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キャラクターの死から考える、物語を広げること、閉じること。そして、IPを広げること、閉じること。



ゲームが広がる可能性を「あえて閉じる」からこそ、
そのゲームはかけがえのないものになる


このnoteには、
「うたわれるものシリーズ」
「戦場のヴァルキュリアシリーズ」
「FINALFANTASY VII」

の重要なネタバレが含まれますので、ご注意ください。



良いゲームは、続編が出てほしいものですよね。
そう思えるのは、そのゲームの世界で生きているキャラクターに感情移入し、いつまでもそのキャラクターが生きていてほしい、新たな物語を紡いでほしい、そんな気持ちが強いからだと思います。
アニメや映画でも同じことが言え、新たな世界や新たな敵などに対し、好きなキャラクター達が活躍する物語がどんどん作られています。

これは商業的には非常に正しい形だと思いますし、そのような作品のクリエイターの方や関連会社への収入の確保のため、一度盛り上がったIP(知的財産)をより広げていくのは極めて正解だと言えます。

一方で、ゲームをしていると、「あえてそのIPを終わらせようとする物語」にばったりと出会うこともあります。
まだまだ拡大できるであろうIPを、きっちりと終わらせる。
それは、その作品のファンの「まだまだそのIP...キャラクターや世界を見たかった」という気持ちや可能性を喪失させることになりますが、だからこそ、その喪失を踏み台にした潔さと強い魅力を感じるのです。

そんな話を書いてみようと思います。



「戦場のヴァルキュリア4」をクリアして

先日、2/23の祝日に、名作SRPGである戦場のヴァルキュリア4をクリアしました。
戦場のヴァルキュリアは、初代のゲームが2008年に発売された、息の長いゲームシリーズです。と言っても、初代が2008年、続編の「戦場のヴァルキュリア2」が2010年、さらにその続編の「戦場のヴァルキュリア3」は2011年の発売。スマホ向けの展開や続編ではない関連作品「蒼き革命のヴァルキュリア」など横展開はありつつも、「戦場のヴァルキュリア4」というナンバリング作品の発売までは7年の時が過ぎています。ナンバリングがコンスタントに発売されているというよりは、最新作で数年ぶりにIPが復活した、と言えると思います。

戦場のヴァルキュリアはシリーズものでありつつ、それぞれの作品が独立している、いわば「ファイナルファンタジー」的なナンバリングなのですが、一方で世界観は共通しています。ひとつの戦争について、初代はこの視点、2はこの部隊の視点、3はその2年後、と、色々な視点でひとつの事象について描かれているのです。作品により過去作のキャラクターが登場する場合もありますが、各作品の主人公はそれぞれ別、といった具合で、物語の土台、物語の舞台を引き継いでいる作品です。

初代の面白さに感動した私は、PSPで2をクリアしました。3は確かクリアまではいかず、半分くらいはやったと思います。
というのも、携帯機版はSRPGにおける出陣可能人数が少なかったり、マップが小さくなったりで戦闘の迫力や戦略性が薄れてしまい、モチベーションが下がってしまい、クリアまでいけませんでした。

そしてこの戦場のヴァルキュリア4。PS4という、据置機での復活。
発売から時間は経ってしまいましたが、ようやくクリアすることができ、そしてそのストーリーに涙し、心に残る名作になりました。
それもこれも、いわゆる「戦場のヴァルキュリア4がどれだけ売れてどれだけ盛り上がったとしても、『戦場のヴァルキュリア4続編』というものを作らないつもりなのではないか」という気概を感じたからです。



主要キャラクターの「死」

この戦場のヴァルキュリア4で最も涙したのが、主人公の幼少期からの知り合いであり、直情的な仲間の主要キャラクター「ラズ」の存在です。
このラズというキャラクター、敵がいれば突っ走ってピンチを作り出したり、勢いばかりで周りに迷惑をかけてしまうようなキャラクターですが、その分性格に裏表が無く、徐々に成長していく姿も相まってとても好きなキャラクターでした。
ゲーム中、不器用ながらも、仲間である他の主要キャラクターと恋仲になることもあり、その魅力は物語の終盤までずっと上り調子の状態でした。

しかし、この主要キャラクターであるラズには、ゲーム後半で「仲間である主人公や部隊のみんなを救うために、決死の作戦を行う」というシーンが待っていました。物語途中で、死んでしまうのです。
指揮権を持っている主人公のクロードが涙ながらに、ラズに対し決死の作戦を命じるシーン、そして戦争の苦しい中恋仲となったキャラクターに対し、ラズが最後の言葉をかけるシーンは、琴線に触れるものがありました。

同時に、それこそその時点でゲームを20時間以上プレイし、キャラクターに愛着も沸いていた中、「本当に死亡し、以降のゲームプレイには登場しない」という演出がとてもなんというか...力強さを感じました。

キャラクターが死ぬというのは、取り返しのつかない演出なんですよね。
もちろん何らかの力で生き返るようなファンタジー作品はありますが、そうではなく戦場のヴァルキュリアのような戦争をテーマとしたリアル寄りの世界観において、戦闘でシステム的に死ぬのではなくストーリー上演出として死ぬのは、もうそれが不可逆的な演出であることを示しています。

ここで冒頭の話に戻ってくるのですが、いわゆるこの演出が「続編を作らない気概を感じた」瞬間です。
今回死亡したキャラクターであるラズが生きていれば、物語を続ける、またはより物語を広げることも考えられたと思います。セリフも潤沢に用意された、重要キャラクターです。しかし、物語上ではっきりと死亡してしまうと、もうここから物語を広げていくのは難しいのではないでしょうか。

例えば時間軸として前の物語、前日譚は作れるでしょう。また、アニメ化なんかも可能だと思います。しかし、このゲーム以降の物語を作るのは、主要キャラクターの死というハードルがそびえたつこととなってしまいました。ハードルというよりは、制限でしょうか。無視できない要素としてキャラクターの死が永遠に残るものになったという印象です。


どんな演出も、キャラクターの死の前にはそのインパクトは霞みます。
世界が崩壊しようが、宇宙が爆発しようが、キャラクターが生きている限りは物語は紡ぐことが可能です。しかし、死んでしまっては続編は作りにくいと感じます。

もし作ったとしても、死んだキャラクターのことを物語のテーマから外すのはいささか違和感を覚えます。一方で、死んだキャラクターのことばかり思い続けている暗い作品は難しいでしょうし、それこそ「この物語はここで完結、続編はまた別の新規キャラクター達の新しい物語!」という切り替えを行ったほうが無難だと思います。そしてそれは、続編というよりはナンバリング作品というか、数字上・シリーズ上の続編というものになり、物語的・キャラクター的な続編ではないと思います。
そんな影響が予想されるくらい、主要キャラクターを物語上で殺してしまうというのは、強烈な演出であると感じます。

戦場のヴァルキュリアシリーズは、シリーズとしては今後も続いていくと思います。しかし、この戦場のヴァルキュリア4のキャラクターたちの物語は、おそらくは主要キャラクターの死という事実があるため、ここで綺麗に終わるしかないのかな、と感じました。



「うたわれるもの 二人の白皇」

別作品の紹介ですが、こちらもSRPGであり、IPが休止状態から復活した作品です。
正確には、初代のうたわれるものがあり、そこから十年以上の時を経て続編の「うたわれるもの 偽りの仮面」が発売され、最終的に「うたわれるもの 二人の白皇」にて完結、という作品です。

そう、この「うたわれるもの 二人の白皇」で、完結なのです。
ゲームのキャッチコピーも「最高の、最後へ」であり、この時点から「続編は作らず、物語を完結させる」という強い意志を感じます。

結論から言えば、「うたわれるもの 二人の白皇」(「うたわれるもの 偽りの仮面」と「うたわれるもの 二人の白皇」は前後編とも捉えることができるので、二つで一つの作品と捉えてもいいかもしれません)、戦場のヴァルキュリア4と同じくキャラクターが死にます。戦争ものであるということもありますが、主要キャラクターが死んでしまうのです。
「偽りの仮面」で死んだキャラクターにまつわる話が「二人の白皇」で展開されたりと、そういった繋がりはあるのですが、やはりキャラクターが生き返るということはなく、死んだキャラクターの物語は死んだ時点で終了となってしまいます。

主要キャラクターが死ぬことで物語は大きな転換点を迎えるこのゲームですが、「最高の、最後へ」というコピーの通り、物語としては非の打ち所がない完璧な完結作品として心に残っています。これ以上のストーリーの作品はそうそう無いと思います。

そしてきっとそう思える理由のひとつにも、演出として主要キャラクターの死が存在していたことが影響しているのかな、と思います。




生き返らないからこそ「掛け替えのない」命

ゲームにはパーマデスというシステムがあります。「Permanent Death」という意味であり、一度死んだらもう2度と生き返らない、というシステムです。

ファイアーエムブレム等でも用いられているシステムで、大事な味方が戦闘中に死んでしまう=HPがゼロになってしまったら、どれだけ育ててきたとしても死亡は死亡、もう戻ってこないというゲーム上のルールです。戦場のヴァルキュリア4でも、主要キャラクター以外のキャラクターにはこのシステムが用いられており、どうしても失いたくないキャラクターを失ってしまったら、たとえその戦闘がうまくいっていったとしてもリセットしてやり直す、なんてシチュエーションも生まれます。
もちろん死亡扱いにしてしまったらその後の話が進まないキャラクターもいるので、そのあたりは戦闘では死なないという設定になっていたりしますが...しかし、このシステムが導入されているゲームはかなりキャラクターに対して「失いたくない」という気持ちが強くなるのではないでしょうか。
フェニックスの尾を使うとか、教会で生き返らせるという手段がないからこそ、キャラクターの命そのものが掛け替えのないものになっていきます。

ただこのパーマデスは、あくまでゲームプレイ(プレイヤーの力量)がキャラクターの死を招くことになるので、キャラクターを失った際にはプレイヤーにも責任があります。選択ミス、予想ミス、レベリング不足、様々な理由がありキャラクターが失われますが、その道筋を作ったのはプレイヤー自身なのです。
だからこそ心情としては純粋に死に対して何か思うより、行動選択のミスに対して意識が行きがちです。また、そもそもセーブデータをロードしてまたその戦闘をやり直せば、その死はなかったことに出来るので、確定的な死ではありません。

そこでやはり印象として強くなるのがストーリー上の死です。
これは確定的であり、プレイヤーの力量で変化させることは出来ない、不可避な死です。ルート分岐などが無い限り避けることはできません。
こうなるとプレイヤーには責任は無く、抗えない事実として目の前に現れます。プレイヤーに自責の念が無いからこそ、100%の演出として、強く、ストーリーの核となる場合もあるのではないでしょうか。



キャラクターの死による物語への影響

主要キャラクターがゲームから退場することは、それ以降物語として広がる可能性のあった一部のベクトルを閉じることになります。
例えとして、主要キャラクターが2人しかいなく、2人でずっと旅をしてきた場合。そのうち1人が死んでしまったら、本来そのキャラクターが生きていた場合に可能であったいくつもの「2人で行う演出」が、不可能となります。2人の物語が、以降は1人の物語へと変容してしまいます。

もちろん、死という演出が生まれたからこそ、その遺志を継ぐとか、そういった演出は可能です。しかし、その死亡したキャラクター主体の演出は出来なくなるので、ゲームの物語の広がりという点ではやはり「様々な可能性に繋がっていく可能性を広げるのではなく、物語を閉じる/閉じ始める」作用がかかるものだと思います。

そして、ストーリー上の死、取り返しのつかない、掛け替えのない命の喪失だからこそ、それはプレイヤーへと強い衝撃となります。それが、長時間苦楽をともにしたキャラクターであればなおさらです。

戦場のヴァルキュリアも、うたわれるものもどちらもSRPG、戦略シミュレーションゲームです。戦闘の間にはビジュアルノベル的なストーリーが挟まれ、そして戦闘イベントが発生します。

この戦闘は自由にキャラクターを配置し自由に動かすことができます。だからこそ、プレイヤーにとっては「戦闘をしているうちに独自のストーリーが紡がれていく」ものになっていくのです。
つまり、「ここでこのキャラクターで攻めたから勝てた」「このキャラクターをここに配置して、遠距離からサポートできたからこそ戦闘に勝てた」...。そんな、プレイヤー独自の物語、戦闘勝利への筋道が出来上がるからこそ、感情移入もより強いものになります。既定のレールを勝手に動くのではなく、自分で操作できるからこそ愛着が沸き、そしてそのキャラクターが失われたときの喪失感に繋がります。


強い喪失感に繋がる、キャラクターの死亡。

その演出は大きな衝撃を生み、プレイヤーを虜にし、物語はまた一段と濃いものになっていきます。
どのゲームでも、その死亡するキャラクターまたはその仲間へプレイヤーが感情移入していれば、きっとその演出は強力なものになっていくでしょう。エンディングまで話を進めたいという推進力になったり、キャラクターを殺した敵に対する怒りに繋がるかもしれません。とにかく、爆発力がある演出です。


そして、爆発力があるからこそ、爆発した後には何も残らないのです。
先ほど書いた通り、キャラクターが死亡することで物語は「閉じる」方向へと進んでいきます。単純に、キャラクターの数が減れば展開できる話のバリエーションも少なくなりますし、味方が死んだのに、その「キャラクターが死んだという事象」に対して話が引っ張られずそれまで通りの雰囲気で物語が進むのは違和感があります。「味方が死んだからこそ、物語は広がる方向から一つの目的に対して強く収束していく」作用が働くのが一般的ではないでしょうか。



物語が閉じることは、そのゲームが閉じること

最近イシイジロウさんの執筆された本「IPのつくりかたとひろげかた」を読み、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)について語られたこんな一文にハッとさせられました。一部、引用します。

IPにおいて、物語やドラマを完全に閉じないということは重要な発想だ。クリエイターは物語を閉じたがるし、実際、綺麗に閉じた物語というのは傑作になる。物語は終わるからこそ物語であるという考え方があるように。しかしマーベルはIPを存続させるために、『アイアンマン』を完全には閉じさせなかった。この延命が『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』と『アベンジャーズ/エンドゲーム』の巨大なヒットに繋がってくる。

クリエイターとして魅力あふれる作品をつくるには、物語を閉じていく...完結させると形容してもいいでしょうか、そういった形に物語を完成させたいという意思があるのは当然だと感じます。
またもちろん、企業として作品を扱い、収益を上げるのであれば、人気作品は閉じず、いつまでも世の中で動き続けるものであってほしい、というのは極めて正しいと思います。

ここに一つの答えがある気がしました。
私もこうやって、もちろん収益は発生していないので完全に趣味ですが、noteを書いています。収益は目的で無いにしろ、当然ですが少しでもいい文章、いい内容を書きたいと考えています。
そのうえで当たり前ですが、一つの記事を書きかけで投稿、発表することはないんですよね。ある程度自分の感想や考えをまとめて、全部出しきって、完成とします。

ゲームクリエイターの方も、出来る演出は全部使って、ストーリーとして魅力的な度合いを少しでも上げたい。それは魅力が上がることによって、ゲーム自体の評価も高まり、ユーザーの満足度も上がるから。そんな思いがあるんだと思います。
そしてそこに企業の戦略が混ざり、物語やキャラクターを「閉じる」のではなく、「閉じない」という選択がなされる。そんなこともあるのではないでしょうか。



「キングダムハーツ」におけるFFゲストキャラの印象

「キングダムハーツ」を購入した10代の頃、ゲーム雑誌でその特集を知り「スクウェアが新しいRPGを作るんだ!...でもディズニーか、別にディズニーは興味ないからなあ...」と思ったことを覚えています。そしてその雑誌を読み進め「え、スコールとかクラウド、エアリスが出るの!?ディズニーは興味ないけど、このキャラが出てくるならやりたい!」とも思い、結果としてキングダムハーツを購入しました。

これはあくまでFFのキャラクターがゲスト出演したゲームですが、スコールやクラウドに関してはわかります。一方で、エアリスは本来FF7本編でセフィロスに殺されているんですよね。
別作品ですしお祭りゲー的なゲスト出演ではあるのですが、やはり生きていることに対する疑問がゼロではありません。同時に、エアリスという一度「閉じた」物語を、再び広げるという荒業を使うことで、死という衝撃が多少薄れた、という印象があります。もちろん、正統続編などではないのでそこまでどうこう言う必要はないと思いますが...。
しかし個人的には、死んだキャラは前日譚などでもない限り死んだままという、そういった尊重をすることもまた、逆にそのキャラクターがIPとして生き続けることにもなるかな、とも思います。

もしこういった別ゲームでのゲスト出演やスマホゲームのコラボではなく、特定のゲームの正当な続編が作られた場合、もちろん死んだキャラは死んだままであると思います。よほどの理由が無い限り、死者が生き返ったら、死の演出自体がチープなものへと変容してしまいます。
物語が閉じるというのは、何もその作品1作ではなく、続編にも影響し続けるんですよね。楽譜でいうデクレッシェンド記号のように。

だったら、これからもっと色々な方向性を生めるし、なるべく物語が閉じないほうがいい。せっかくいいゲームが出来たのであれば、アニメ化や映画化、グッズ化の可能性や続編の可能性は残しておいたほうがいい。特にインディーゲームよりは大手ゲーム会社の大作であるほどそう考えると思います。

それなのに、その広がりの重要な源流、重要なIPとでも言えるキャラクターを、ストーリー上で死亡させてしまう。物語そのものはもちろん、ゲームそのものの広がりを、あえて閉じてしまう。

それこそ、シリーズ完結を謳い発売された「うたわれるもの 二人の白皇」はまさにそれでした。「戦場のヴァルキュリア4」は、ある意味主要キャラクターが死亡したからこその物語の厚みが出ている作品であったと思います。
特に自己犠牲からの死亡ほど強く琴線に触れるものはありませんし、「取り返しのつかない」、むしろ「取り返してはいけない」演出であると思います。

そんな死という演出を入れ、物語やキャラクターを閉め、終わりにする。
「今後も生き返ったり助かったり続編があるだろうから...」とプレイヤーに思わせない、思わせるつもりの無い覚悟を感じられ、そのゲーム作品の魅力を非常に高めていると感じます。
死は死であり覆されることの無い事象であること、一度終わった物語は再び開くことなく、そのまま終わらせること。続編を作らない、終わりにする、という気概を感じるからこそ、物語そのものの唯一無二感が高まり、キャラクターの命とともに、物語、ひいてはゲームそのものがかけがえのない物に感じると思います。



終わりに

企業の収益を考えれば、メディアミックスなど多方面でお金を稼げるほうがいいに決まっています。ゲームの開発費が高騰するほど、従来のファンがついていて売り上げが安定しているシリーズもののほうが作られやすいものです。また、シリーズものは過去作品の人気キャラクターの登場や世界観が一致していることが、強みの一つであると思います。つまりは、シリーズの火を絶やさないものだと思います。

戦場のヴァルキュリアはシリーズものとは言え、各作品に強力な繋がりはありません。そういった意味ではキャラクターの死亡が非常に大きい影響を与えるわけではないかもしれません。しかし世界観は同一なので、出そうと思えば自由に出すことが出来ます。事実、DLCで過去作品のキャラクターを使用できるようになった作品はあります。キャラクターが死亡すると、それもできなくなる...いや、出来ることは出来ますが、生死という物語の整合性が失われ、感動が薄れる結果となるのではないでしょうか。

うたわれるものは、初代のキャラクターが後発の2作品にも登場します。十数年ぶりに好きなキャラクターが新たな物語を紡ぐのは、極めて魅力的です。それも、例えば初代の物語で「登場キャラクターが生存した」という結果であったから、十数年の時を経て物語がまた動き出せた、と言えるのではないでしょうか。

キャラクターの魅力は強いです。企業にとってもブランドであり、商品であり、大事に育てていくものであると思います。

だからこそ、だからこそ、キャラクターを死亡させるという演出を取り、さらには続編を作らないような物語、世界設定にするその心意気は、ある意味で覚悟を感じるとともに、「綺麗に閉じた物語」という印象を受け、「面白いゲームだった」と感じる役割のひとつになっていると感じました。



ゲーム自体はどんどん発売されてほしいですし、好きなゲームシリーズはいつまでも続いてほしいです。
しかし一方で、シリーズを完結させたり続編を作らない気概を感じられるゲームの魅力は際立っており、心に残るのもまた事実です。

今回はキャラクターの死という重大なネタバレがそのトリガーとなっていると感じたため紹介作品数を絞りましたが、他にも色々な、キャラクターが死にまくる...「ああ、もうこの作品で全て終わらせるつもりなんだな」というゲームは経験してきました。
そして、その演出が丁寧であればあるほど、どこか狂信的にその作品、会社のファンになってしまうんですよね。

これからもきっとそんなゲームとは出会えるとは思いますが、やはり据置機のゲームは開発費が高騰して、自分のリアルタイムではPS初代の頃に感じた実験的作品のようなものは少なくなる気がします。インディーゲームではあると思いますが、なかなか、例えばうたわれるもののような長時間プレイしボイスや練りこまれた物語となると少ない気がします。
それでも、プレイしないと見つかるものも見つかりません。
クリエイターの方は、ビジネスも考えつつ創作の意欲を持ちゲームを作ってくれているものだと、いちユーザーとして想像します。

仕事やその他で忙しくなったとしても、またそのような作品に出合え、心に残る作品を見つけられるよう、ゲームを遊んでいきたいな、と思います。

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