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「死ね」も努力不足

以前【「死にたい」は努力不足】といった類の話をした。


一方で、納得のいかないことがあると、すぐに「死ね」と言う人がいる。自分を納得させる手段が、相手を存在を抹消すること以外に思いつかない。この意味で、彼らは”努力不足”にほかならない。

私の母も、そんな”努力不足”の1人だった。母は、長い間うつ病を発症しているが、それに伴って「ミソフォニア(音嫌悪症)」と呼ばれる症状があった。ある特定の音に過剰に反応し、嫌悪感や不快感を抱く病で、場合によっては殺意に近いような負の感情に襲われることもあるそう。


きっかけは、2階から聞こえてくる物音に始まった。私と母は、2階建のアパートの1階に住んでいて、上の階には別の住民が暮らしている。ある日母は突然、2階から聞こえてくるかすかな物音が気になるようになった。はじめは、「なんの音だろう」と、疑問を持つだけだった。次第に「うるさい」と感じるようになり、いつしか音が聞こえてくるたびに、「死ね」と反射的に口にするようになった。恐ろしいことに、メモを取り始めるようにもなった。聞こえた時間とその音の種類を特定し、まるで研究者のように熱心に記録を取るようになった。酷いことに、自分のやりたいこと、やるべきことを放棄してまで、赤の他人の音の記録に励むようになった。「そんなことをしても意味がない」という私の言葉は、当然彼女の耳には届かなかった。「耳栓をすればいい」とアイディアを提供したこともあった。しかし彼女は「たとえ自分の耳に聴こえていなくても、音がなっていることは許せない」と答えた。上の階の住民に「音を控えてほしい」と直接伝えに行くことはもってのほか、自分の症状を病院で診てもらう気もないとのことだった。ただ、「死ね」という言葉を繰り返し、自分の時間を削ってまで、意味のない記録作業に興じるようになった。

私は彼女のことを”努力不足”だと思った。「死ね」とか「死ねばいい」という言葉は、他力本願だ。ありがたいことに、母はまだ殺人を犯したことはない。おそらく心の中では何人も殺しているのだろうが、それを行動に移したことは一度もない。自らはなんの行動も起こさずに、ただ「死んでほしい」という願望を口にするだけ。妄想を繰り返す夢想家に過ぎない。自分がどうしたら幸せになれるかを彼女は考えようとしない。そもそも、幸せになりたいと思う努力すらしない。いつまでも自分が被害者でいたいと思いたいようだ。そして、何も変えられないでいる。母が「死ね」と願い続けるからと言って、いつかその相手が死んでくれるわけではない。願おうと願わなかろうと、具体的な行動を起こさない限り、死期がズレることはない。もちろん、具体的な行動を起こされたら私が困るのだけれど。戦国時代の武将は「死ね」とは言わない。自らの手で相手を「討ち取る」からだ。「死ね」と言われて自害するアホな武将はいない。他力本願ではなく、自ら行動を起こそうとする彼らの姿勢に、我々は学ばなければいけない。

何でもかんでも人のせいにする人間が、あまりにも多い気がする。ある意味彼らは、他人を期待し過ぎている。他人はこうあるべきだという固定観念が強く、「自分に何ができるか」という視点が欠けている。上司が奢ってくれないのは、その上司がケチなのではなく、あなたに奢られる価値がないのではないか。残業が多くて辛いと思うのは、あなたがさっさと転職活動を始めないからではないのか。いいパートナーが見つからないのは、あなたが探そうとしていないからではないのか。他人に不満を抱くのは、やるべきことをやってからにしよう。


私が「死ね」という言葉を嫌うのは、倫理的な理由からではない。”努力不足”を露呈させる言葉だからだ。自ら行動を起こす以外に、満足のいく人生を送る術はない。私も、こうして自身の考えを文章にするという「行動」を起こしている。そしてこの先は、”努力不足”の人間の役に立つために、どんな「努力」をできるかを考え、実践に移していかねばならない。まずは母の行動を変容させるために、自分ができる「努力」を探す。

一緒に努力しよう。
仕事にしろ、プライベートにしろ、私が他者に伝えたいのはこの言葉に尽きる。

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