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働かなくても生きていける時代に働くこと


技術的に自給自足で生きていくことができたり、収入は毎月5万~10万円あれば生きていける時代において、やりたくないことを我慢することによる慢性的なネグレクト的ストレスの蓄積リスクをおって、それ以上の対価を求めて労働する理由はあるのだろうか。

働く理由は、収入を得る以外は、例えば、自己実現の機会、人間関係の獲得、アイデンティティの保護あたりが主な理由としてあげられる。これらは、仕事以外でも実現可能だ。例えば、大学にいけば、自分の興味のある学問を探求したり、部活やサークルに入れば友達ができ、自分の居場所が確立されていき、心身ともに健康で文化的な生活は送ることができる。

大学卒業後の社会人においても、例えば、サーフィンが趣味になれば、結果的に、ローカルのサーフショップやスクールで友達は見つかり、その中で、技術が向上したりすれば、居場所はできる。あるいは、インターネットゲームが好きなら、Discordで世界中に友達ができる。

そうなると、上記にあげた収入以外の目的を達成するための手段として、仕事は一つのオプションとして機能していくことになり、いわばゲームソフトの1つに過ぎないという見方ができる。同じゲームソフトなら、楽しく没頭できるものがいいという考え方だ。そうなると、やりたくない仕事に時間を多く費やすより、やりたいことに時間を投下したほうが幸せだという考え方は、生成AIなどの技術革新によって、ますます普遍的な価値観となっていくだろうし、そのコストとハードルが下がっていくと思う。

そうなると、xのためにyを実行するという考え方がなくなっていく。例えば、お金を稼ぐために、仕事をするということだ。今後、主流になるのは、x=yという考え方。やりたいからやるという考え方だ。やっていることそれ自体が報酬になっていて、特に理由がない。

そうなってくると、考える必要がなくなってくる。思考より、心で感じていくことが重要になってくる。いわゆる、正しいより楽しいを優先していこうという考え方だ。脳では正しいか間違っているかという正解やリスクリターンを計算する損得勘定や費用対効果といったことが行われる。何か選択をする場面で、それらの認知的な変数を度外して、やりたいかやりたくないか、気持ちがときめくか、なんか魅力に感じるといった非認知的尺度が大切になってくるし、そうできるかどうかが問われるのだろう。

認知的尺度で選択した結果は、誰でも納得できるため、社会的な圧力はない。言い訳として、「仕事」は非常によく機能する。特に日本において。一方、非認知的尺度は、自分の気持ちや内面的価値から出てきたものであるから、社会の合意はとることは難しいし、賛否両論あるため、必ず批判がある。(例外として、やりたいことが仕事の場合、自分の気持ちと社会の両輪がそろっているので、一番やりやすいが、そういうケースは稀であると思う)

そういう社会において、外部の価値観やプレッシャーに影響されることなく、内面から湧き上がる感情や興味を基に行動することが普通となる。そうなると、重要になってくるスキルは、自分の内面に意識を集中することになってくる。多分マインドフルネス的なやつだ。なぜかというと、外的要素に触れたときに、自分の感情や興味の変化を注意深く観察することができる人は、自分が嫌なことや好きなことが鮮明になってくるし、その変化に対しても敏感になってくるだろうから、おのずと自分のやりたいことがわかってくる。

あとは、内面の声を行動に変換するスキルが大切になってくる。何か新しいことに挑戦するときは、不安と恐怖がわいてくる。そのためには、失敗してもよいという安全基地的な人間関係が大切になってくる。

内面への自己観察力を磨けば、やりたいことが必ず見つかる。それを行動に変換する力があれば、やりたいことが実行できる。やりたいことをやることそれ自体が報酬となる人生は、自分も社会も豊かだろう。




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