女たちは見るからにくたびれていました。なぜなら、すでにずいぶん大変な長旅をしていたからです。

 シャアニーは兄、従兄弟、父親、姉妹たちと共に田舎を出た後、数日間かけてラバに乗ってベイルートの港にまで旅をし、ベイルートから今度は船の三等クラスでマルセイユまで行きました。
 その後、すぐに六時間汽車の最安値の席に揺られて、パリのサン・ラザール駅まで行き、さらに一時間かけて汽車の二等席でやっとシェルブールに到着したところでした。
 ハッサブのようにゆとりのある優雅な移動ではなく、パリで数泊して疲れを取るなどもしていません。

 しかし、シェルブール港で世界一巨大なタイタニック号を目にすると途端に力が湧いてきました。

 シャアニーは家族とアメリカへ移住するために、今まで必死に貯金し続けました。
 トーマス・クックオフィスでのタイタニック号三等クラスのチケットの購入には、全財産をはたいています。(どこのトーマス・クックオフィスだったのか不明で、ベイルートのオリエントホテルの中のトーマス・クックだったかもしれません)

 シェルブールはフランスですが、ここでタイタニック号に乗船したフランス人は21人だけでした。残りはアメリカ、イギリス、ベルギー、カナダ、クロアチア、ギリシャ、イタリア、レバノン、シリア、ウルグアイ、ポーランド、そしてロシアからの乗客でした。

 あとで説明しますが、これらの国籍には「あるひっかけ」があります。

 そうそう、この港で積んだのは乗客だけではありません。シャンパン、ワイン、チーズなどの高級フランス製品もタイタニック号に積まれました。具体的には75,000ポンドの肉、15,000本のビール、10,000本のワイン、12,000本のミネラルウォーターです。
              §

 エジプト人のハマド・ハッサブのチケット番号 PC 17572 でした。これを見せてファーストクラスに案内され、自分の豪華なキャビンを見渡し満足すると、今夜のレストランのために彼はいそいそとタキシードに着替え始めました。

 なおハッサブ以外、他にはエジプト人乗客はおらず、同じアラブ人はみんなシリアレバノン人ばかりでした。その人数は推定90から170人でした。(ユダヤ系は推定68人でした)
  
 一組のシリア人の新婚夫婦は二等クラスへ、そしてシリア系アメリカ人の実業家はファーストクラスへ向かいました。
 その他大勢のシリア人レバノン人は最下位フロアの三等クラスのフロアへ降りて行き、そのうち数十人は舵室の大部屋に入りました。
             
 シャアニーも身内集団と一緒にこの大部屋をあてがわれました。自分のベッドを決めると、彼女はそこに荷物を置き始めました。周囲はアラビア語だけが飛び交っています。
 このうちの誰一人英語を話せませんが、それについて不安を抱える者は皆無でした。これだけ同郷の仲間がおり、すでに和気あいあいとして楽しいムードに包まれていますから。

イメージ

 ベッドのつくろいもし終えると、シャアニーは三等クラスの乗客も許可されている船内の至る所を妹らと探検をし始めました。
 
 タイタニック号は「水上の宮殿」に見えました。小さな貧しい村で生まれ育った農民の娘の彼女は、このような立派な船など今までみたことがありませんし、三等クラスの廊下ですらも豪華に感じました。

 興奮しているのは妹たちも同様で、
 「アメリカでは道路が黄金で出来ているんだってね、楽しみね」
「それに少し働けば簡単に立派な一軒家を持てるのよね」
 彼女たちはこれから向かう新天地アメリカにも期待で胸を膨らませました。

 「私達は部屋に戻る」
 甲板での風が強くなり冷え始めると、妹たちは先に下に降りていきました。しかしシャアニーはもう少し一人でそこに居続けました。眩しかった。
「夕日が影を落とし始めており、その明かりがタイタニック号を照らしていました。まるで黄金の光に見えました」

 午後8時10分、タイタニック号はついにアイルランドのクイーンズタウン(現在はコーブとして知られる)に向けて、シェルブールの港から出航しました。

タイタニック号の犬たち

見づらいですが、乗船客の犬たちを預かるタイタニック号の乗務員たち

 ところで、ハーパー夫妻のペキニーズ「孫文」の他、イギリス人のエリザベス・ロスチャイルド夫人はポメラニアン、そしてジョン・アスターとマデリン・アスター夫妻はエアデール犬(名前はキティ)を連れてタイタニック号に乗船。

左が映画タイタニックでのジョン・アスター役の俳優、右が本人

 ドイツ系アメリカ人ジョン・アスターの先祖は開拓時代のハイデルベルクからの移民ですが、一代で不動産王になりました。
 さらに皮革貿易の独占権を連邦政府から与えられ中国に皮を輸出し、逆に中国からはお茶、アヘン、サテン、シルクなど輸入。億万長者になりました。

 その子孫である47歳のジョン・アスターは長年連れ添った妻のエヴァを捨てて、前から関係を持っていた18歳のマデリンと再婚。約30歳の年齢差です。しかも略奪婚。その結果、この二人の挙式を多くの牧師が拒否しました。

 ジョンとマデリンはニューヨークの上流階級で大きなゴシップになっており、その喧騒から逃げるために新婚旅行を兼ねて、二人はエジプト旅行をしました。行きの時はタイタニック号の姉妹船、RMSオリンピック号でした。

 エジプト滞在中にマデリンの妊娠が発覚し、すぐにこの国を離れました。
 そしてパリで優雅に滞在し、その後ナポリに移動します。ジョンはそこのナポリで出産を迎えてもいいと考えました。新妻専属のベテラン医師と看護師もずっと同行させていますから。
 だけども、マデリン自身は
「初産ですもの。ニューヨークで産みたいわ」
 そこで二人はシェルブールへ向かい、タイタニック号に乗船しニューヨークへ戻ることにしました。
 
 なにしろ全米屈指の大富豪ですから、この夫婦は船のファーストクラスの乗客の中でも、もっとも裕福な乗客でした。一番高額なトイレとバスルームが備えられたスィートルーム三部屋を占拠。C62,63、64です。
 タイタニック号の多くのファーストクラスのキャビンには専用のトイレもバスルームも備わっていませんでしたので、アスター夫妻の部屋はまさに別格でした。その上、ジョンは可動する暖炉と使用人の宿舎まで持ち込んでいます。

アスター夫人の「キティ」。エアデールと言われていますが、あまりそう見えませんね…?

 一方、四ヶ月かけてイタリア、フランス、アルジェ、エジプトを回った司祭夫妻の19歳の妊婦ヘレン・ビショップと25歳ディキンソン・ビショップは犬種不明の犬(名前はフル・フルー)を船に持ち込みました。

ビショップ夫妻

  カイロ滞在中、妻のヘレンは一人のエジプト人の霊能者に人生をみてもらっています。こう言われました。
「あなたは難破、地震、事故を経験し、そのうちのいずれかが原因で死ぬ運命だ」

 タイタニック号に乗船する時、愛犬フル・フルーがヘレンのドレスの裾をかんで「乗っちゃだめ」と言わんばかりに引っ張りました。旅慣れている犬です。なので、こんな行動は初めてです。
 ヘレンは驚き、一瞬、例のエジプト人霊能者の預言を思い出します。
 しかし、いずれにせよ祖国に帰る術は船旅しかありませんから、無理やりフル・フールを引っ張って乗船しました。

 初代アメリカ合衆国司法長官エドワード・ランドルフの曾孫のダニエルは、フランスでチャンピオン犬に選ばれたフレンチブルドッグを連れていました。

 他にもファーストクラスの客はブルドッグ、チャウ、キャバリア、他のポメラニアンとエアデール、グレート・デーン、そして不明の犬3頭含み、推定10頭から12頭の犬もタイタニック号に乗せています。

緑の部分のフロアが犬収容スペース

 タイタニック号の犬小屋についてはほとんど知られていませんが、それは三等調理室近くのFデッキにあったと考えています。大型犬はFデッキ、小さな愛玩犬たちは飼い主のキャビンの部屋に一緒に滞在していました。

 少なくとも数頭の犬は船尾の船尾甲板で運動させてもらっていました。キャメロン監督の映画「タイタニック」でも船員が乗船客の飼い犬たちを散歩させているシーンがありましたが、本当だったということです。

 航海5日目の4月15日にタイタニック号のドッグショーが開催される予定です。その告示ポスターも船内に貼られており、飼い主たちはとても心待ちにしていました。

エジプト観光を終えてからタイタニック号に乗船した富豪たち

 先ほど、シェルブールの港でシャンパンや食べ物なども大量に船に積んだと書きました。しかしこの港で積まれたのは他にもありました。古代エジプトの美術品の数々です。

 1805年から1952年まで続いたムハンマドアリ王朝時代のエジプトでは古代のミイラ、美術品は普通に売買され、ヨーロッパ人とアメリカ人たちはそれらを買い漁っていました。
 ただし、表向きは合法ではありませんでした。古代エジプト骨董品の保護局のイギリス人がヨーロッパ各国の外交官と裏で手を組み、エジプト人の協力者とムハンマドアリ王朝の統治者に賄賂を渡し、闇販売を行っていました。(旅行会社、ホテル、出入国管理もグルだったと、私は思います)

 繰り返します。億万長者のアスター夫妻、大富豪のハーパー夫妻とビジョップ夫妻、そして省略しましたがそのほかのファーストクラスのお金持ちたちもエジプト観光をした後に、シェルブールに来てタイタニック号に乗船しています。
 
 だから、このタイタニック号が海底に沈むと、秘宝を狙った者たちは宝石や黄金だけではなく、
「素晴らしい古代エジプトの美術品も沈んでいるのに違いない」
と興奮しました。

 エジプトでジョンとマンデリン・アスター夫妻と行動を共にしていた、鉱山王の妻であったアメリカ人のマーガレット・ブラウンは実際に間違いなく、エジプトで様々な骨董品やミイラを購入しています。(*本人は一部否定)

 1912年2月にマーガレット・ブラウンはRMSオリンピック号に乗りニューヨークを離れ、ヨーロッパ経由でエジプトにやって来ました。エジプトのどこかでアスター夫妻に出逢い、仲良くなり、それからは行動を共にしています。一応、アスター夫妻は新婚だったのですけど!

 4月10日、彼女はシェルブール港でタイタニック号に乗り込む時に、エジプトから持ってきた大きな木箱と頑丈な箱3つを少なくとも積んでいます。
 
 そのうちのひとつは古代時代の小さなウシャブティの像で、彼女はこれをお守り代わりにいつもポケットに入れて持ち歩きました。

沈没したタイタニック号から発見された古代エジプトのもので、最も有名な棺


 他のアメリカ人のお金持ちたちもエジプトで購入した「何か」の木箱などを積んでいます。だからタイタニック号は「エジプトのミイラの呪い」など言われました。
(実際に本物のミイラが載せられていたかどうかは、不明です。公式には否定されていますが、当時、西洋人観光客たちがミイラを購入していたことは有名なので、私はタイタニック号にも積まれていた可能性も睨んでいます)

映画「タイタニック」のシリア人一家のわずか2秒のシーン

1998年ー映画「タイタニック」世界公開(*東京では1997年公開)

 プラハの雰囲気ある重厚な映画館で私と一緒に「タイタニック」の映画をみたレバノン系イギリス人の女友達が言いました。
「私が映画で衝撃を受けたのは、あのシーンよ。
 船が沈没する時に三等クラスの乗客たちが運命から逃れようと奮闘する中、船のEデッキで道に迷い、英語で書かれた標識を必死に辞書を見ながら理解しようとしているお父さん、そしてヒガーブをかぶった妻、子供2人のシリア人家族が映ったでしょ、
 妻は夫にアラビア語で【ヤッラ、ヤッラ】急いで急いで、と急かしたじゃない?」


モデルになったシリア人一家は閉じ込められて亡くなったそうです。

「シリア人一家がタイタニック号に乗船していただなんて、知らなかったもの」
  確かに私もあのシーンにはちょっと驚きました。

 ジャーナリストで新聞コラムニストであり、シカゴとデトロイトでラジオ番組の司会者を務めるパレスチナとレバノン系のレイ・ハナニア氏は、のちにそのシーンについてこう発言しました。
 「ばかばかしいと思った。タイタニックの映画にアラブ人(シリア人)が登場するなんて! 

 しかし、あの2秒シーンのシリア人一家には実在したモデルが居たことを知り、彼もまた強い衝撃を受けました。なぜならやはり、彼もまたアラブ人もタイタニック号に乗船していたことなど聞いたこともなく、何も知らなかったからです。

映画を見て、その中でエキストラがアラビア語を話しているのを聞いたとき、タイタニック号のアラブ人乗客に関する情報を掘り起こそうと思いついた

 そして、
「タイタニック号に乗船した先祖を持つアラブ人の証言を求む」と
アラビア語の世界に呼びかけ、これが発端でタイタニック号のアラブ人たち探しが始まりました。

 その結果、驚きました。
「三等クラスの乗客の少なくとも10〜20パーセントはシリア人レバノン人だったという事実です。
 一番死者を出した、子どもまでも閉じ込められた三等クラスにこれだけシリア人レバノン人が乗っていたのに、最低223人は死んでいるのに、映画では見事なまでに彼らの存在、死について触れなかったことに開いた口が塞がりませんでした」

マイラ・ハーパー夫人とハッサブの不倫の噂

映画でも「ゴシップを話しましょう」のシーンが!

 1912年4月11日
 エジプト人ドラゴマンのハマド・ハッサブはずっとマイラ夫人にべったりつきっきりで片時も離れず、他の誰とも一切親しくなろうとしません。
 しかしハンサムでオリエンタルなエキゾチックさも漂わせています。ファーストクラスの女性たちは彼から目が離せなくなりました。

 中にはそばに近づき話しかける女性たちもいました。しかしハッサブはつれない。完全にマイラ夫人しか眼中にはない様子なのです。始終夫人にくっついて、夫人の顔を見つめ、夫人の言うことには何でも熱心に耳を傾けています。

 ちなみに、ハッサブがどんなにハンサムだったのか、私もみたいなと思い真剣に探しましたが、一切若い時の写真は見つかりませんでした。残念です。

マイラ・ハーパー

 青い目をした若いエジプト人男性と、美人で若いマイラ夫人が「禁断の関係ではないか?」と噂されるまであっという間でしたが、この噂に拍車をかけたのは、妻より25歳も年上のヘンリー・ハーパーが一人でぽつんと過ごしていることが多かったこと。
 レストランの食事のテーブルでも、ハッサブとマイラが体をくっつけるように座り、二人だけで会話をしていること。同じテーブルについていても、夫のヘンリーは蚊帳の外…。
 
 食後のカクテルパーティーにもヘンリーしか姿を現さず、ハッサブとマイラは参加しない、翌日の映画上映でもヘンリーだけが一人で現れた、、、。これでは色々な憶測を呼ぶのも無理もありません。

タイタニック号のレヴァント人たち

 2012年
 
タイタニック号沈没百年目を迎えました。

 1998年公開の映画「タイタニック」のあの2秒シーンをきっかけに、パレスチナ・レバノン人ジャーナリスト、レイ・ハナニアをはじめ、多くのアラブ人ジャーナリストやブロガーたちは乗船していたアラブ人探しを始めましたが、結局うまくいきませんでした。

 それでも前述のとおり、そのほとんど全員がシリア人レバノン人だったことだけは分かりました。
 乗船客の国籍はイギリス人(327人)が一番多く、次にアメリカ人(306人)、アイルランド人(120人)、スウェーデン人(113人)となっていますが、そのイギリス人とアメリカ人には、名前も西洋風に改名し、イギリス国籍、アメリカ国籍を取得したシリア人レバノン人たちが大勢含まれていることも判明しました。
 ただし問題はここからで、それ以上の情報がでてきません。

タイタニック号に乗船していたシリア人一家

 ちなみにシリア人レバノン人が多く乗船していたのは、1880年から1920年までの米国への彼ら移民のピークだった背景があります。
 1910年から1914年の間だけでも、今日のレバノンの人口の4分の1がアメリカやアルゼンチン、キューバ、パラグアイへ移住しています。

 その理由は、あまりにも伝染病感染病のパンデミックが多かった、それによる深刻な食糧不足、経済の停滞、政治的・宗教的緊張などでした。
 すでにイギリス、アメリカ国籍を取得しているシリア人レバノン人たちもタイタニック号に乗っていたのは、一時帰国をしていたためです。

映画「タイタニック」のアイリッシュダンスシーンは、本来ならば「ダブケ・ダンス」だった

 1912年4月10日
 タイタニック号が出航したその夜、三等クラスの大部屋には何十人ものシリア人レバノン人が団欒していました。
 その時、大部屋のメンバーの一人だった、あるレバノン人の若い娘が頬を赤くし、
「実は私には婚約者がいて、彼は先に渡米しているんです。私がアメリカに到着したら、すぐに結婚することになっているんです」

 誰かが口笛を吹き拍手をしました。途端に全員がヒューヒュー言い、ウードの楽器を持っていた男が演奏をし始めました。これが合図となり、一斉にみんな立ち上がり、踊り出しました。
「婚約祝いパーティーだ!」
 シャアニーも妹たちと手を取り合い踊りました。

 にこにこしその光景を眺める者たちは、船内に持ち込んだ黒オリーブをつまんだり、紅茶やジュースを飲んでいます。
「イギリス人の紅茶は不味い」
と悪口を言い合う女たちもいました。そうトルココーヒーの濃い味に慣れている彼女たちにとって、紅茶も濃厚でなければなりません。

 気づけば、歌えや踊れやはしゃげやの宴会となっていました。シャアニーは楽しくてたまりません。大勢と一緒に浮かれて、大声で歌って踊ってそして喋りました。

 このパーティーは翌日も、そのまた翌日も開かれました。
 他にやることがなかったせいもあったのでしょうが、生存した四人のシリア人レバノン人の証言によると(*生存者数も出典元により異なります)、三等クラスではこのような騒ぎをしていたのは自分たちだけだったそうです。

 これは言葉を返せば映画「タイタニック」のアイリッシュのタップダンスシーンはフィクションということになります。

 事実に忠実になぞらえるならば、映画のジャックとローズはバイオリンの演奏に身を委ねタップダンスをし、ビールを飲むのではなく、
 ウードの楽器にリズムを乗せてダブケダンスを踊り、トルココーヒーをぐっと飲むべきでした。

ダブケはパレスチナ、ヨルダン、シリア、レバノンのレバント地方のダンス
ウードの楽器
中東で有名。サウジアラビアのウードの樹木から採取されたオイル。高いです。

 ところで、シャアニーは家族とペンシルベニア州に向かうことになっていました。なぜならそこにはマロン派教会がすでに建っており、マロン派キリスト教徒のシリア人レバノン人たちがすでに移民コミュニティを確立させていたからです。

 同じ大部屋のシリア人レバノン人に行き先を尋ねると、オタワやオハイオ州の地名もでてきました。
 シャアニーは見知らぬ大勢と移住してからの夢をあれこれ語り合いました。
「大部屋に人数が多すぎてちょっと窮屈であったことも、ベッドが硬すぎることなどどうでもよいことでした。とにかく私は期待に胸を踊らせていました。タイタニック号に乗ったその瞬間から、何もかもが楽しかった」

氷山に衝突する

三等クラスの広告ポスター

1912年4月14日夜遅く
 レストランで食事中だったハッサブとハーパー夫妻はアナウンスを聞き、船室に戻ります。救命ボートの上は冷えるということで、夫婦はそれぞれ暖かい服装を身にまといました。

 ヘンリーはタキシードの上にオーバーコートを羽織り、マイラは華やかなスパンコールのディナードレスの上に黒い毛皮のコートを覆いました。そして皮手袋、毛皮のマフ、母親からの贈り物である真珠のネックレスも持って行きました。むろんペキニーズ犬「孫文」も抱きかかえました。

  途中、ヘンリーは帽子を被り忘れたことに気が付き、部屋に戻ろうとしました。しかしマイラがわめき、それを止めました。

 三等クラスにいたシャアニーも氷山にぶつかった衝撃を感じました。ものものしい雰囲気になっていることにも気づき、ナイトガウンの上にカーディガンだけを羽織ってベッドから飛び出します。

 同じ大部屋の大勢はがやがや廊下へ出ました。すると乗務員が現れ
「何も心配ないので、各自ベッドへ戻れ」
 
 それでも不安な彼らは、乗務員にもっとあれこれ質問しようとしました。ところが誰一人英語を話せません。結局、強引に促されたこともあって彼らは一旦また大部屋に引き返しました。

 しばらくし、浸水して水没し始めました。舵室の大部屋もパニックに見舞われ、彼らは廊下へ再度飛び出しました。

 この時、シャアニーは船員がリボルバーを抜いて四人のシリア人を射殺するのを目撃しました。
 後に裁判での船側の弁明としては、
「あまりにも興奮して手がつけられない状態で危険だったため」
ということでしたが、彼女はそれを否定しました。
「船員は初めから一切何も教えようとはしませんでした。大丈夫しか繰り返していません。船員たちが浸水している部屋に私たちを戻そうとしていましたので、それに逆らったら殺されました」

 三等クラスの数少ない生存者の証言を読むと
「最下位の三等クラスの天井を閉めたことにより、そこに救命ボートを用意し二等クラスの客はそれに乗ることが出来た」ですとか
「事件後、私は自分の子どもにはよく言い聞かせた。浸水が始まると、二等と三等では生存できる可能性が全然違うので、船に乗るときは無理をしてでも二等クラスのチケットを購入するように」と。

 となると、タイタニック号の二等クラスに乗っていた唯一の日本人乗客だった細野晴臣の祖父が生き延びたことについて
「三等クラスより生存率が低い二等クラスにいたのに、生き延びれたのはおかしい」
日本のメディアに非難されたのは、氏に対する単なる酷い中傷だったことになります。

 シャアニーは救命ボートに飛び乗ろうとした三等クラスの男性たちも発砲されていくのも目撃します。
 長く続く悲痛な叫び声は響き続け、女性だった彼女はなんとか救命ボートに乗れましたが家族とは離れ離れ。しかも寝間着の上にカーディガンを羽織っただけのままです。凍え死にそうです。

 一方、とっくに救命ボートに乗ってタイタニック号から離れているハッサブですが、彼もその前に船員たちが三等クラスのシリア人とアジア人の乗客たちに銃を発砲したのを目撃しています。
 三等クラスの彼らが英語を全く分かっていないことにより、なおさら不安感を募らせ怯えているのも、ハッサブはその目でしっかり見ています。

 しかし自分自身の状況のことだけで精一杯だった彼は犬を抱っこするマイラ夫人を抱きかかえ、救命ボート3号に乗り込みました。夫ではなく、ドラゴマンの彼が夫人を抱っこしてボートに乗るのを目撃されています。彼の方がずっと若いからでしょうか?

 早めに救命ボートに乗り移れたのは、本人の話では
「すぐにアナウンスに気づき咄嗟に甲板に出ていたこと、自分はファーストクラスの乗客であり、富豪のアメリカ人白人夫婦と共にいたことが大きかった」

 しかし実のところ、この3号ボートは女性子ども優先のボートでした。
 救助の時に撮影されたこの救命ボートの写真を見ると、このボートに乗っている男性はヘンリー・ハイパーとハッサブのたった二人だけです。
「いんちきして乗船したんだ」
 のちに二人共バッシングを浴びます。むろん、真相は分かりません。

 蛇足ですが、写真を見ると救命ボート上でも、マイラの横にはぴたっとハッサブがおり、夫のヘンリーはここでもひとり離れて座っていました。

 氷山にぶつかった約2時間40分後の4月15日の深夜、タイタニック号は沈みました。

生存した犬たちはスターに

救助後の、帽子を被っていないヘンリー・ハーパーと「孫文」

 1912年4月15日以降
 
タイタニック号沈没の直後、アラブ中の新聞でさえも、助かった大物の西洋人の名前を大々的に称えて喜んで見せ、アラブ人(シリア人レバノン人)犠牲者については触れませんでした。

 これには理由もあります。
 沈没発覚後、エジプトの大手アル・アハラム新聞社はトーマス・クックオフィスではなくタイタニック号の船会社、イギリスのホワイト・スター・ライン会社に直接問い合わせを入れました。
「エジプト人およびアラブ人の乗客の名簿を見せて欲しい」
 ところが船会社の返事は
「エジプト人もアラブ人も皆無だった、誰も乗っていなかった」
 エジプトの新聞社はそれを鵜呑みにしました。だから大物西洋人の無事を祝う記事ばかりを大々的に掲載しました。他のアラブのメディアもアル・アハラム新聞の右にならいました。

 それにです。もしかしたらですが、エジプトはアングロ・エジプト(イギリス支配下)時代でした。よってイギリス政府からの何かしらの圧力もあったのかもしれません。

 助かった三匹の犬も注目を浴びました。 
 まず一匹はイギリス人のエリザベス・ロスチャイルド夫人が連れていたポメラニアンです。ロスチャイルド夫人は愛犬のポメラニアンを連れて救命ボートに乗っています。
「犬を置いていくなら救命ボートに乗らない」と駄々をこねたそうで、非常に気持ちは分かります。

 二匹目はハーパー夫婦のペキニーズの孫文です。犬の孫文が大々的に取り上げられたことにより、ペキニーズの犬種が有名になり、ちょっとしたブームを巻き起こしました。

 三匹目については不明です。しかし共通しているのは助かった三匹の犬は全部小型犬で、飼い主の部屋に滞在していたことです。

 映画「タイタニック」では、序盤で年老いたローズが小型犬を連れてヘリコプターで登場しますが、ジェイムズ・キャメロンはマイラのペキニーズやエリザベス・ロスチャイルドのポメラニアンの話へのオマージュのつもりだったのでしょう、きっと。

見えにくいのですが、車椅子の老女ロズがチワワやポメにも見える小型犬を抱っこしています

 超大型犬グレートデンの飼い主の50歳の女性は、犬を置き去りにし救命ボートに乗ることを拒否しました。
 タイタニック号沈没の2日後、ドイツの客船ブレーメン号の乗客が、救命胴衣を着て、グレートデンを(紐とかで?)自分の腕を巻き付けて浮かんでいる女性の遺体を発見しました。しかし、これを裏付ける証拠はないとされています。

 19歳の妊婦だったヘレン・ビショップは(小型犬サイズではなかった)愛犬フル・フールを置いていきました。

 女だらけの救命ボートには、保護者とはぐれたらしい、たった一人の薄着姿の少女がいました。ヘレンは自分のストッキングを脱ぎ、それをその少女に渡し、少女を励ましました。
 その見知らぬ少女を抱きしめながら、ふと思い出しました。
「そういえばタイタニック号乗船の時、フル・フールが私のドレスの裾を引っ張り、乗らないように合図を送っていたわ…」
 
 結局、ヘレンは流産しました。別のボートに乗れた夫も助かったものの、この事件が双方のトラウマとなり、夫婦関係が上手くいかなくなり離婚。
 その後、彼女はカルフォルニアの大きな地震を経験し、最後は事故にあい脳に損傷を持ち、それが元で死亡しました。
 かつてエジプトの霊能者に
「難破、地震、事故を経験し、それらのうちのどれかが理由で死ぬ」
と予知されていましたが、当たってしまったというわけです。

 億万長者のジョン・アスターは事故の時、真っ先に犬舎のフロアへ向かい、愛犬のエアデールのキティをそこから連れ出しました。
 そして妊娠中の若い妻マデリンだけを救命ボートに乗せ、彼はキティを離さず、長年自分に忠実に仕えた従者の男を従え、最後に煙草を吸い、船と共に沈んでいきました。
 一切パニックになる様子はなく、始終冷静だったというのが複数に目撃されています。

 彼の莫大な財産のほとんどは前妻エヴァが産んだ長男の元に入りました。
 亡きジョンの息子を産んだマデリンはその後、二度結婚。心臓発作で突然死したのは46歳の時でした。この年齢は最初の夫のジョン・アスターがタイタニック号沈没で死んだ時の年齢とほぼ一緒です。

 沈没でチャンピオン犬のフレンチブルドッグを亡くしたアメリカ人飼い主は船会社を相手取り、犬の賠償責任の訴訟を起こしました。

 マーガレット・ブラウンも海底に沈んだ宝石やエジプトで購入した「美術品」の弁償を船会社に請求しました。しかしエジプトで購入した「木箱」の中身の全ての請求をせず。
 保険会社側は海底に沈んだ被害物品の全ての弁償請求を勧めたものの、彼女はエジプトで購入した「土産品」の内容の全貌を決して明かしませんでした。

トーマス・クック・カイロにも問い合わせが殺到

1912年4月15日以降
 タイタニック号のチケットを販売していた、各国のトーマス・クックオフィスにも生存確認の問い合わせが殺到しました。

 ハーパー夫妻に同行していたハマド・ハッサブの妻、ファティマはまだ妊娠中です。顔を青ざめ卒倒しそうになりました。彼女を心配した兄は急遽、自分の家にファティマを住まわせ、トーマス・クック・カイロに義弟の安否を訊ねます。しかし何も分かりません。
 確かにトーマス・クック旅行社はただチケットを販売していただけなので、どうしようもありません。
               §
 沈没事件直後、 
「タイタニック号には大勢のシリア人レバノン人が乗船していた」
 このことを一番把握していたのは、ニューヨークのシリア人レバノン人コミュニティとユダヤ人の移民支援団体のHIASでした。

 シリア人レバノン人コミュニティはアメリカのアラビア語ネットワークで、懸命に行方不明のシリア人レバノン人の消息を探そうとしました。しかし、このことを全米メディアは取り上げませんでした。全米メディアはアイリッシュ系やイタリア系の行方不明者のことは大々的に報じたといいます。

オスマン帝国領土や戦争中だった問題

 2012年
 約百年前のタイタニック号の犠牲者を探すことにしたアラブ人ジャーナリストらは、まずタイタニック号の乗客名簿のコピーを入手しました。頭を抱え愕然としました。

 ちらっと先に触れましたが、当時はシリアもレバノンもオスマン帝国だったので、シリア人レバノン人の旅券は「オスマン帝国トルコ」でした。つまり、彼らはトルコ人にされていました。トルコはアジア、シリアとレバノンはアラブです。全然違います。

 その上、前年の1911年から領土を巡り、そのオスマン帝国はイタリアと戦争をし続けており、領土や国名がごちゃごちゃの時代です。

 国籍が「レヴァント」と明記されているだけの乗客もいました。確かにシリア、レバノン、パレスチナ、エジプトはまとめて「レヴァント地方」と呼ばれるものでしたが、「国籍:レヴァント」とはいくらなんでも大雑把です。

 次にシリアとレバノン自体の「境」が曖昧であり複雑な点です。
 私自身も今回、タイタニック号のアラブ人犠牲者についてのサイトをいろいろ読み漁りましたが、大変混乱をしました。
 なぜなら、あるサイトでは「タイタニック号に乗っていた◯◯さんはシリア人だった」。しかし別サイトではその同じ◯◯さんが「レバノン人だった」と紹介されているのです。

「どっち?」
 そこで1912年当時のシリアレバノンについて、シリア人の知人に尋ねると、その人は得意げにこう返事しました。
「ああ大シリアの中にレバノンが入っていたから、総称で全員をシリア人と呼ぶのが正解ね」
 レバノン人にも同じ質問をしました。
「レバノンの方がシリアより歴史が古いので、当時のシリア、レバノン、パレスチナはまとめてレバノンと呼ぶべきね、それが正解よ」

 ところがトルコ人によれば
「んな、ばかな。オスマン帝国だった、シリアという国もレバノンという国も存在していなかった、以上」
 一応エジプト人に聞くと
「え?ひとまとめにパレスチナって呼ぶんじゃないの?」
...。

 トドメです。
 1912年当時、アメリカのメディアがシリア人のことを「アッシリア人乗客」と紹介しており、なおさらタイタニック号の行方不明捜査をややこしいことにさせました。
 アッシリアとは言うまでもなく紀元前に存在した帝国です。ああアメリカよ、アメリカよ…。

 国籍明記のぐちゃぐちゃの他に問題なのは、タイタニック号名簿に書かれた彼らの名前そのものです。
 アラブ人の名前はアラビア語が本来ですが、名簿にはアルファベット表記であり、しかも本来の名前と大きくかけ離れた間違った表記が多かったのです。

 タイタニック号に乗船していたシリア人レバノン人はクリスチャンが多かったことも、これまた事を複雑にしました。「ムハンマド」「ハッサン」「フセイン」といったベタなムスリムのアラブ人名でもなかったのです。
 例えば名簿の一部です;
ジョージ・トーマ、ジョセフ・エリアス、マイケル・ピーター、メアリー・ピーター、キャサリン・ピーター、エリアス・ エリアス、アンナ・ソフィア

 こういった名前では国籍、民族がはっきりしません。その上、先に述べましたがイギリス国籍、アメリカ国籍を取得しているシリア人レバノン人の登録名は完全に西洋のものに改名されています。本名は二ザールなのに、ミカエルになっているなどです。

 以上の理由で、出典元によってシリア・レバノン人のタイタニック号乗客人数の数字にばらつきがあります。

 あと当時に話を戻すと、この1912年というのはイギリスとオスマン帝国と戦争が起きる第一次世界大戦直前です。船会社はイギリスです。
 つまりこの戦争で、シリア人レバノン人は敵国であるオスマン帝国の国民となり、都合よくホワイト・スター社が死者への補償金の支払いを放棄することを許されたのです。

 イギリスが植民地化しているこれらレヴァント地方では民族主義運動、反イギリス運動などが起きていた時代でもありました。
 なおさら「タイタニック号に大勢のアラブ人が乗船していました、ほぼ全滅しました」とは言うのはまずいと思ったと想像できます。

 パレスチナ・レバノン人ジャーナリスト、レイ・ハナニアいわく
「レバノンには、タイタニック号で自分たちの親戚に何が起こったのかさえ知らなかった親戚がいます。レバノンの田舎にタイタニック号沈没の報道など来なかった。
 読み書きもできない、新聞もない村でそれをどのように知り得たでしょうか。彼らは身内が死んだことも知らず、補償を受け取れることも全く知りませんでした」

  結局、海に沈んだ犠牲者のシリアレバノン人たちは故意的に、意図的に「身元不明遺体」で放置され、それは遺族の受け取るべき保険金にも大きく影響を受けました。

ニューヨークにたどり着いたシャアニー

 1912年4月
 
救助されたシャアニーは、村から一緒に出てきたけれども、あまり親しくない従妹と再会しました。二人は抱き合って号泣しました。妹たちは見当たらず、二度と会えませんでした。

 迎えてくれたHIAS(ユダヤ人の支援グループ)は彼女たちを病院へ連れて行き、その後の衣食住も世話をしてくれました。

 シャアニーが健康を取り戻すと、HIASからもらった50米ドルを握り、目的地ペンシルベニア州へ向かいました。すでに彼女の親戚はそこに定住していましたから。

 ペンシルベニア州へ向かう汽車に揺れながら、彼女の表情は虚ろでした。なぜなら救命ボートに乗せてもらえなかった父親、兄、従兄弟たち、および救助されていない妹たちが死んだのは間違いないからです。

 車窓に映る自分を見ました。
 まだ若いのですが、一気に黒い髪の毛が真っ白になっていました。彼女はそれを無言で眺めました。その後、髪の毛の色が元の黒色に戻ることは、二度とありませんでした。

HIASコレクション写真。左の二人がタイタニック号生存者、左から二番目がシャアニーです。彼女は短期間で全部白髪になってしまったそうです。

3年後に突然エジプトに戻って来たハサップ  

1912年4月下旬 
 タイタニック号沈没のすぐ後、ニューヨークのハッサブから生存をしているハガキが、カイロの妻のファティマに届きました。

 しかし彼は帰国しませんし、どこにいるのか、居場所も分かりません。生まれた赤ん坊の息子ハッサンの面倒をみながら、ファティマは兄夫婦の家に居候し、ひたすら夫の帰りを待ちます。 

 それから3年後の1915年。
 ファティマはびっくり仰天しました。ハッサブが突然戻って来たのです。何の前触れも通達も一切ありませんでした。

 事件直後にたった一枚のはがきが届いたのみで、その後なぜ三年もの間、何も連絡がなかったのか。そして三年間アメリカのどこにいて何をして誰といたのか。
 本人は一切何も語ろうとせず、そのため世間では様々な憶測が流れました。それは
「ハッサブが船内で目撃したことを喋られると困るから、エジプトに帰らせてもらえずアメリカで勾留されていたのだろう」
「マイラ・ハーパー夫人から離れたくなかったからに違いない」
「卑怯者でずるいことをして生き延びたから、隠れていたかったんだろう」
「船がトラウマで、船旅で帰国することができなかったからだろう」

 ハッサブは全てのメディアの取材を断り、トーマス・クック社にも戻らず、ドラゴマンの仕事自体も辞めました。そして旅行そのものに恐ろしくなり、国内旅行すらも避け、人々に「カリフ(首長)」と呼ばれることを心底嫌がるようになりました。

ハマド・ハッサブ・ドラゴマン・沈没したタイタニックサバイバー証明書、トーマス・クック。これは赤十字や生命保険からのお金に関わってくる証明書です

 孫たちの話によれば、彼はずっと何か怯え、自分が目撃した溺死する人々や銃に撃たれて死んだ人々のフラッシュバックに苦しみ続けました。ハーパー夫妻との文通のやり取りも一切なく、夫妻が再びエジプト再訪するなどもありませんでした。

 生存者の多くは激しいトラウマのあまり、タイタニック号沈没について多くを語っていませんし、シャアニーと同じ大部屋にいた、当時まだ子どもだったシリア人の男性も一生精神的に苦しみ続けました。

 ハッサブも結局何も語らずじまいで、あの時の辛い気持ちを持ち続けましたが、それでもなんと百歳まで生きました。このように大いに長生きしたハッサブは16人の孫を持ちましたが、そのうちの一人はアスワンハイダムの技術者になっています。

若い時はとてもハンサムだったらしいハッサブ氏。ごめんなさい、その面影がまるで分かりません…

その後のアメリカ人大富豪のハーパー夫妻

 マイラ・ハーパーは1923年34歳で亡くなり、彼女より25歳年上の夫のヘンリーよりも早くにこの世を去りました。夫との間には子どもを作っていません。

 マイラが死んだ後、ヘンリーは早くに病死した最初の妻の姪(もちろん、とても若い)と三度目の結婚をし、息子のヘンリー・ジュニアも誕生。夫もなかなかなものです。1944年に亡くなりますが、79歳でした。
 彼はタイタニック号事件以降、二度と帽子をかぶることはなかったといいます。

 2003年、ジェイムズ・キャメロン映画監督がドキュメンタリー番組の撮影で、ロボットカメラに海底に沈んだタイタニック号を撮影させ、客室のクローゼットに山高帽が置いてあるのを発見しますが、その後あれはヘンリー・ハーパーの帽子であったことが判明しています。

タイタニック号三等クラスの生存レバノン人女性

真ん中の女性がシャアニー
晩年のシャアニー

 シャアニーはHIASの助けでペンシルベニア州に移ったとすでに言いましたが、その後、船会社から150ドルを支払われ、さらにアメリカ赤十字社から 200 ドルを受け取りました。たったそれだけでした。
 かたや、タイタニック号は1912年1月にイギリスのロイズ社の保険にかけており、沈没事故により船会社は相当儲けたと言われています。

 彼女はペンシルベニア州の片隅の町で、小さな食品店を開きました。

 タイタニック号沈没の2年後。
 第一次世界大戦が勃発しました。故郷の別の姉妹兄弟はこの戦争で亡くなりました。

 かつてタイタニック号の三等クラスのチケットを購入したトーマス・クックも1928年に売却され、別会社になりました。

 最期、シャアニーはペンシルベニア州の自宅で安らかに息を引き取りました。73歳でした。

 彼女の子供は後にトーマス アイス クリーム コーン カンパニーを立ち上げ、これはペンシルバニア州ハーミテージのジョイコーンカンパニーとして有名になりました。
 ジョイコーンカンパニーは世界最大のアイスクリーム コーン会社であり、年間 15 億個以上のコーンを焼いています。

タイタニック号と故郷の黄金の光


 ジェイムズ・キャメロンの映画「タイタニック」のあの2秒シーンにより、アラブ人もタイタニック号に乗船していたことをアラブ人は知り、彼らはリサーチをしました。

 その結果、イギリス国籍だったシリア人(今のレバノン人)の船員も救命ボートに乗れず亡くなっていることも分かりました。

 彼は船では日報を発行し、レストランの各テーブルに置くメニューのボードを用意する係でした。
 亡くなった時、イギリス国籍の船員であり、彼もまたイギリス風の名前になっていたため、元々シリア人であったことは知られませんでした。

 タイタニック号のファーストクラスに乗っていたシリア系アメリカ人実業家ニクラ・ナスララが自分の命と引き換えに大勢の子どもを救っていたことも分かりました。
 ナスララは自発的に、船員がないがしろにする三等クラスの貧しい子どもたちをどんどん救命ボートに乗せてやっていました。自分の救命ボートも見知らぬ子どもに譲ったため、命を落としました。複数の生存者が証言しています。

 他にも立派な行動を取った中国人乗船客もいたのに(中国人は6人乗っていました)、その事実も長いこと無視されていることが分かりました。つまり白人以外の乗客の素晴らしい行動は全て伏せられていたのです。

 映画「タイタニック」の功績はたった2秒とはいえ、被害者側にアラブ人一家を登場させたことです。これは「他にも犠牲者だった人種がいたんだ」と世界に知らせるメッセージになったのです。

                §

 1923年
 亡くなる前、シャアニーは勇気を出してたった一度だけ、一度きりだけレバノンの故郷の村に戻りました。
 生まれ育った古い家を目にした時、タイタニック号や第一次世界大戦で亡くなった家族との思い出が溢れてきて、嗚咽が止まらなくなりました。

 少し気持ちが落ち着くと、古代のオリーブの木々の前を歩き、生い茂った蔓の下で苦いトルココーヒーを飲みました。
 そして、庭で騒がしく遊んでいる子供たちや果樹園でイチジクを摘んでいる子供たちを眺め、目を閉じました。まぶたに浮かび蘇ったのは、かつての黄金色の夏の日々でした。
 その黄金色は、タイタニック号がシェルブールを出た時に夕日に映った色と同じものでした。


  長かったです、全部読んでくれた方、ありがとうございます。

*この記事に書くのにあたり、以下のサイトを参照しましたが、多くの説や解釈があることをお断りしておきます🙏

ドラゴマン記事、もう一本!↓


https://www.middleeastmonitor.com/20190423-the-arabs-on-board-the-titanic-have-a-story-waiting-to-be-told/

https://en.wikipedia.org/wiki/Titanic_(1997_film)#Release

https://www.thesun.co.uk/tv/21334846/titanic-film-flaws/
https://fidouniverse.com/remembering-dogs-of-titanic/

https://www.titanic-titanic.com/white-star-line/

https://www.encyclopedia-titanica.org/hammad-hassab-egyptian-titanic-survivor.html

https://www.encyclopedia-titanica.org/titanic-survivor/elizabeth-jane-anne-rothschild.html

https://www.encyclopedia-titanica.org/titanic-survivor/elizabeth-jane-anne-rothschild.html

 https://titanic.fandom.com/wiki/Hammad_Hassab
 
 https://www.vice.com/en/article/ev7axa/the-untold-story-of-the-mysterious-the-egyptian-man-who-survived-the-titanic
https://rayhanania.wordpress.com/2012/03/23/hanania-column-1988-arabs-on-titanic-we-share-the-pain-but-not-the-glory/

https://www.encyclopedia-titanica.org/titanic-survivor/elizabeth-jane-anne-rothschild.html

https://english.alarabiya.net/variety/2018/08/06/The-Egyptian-Survivor-from-the-Titanic-

https://titanicdatabase.fandom.com/wiki/Hammad_Hassab

https://www.pressreader.com/uk/daily-mail/20160422/282853665129682

https://www.thenationalnews.com/lifestyle/a-familiar-shout-in-titanic-film-spurs-search-for-arab-passengers-1.572241

https://abisaab.wordpress.com/2012/05/09/a-lebanese-titanic-survivor/

https://www.encyclopedia-titanica.org/alien-passengers-syrians-aboard-the-titanic.html

https://en.ammonnews.net/article/16303

https://rayhanania.wordpress.com/2012/03/23/hanania-column-1988-arabs-on-titanic-we-share-the-pain-but-not-the-glory/

https://fidouniverse.com/titanic-dog-show-that-never-happened/

https://fr.wikipedia.org/wiki/Madeleine_Astor

https://www.moroccoworldnews.com/2012/04/34929/part-iii-the-story-of-the-forgotten-arab-victims-of-the-titanic-told-100-years-later


 


この記事が参加している募集

映画感想文

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?