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スーダン人が教えてくれた日本語の豊かさ

 このようなノンフィクションは大抵、読む前から、苦難を乗り越えた感動ものとして捉えてしまいがちだ。本書を一言で表せば、盲目のスーダン人による日本での体験記に他ならない。しかしながら、そのような一括りで表すことのできないのも本書である。読んでいるうちに、気づけば筆者がスーダン人であることも、見えない状態であることも意識からはじけ飛び、筆者アブディンその人の魅力に惹き込まれてしまっていた。

 ふとしたきっかけから少々不純な動機もあって日本留学を叶えた筆者。当然のことながら日本語を学ばなければならないのだが、当初与えられた教材は、日本企業の研修を受けに来日した東南アジアからの研修生向けのものだったため、例文も独特だったという・・・・・・

 たとえば、「コマラさんは部品の組み立てが上手です」だとか、「備品の納入先にお礼の手紙を書く」とか、日常会話に持ち込むには無理がありそうな語彙ばかり並べられている。
 なんでやねん。

 ここだ。思わず二度読みしてしまった。自分で説明したことに冷静に突っ込みを入れる見事なタイミング。筆者の文章には、こうしたテンポの良さとユーモアセンスが所々に散りばめられており、思わず面白がってしまう。彼の底抜けに明るい人間性が関係しているのかもしれない。

 努力はするけれど、楽もしたい人らしく、学校から遠い場所に住んだ時はしっかり通ったものの、大学内の寮という近場に引っ越せてからは、ぎりぎりまで寝てしまい遅刻をするという愛すべきキャラクターだったりする。

 他にも「スーダンは日本より数段広くて、数段暑い国だ」など、おやじギャグに夢中になって日本語の語彙を増やしていった彼。スーダンはどこにあるかと訊かれて、ヨルダンという国を引き合いに出し、「その隣にヒルダンがあって、その真南にアサダンとスーダンがある」と真面目に冗談を言って、相当真面目な相手に真に受けられてしまうというエピソードにも口元が緩む。

 純粋に、筆者の人柄も文章も面白く、彼とともに日本を、日本語そのものを再発見し、体験していく気分が味わえる。

 もちろん、問題はたくさんある。日本という異国の地で、初めて口にするものを想像するのも大変であり、複雑な電車も大変だ。日本語の方言に慣れるのも大変だろう。それなのにこんなに滑らかに言葉を綴れるようになるまでにどれほどの苦労があったかと想像すると、ああ、大変だっただろうなと月並みな言葉しか思い浮かばない自分を恥じる。

 そんななか、彼の漢字に対する感覚に、はっとした。彼は粘土を使い、手で漢字を覚えた。

一番気に入ったのは「大」の字である。こんなにくつろいでいいのかと思うぐらい、この字はまったりしているのだ。「大」というよりも「寛」と読ませたいぐらいだ。

 彼の次元とは異なるが、日常で大変だ大変だと思うことは多い。けれども彼のこの感覚で日常を見られるならば、「たいへんだ」「おおごとだ」などと色めき立つ前に、「大」はおおらかで、まったりしているんだから、きっと「だいじょうぶ」だと思える気がする。

 ちなみに本書は、アブディン本人が音声読み上げソフトを使って作成した原稿であるという。通訳も翻訳も入っていない。彼が本当に日本語の文章を、漢字の意味も形もしっかり理解したうえで書いているのだ。だからこそ生きた文章として迫ってくるのかもしれない。思い出して欲しい、書名『わが盲想』を。笑っていいのかいけないのか一瞬迷ってしまうではないか。でももしかしたら彼は読者のそんな迷いすらも楽しんでいるような気がする。いや、狙っているのか。

 もともと鍼灸を学ぶという名目のために来日した筆者は、読者の期待を遙かに超える面白い人生を歩んで早15年ほど。詳しくは本書で楽しんでいただきたいが、実は、近年の活動がyoutubeで公開されていた。日本語の講演が、日本人よりも流暢な日本語に聞こえるのは私だけだろうか。


 見てから読むか、読んでから見るか。
 読んでから見ることをお勧めしたい。youtubeがいつまで公開されているかはわからないが、後悔しないように、公開されているうちに見て欲しい。だから早く、読んで欲しい。
 本書を読めば、きっと今、たくさんの人が元気になれる気がする。私を含め。

人間は一つの選択肢しか与えられなければ、それなりにがんばっていけるのかもしれない。迷うのは、複数の選択肢を与えられた人間なのだろう。

 言葉が、沁みる。

『わが盲想』モハメド・オマル・アブディン著(ポプラ文庫)

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