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9歳で母を失った交通死亡事故遺族の手記 ― 母の死と喪失の悲しみ

9歳で母を交通事故で亡くした少年が、母の死と喪失の悲しみを語る手記。母の死を受け入れ、新たな生活を歩み始めた少年の姿をできるだけありのままで記載します。


1. 事故の状況

小学校4年生で9歳だった私と、小学校1年生6歳だった妹、5歳の幼稚園年長さんだった弟3兄妹と父。私たち家族はある日突然、交通事故で母を失いました。それは普通の日常の中で起きた悲劇でした。当時35歳だった母は、私たちの生活の中で不可欠な存在であり、その喪失は家族に深い傷を残しました。

事故当夜、母は仕事が遅くなった父の迎えに深夜出かけていった。母が出て行く雰囲気を察した私に「大丈夫ちゃんと帰ってくるから」と母は出かけていった。しかし、父を迎えた帰り道で車は交差点で信号を無視して突如として突進してきた10トントラックに左側から追突されてしまった。

2. 母との最後の別れ

事故の後、母は救急車にのり病院に搬送されたそうだ。翌々日お見舞いにいった病院で母は寝ており「お母さんちゃんと休ませなきゃいけないから」と促され、横になる母をドア越しに見つめて病院を去った。これが生きていた母を見た最後となってしまった。翌晩、容態が急変した母は手術を受けるものの、内臓からの出血でこの世を去ってしまった。

その日の深夜、親戚や友人知人が集まり母親の棺桶を迎え入れる連絡と準備をしている声で目を覚まし、会話の内容で母親の死を察した私は泣いた。声をあげて嗚咽していることを隠したくて布団で声を殺したがすぐに気づかれた。「もっと泣きなさい、もっと泣いていいんだよ」と私を抱きしめる見知らぬ親の知人の呼びかけに醒めた私は「この先は母親の喪失の悲しみなどこの心のうちは他人に話してはいけない」と心の中で決意しました。

「泣かないといけないんだよ。お母さんが死んだんだよ」と、笑っている彼に対し私と妹が説得していた光景は自分も含まれることながら今でも痛ましい。お通夜やお葬式の間、今思い返しても痛ましいのは5歳の年長さんだった弟、彼なりに思うところがあったのか彼は泣かずに笑っていた。

「泣かなければいけない」といえば父も泣いていなかった。親戚・知人の誰かの「棺桶の中に涙を落としてはいけない、死者が成仏できないから」という迷信を守っているのかな。と心配していた。全く泣かなかった父が
「泣いてしまった」。豹変したのは出棺の時、父は泣いた。大声で母の名前を呼びながら泣いた。迷信など一切構わず棺の中の母にキスをし涙を落とす父をみて「ああ、よかった」と安堵した。この感覚は生涯忘れ得ない。

特に弟が泣かずに笑っていたことは、突然の喪失に対処できず戸惑う家族の心情を象徴していた。子供たちは大人たちの期待や社会の常識といった想像に縛られ、自分の感情を表現することが難しい状況に置かれている。

父の涙と亡き母へのキスと最後の抱擁は、我々子供たちにとっても新たな出発でした。彼が涙を流し母への愛情と喪失の悲しみを同時に表現してくれたことで、母の死がより実感され、受け入れざるを得ない現実に向き合わされたのと同時に、何とか四人で生きていく覚悟が芽生えた瞬間だったのだ。
出棺の瞬間の父の変化は私たちにとって救いとなり、大人の男性の素直な涙が、大人の女性への最後の別れとして、そして家族全体の新たなスタートを象徴していた。

3. 家庭の変化と賽の河原の石積みのような日々

新たなスタートの象徴とは書いたものの、母親を失った後の家庭は整わなかった。家庭は整わなくても日々は否応なくスタートして行く。昭和真っ最中の世代で家事などしたことない父が作る料理は「納豆入り卵焼き」などおそらく居酒屋で学んだメニューで子供に受け入れられる筈がない。結局は外食や中食中心の食生活にたどり着く。料理一つとってもこんな様子で何も整わない家庭だけど、夜は一緒に過ごしてそのまま家族四人で川の字になって寝た。川の字になって寝ても、母親不在の寂しさは埋めることができず、言葉にできない不満が募る。

父は突然シングルファーザーになって本当によく頑張っていたと今では思うが小学生の繊細なニーズには気がつけない。三人兄妹も必要なことを言葉にしてリクエストできるまでには、成長がまだ追いついていない。そんな「母親がいなくなった不満」をお互い埋め合うこともままならないまま、増幅させつつ言葉にもできず、夜になると川の字になって寝るような日々が続いた。

小学校で求められる雑巾の寄付や裁縫関係の依頼が本当に負担で、学校からリクエストがある度に親子喧嘩が勃発していた。学校から求められる雑巾や裁縫の依頼は、父にとって大きな負担で、弁当が必要なイベントでは、父に負担をかけたくないという思いから、私はイベントを隠すようになる。
給食がないお弁当が必要なイベントは地獄のような時間で、料理ができない父に無理も言いたくないし、家族が応援に来てる運動会などで惨めな思いもしたくないので、お弁当の時間になると隠れる場所を探していた。うちには母親がおらず、父にはその能力はないが彼も懸命に頑張っているのだ。「私はこの喪失感や悲しみを口にしてはいけない」

4.悲しみと怒り、そして希望

9歳で母を突然の交通事故で失った私と家族は、深い悲しみと怒りに打ちひしがれました。しかし、母の死を受け入れ、新たな人生を歩み始めるという希望を胸に、懸命に生きてきました。

この手記は、母の死と喪失の悲しみを語り、同じような境遇の人々に寄り添い、同時に交通安全の重要性を訴えるために書きました。私の経験が、今苦しい思いをしてるあなたや誰かの勇気や、交通事故の悲劇を二度と繰り返さない社会を作るための力になれば幸いです。

5.復活への挑戦

復活に繋がった海外挑戦の内容が記事にできました。よろしければリンク先をご確認ください。



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