「アメリアの花」第6話

第五章 何度繰り返したら

 次の日もその次の日も、タンポポの花やクラスメイトに注目して生活していった。もちろん、道端であの女に出会うことがあるかもしれないので、注意深く歩いてもいた。
 しかし結局それ以降、アメリアの世界に行くことはなかった。
 おそらく、ではあるが。
そしてさらにそこから一か月ほど過ぎたころ。僕はまたいつものようにギリギリの電車に乗って高校へと向かっていた。
いつもの日常に戻ってしまえば、どんな悔しかったことも忘れて日常に戻ってしまうもの。紗雪のことも再び頭に上らなくなっていた。
電車を降りて高校へと歩いていく。今日からまた、面倒な一週間が始まるのだ。月曜日が一番憂鬱だ。この一日を乗り切れば、金曜日まではあっという間。
学校へ着くと、すぐに教室へ向かう。席に座り、教科書を机にしまう。そろそろ先生が来るころだ。
先生が入ってきて朝のミーティングが始まった。三上先生はとても熱い先生だ。三年に上がり、受験が目の前に近づいてきた。それもあって、先生は今まで以上に勉強のことを話すようになった。僕は正直、大学なんて入れればどこでもいいと思っている。特にやりたいことがない。何を選べばいいのか分からないのだ。先生の声が、遠くの方で聞こえてくる。いつもこんな感じだ。あまり聞いてはいない。ミーティングが終わり、加藤が話しかけてきた。
「おい、上神。今日も遅かったのなぁ」
「何言ってんだ。俺はいつも……」そこまで言って思った。
 待てよ。僕がまた、来るのが遅いと言われているではないか……。
 ぎょっとして周りを見回してみた。すると、また三島君があの席にいるのに気づく。そして、アメリアの世界にいた、田代さんが教科書の準備をしていたのだ。隣のクラスのはずの指原もいる。
「そうそう。寝坊しちゃってさ」僕は慌ててごまかした。そして、何気なく尋ねることにした。「……あれ、遅く来てたのは……いつからだったっけ?」
「あ? 自分のことだろうが。……どうだったかな、先週の木曜と金曜日も遅かったんじゃなかったか」
「なんだって!」僕は驚いて椅子から立ち上がった。
「なんだよ、その驚きようは。自分のことだろうが」加藤が笑う。
「……あ、あぁ。そうだよな。なんでもないよ。大丈夫」
 僕は平静を装って答えた。そして、ゆっくりと椅子に座る。加藤が別の友達にちょっかいを出し始めたところで、僕は再び考え始める。
 先週の木曜日から? まさか、そんなはずはない。僕が気づかなかったというのか。そこまで何にも気づかなかったというのか……。
僕は急に恐ろしくなった。あんなに気を付けようと思っていたはずなのに、同じ過ちを二度も繰り返してしまったからだ。
自分自身に落胆する。しかし、落胆していてはどうにもならない。紗雪に、負けてたまるか。
木曜日の記憶を探ってみる。
いつも通り学校に通って……。
どうしても記憶がかすむ。だめだ、思い出すんだ、と自分に言い聞かせる。しかし、思出せない。記憶を探るのに苦闘していると、授業が始まった。頭の中はずっと木曜日からの記憶を探っている。
木曜日の時間割を見ながら、その日起こったことを思い出す。朝も特別変わったことはなかった。いつもの通りの時間に起き、電車に乗って学校へ来た。靴箱で会った友人に挨拶をして、教室に入った。
特別変わったことはなかったはず。……だからこそ、思い出せないのだが。
もし加藤の言うことが本当だとすると、木曜日と金曜日はすでに、クラスメイトが変わっていたということ。それに、道端にはアメリアの花が咲いていたということだ。
僕はそれに気づかないほど、何にも気づくことなく毎日を過ごしているということ。二度も苦汁を味わったというのに……。それを考えるとがっかりした。
 ひとしきりの後悔の後、頭はまた記憶をさかのぼる。しかし結局、木曜日も金曜日も、何も変わったところが思い出せなかった。
土曜日と日曜日はどうだっただろう。
土曜日は家で漫画を読んでダラダラと過ごしていた。確かにこんな一日を過ごしていては、世界が変わったことに気づくこともないだろう。日曜日だって、一度コンビニに家を出ただけで何もしていない。もうこの頃は、紗雪のことはほとんど頭の中から消え去ってしまっていた。それに、アメリアの花にも残念だが、気づくことができなかった。それは木曜日、金曜日も同じだ。
僕は一体、現実の何を見て生きているのだろう。毎日毎日、心が動かされるようなことがないような毎日を送っていると、世界が変わっていることにも気づけないのか。それほど僕は、無感動な毎日を過ごしているのか……。
間違いを探そうとしているのに、自分を責める声が何度も響いてくる。
 そして、授業が終わると僕はすぐに外へ飛び出した。校門の外を確認する。すると思った通り、雑草が咲いている道端にアメリアが咲いているのが見えた。
 やっぱり、またアメリアの世界に飛ばされてしまったらしい。このアメリアを見てしまっては、もう疑いようがない。
「くそぅ」

 
 授業の内容が全く入ってこない。知らないうちにこの世界に来ていた。それをまさか、気づかぬうちに二回も繰り返している。しかも今回は、アメリアの世界のまま四日も過ごしているではないか。その四日の間、アメリアにも、クラスのメンバーが変わっていることにも気づかなかったということ。僕は本当に、何を見て生きているのだろう。
今やっと、初めて不安になった。こんな生き方で、大丈夫なのだろうか。
 結局この一日、授業がほとんど頭に入ってこなかった。学校では何もできないため、とにかく早く家に帰りたいと思った。メモを書いたコピー用紙を見たい。アルバムに載っていた、あのみっちゃんの写真を確認したい……。どこかでまだ、間違いなんじゃないかという気持ちが残っているようだ。
しかし、もしかしたらこの間のときと同じように、家に帰る前に元の世界に戻されることだってあるかもしれない。そう思うと、期待のような、不安のような、不思議な感覚が僕を襲った。
しかし結局、帰り道に咲いていたのはアメリアの花で、元の世界には戻らぬまま家に帰った。
「ただいま」
「おかえり。どうしたの、そんなに息を切らして」
「いや、何でもない。……あ、そうだ。俺さ、最近学校出るの、遅かった?」僕は母さんに尋ねた。
「あぁ、遅かったわねぇ。一回聞いたわよ。遅いけど大丈夫なの、って……。でも、『あぁ』って返事しただけで終わっちゃったじゃない。……もう、そんなことを言う年ごろでもないしね、言わなくてもいいかなとは思ったんだけど……」母さんは困ったような顔をしている。
「え? そんなこと、言ってたっけ……」
 僕はすぐに記憶を探る。しかし、母さんに話しかけられた記憶すらないのだ。
「んもう、また人の話、全然聞いてないんだから。ちゃんと話を聞いて、返事をしてよねぇ」
僕はよく、人の話を聞いていないと言われる。今回も話を聞かずに返事をしていたらしい。もし人に質問をされたときにちゃんと聞いて返事ができたなら、その時点で世界が違うことに気づいていたかもしれないのに……。気づけなかった自分にがっかりする。しかも、二回もだ……。
だが、すぐに思い直した。がっかりしている暇はない。
僕は押し入れに直行し、アルバムに手を伸ばした。アルバムを見てみると、やはりあの写真にはみっちゃんが写っていた。僕はその家族写真をそこから抜き出すと、定期入れの中に入れた。
こうすれば、今どっちの世界にいるのかが、いつでも確認できるからだ。僕はそれをカバンの中にしまった。
次はあのコピー用紙だ。僕が今、アメリアの世界にいるということは、引き出しの中にはアメリアの僕が書いたメモが残っているはずだ。
僕は引き出しからコピー用紙を取り出して見てみる。すると、前僕が書いた内容が上下逆になった状態で書いてあった。
『僕の世界』    『タンポポの世界』
アメリア       タンポポ
早く登校→寝てる   ぎりぎりに登校       
みっちゃんがいる   みっちゃんがいない
杉原さんが存在する  田代さんと入れ替わり?
指原が同じクラス   隣のクラス
一緒に帰る
おでこに傷跡     傷跡なし

 この紙は、アメリアの世界の僕が書いた紙。筆跡は全く同じだった。しかし、ここには『紗雪』の文字はない。僕がこの世界で書かなかったからだ。
アメリアの僕がタンポポの世界に来た時に『紗雪』という文字を書き足したということは、僕が知らないことを、アメリアの僕が知った可能性があるということ。
その用紙をじっと眺めていると、ふとアイディアが浮かんできた。
何か、メッセージを残すことができるんじゃないか。そうすれば、世界を行き来するたびにメッセージをやり取りできるかもしれない。そう考えると早速、使っていないノートを取り出し、表紙に『アメリアの世界の僕へ』と書いた。
さて、何をメッセージとして残そうか……。
 
 一体何のために、世界を入れ替えられているんだろう?
そっちの君は、どう思う? 僕は正直混乱している。木曜日から世界が変わっていたようだが、僕は今日……つまり月曜日まで気づくことができなかった。君はどうだったか教えてほしい。また、いつそっちの世界に戻れるのだろうか。
そういえば、僕が初めてこっちの世界に来た日、女に連れられて、アメリアの世界に来たんだ。君はどうなんだ? 同じなのだろうか。
君が書いていた『紗雪』の文字が気になる。あの女の名前なのか?
 
とりあえず、思いついたことを書いてみた。また疑問があれば、このノートに書いていくことにしよう。あっちにいる僕もきっと、ノートに何かを残しているはず。
全く同じような内容だったりして……。『僕』であるのは変わらないから。
いや、それでも僕たちはほんの少しだが違う過去を生きている。僕は紗雪のことも知らなかったし、何かしら違いがあるのかもしれない。
僕と、アメリアの僕……考え方や性格は、どれほど違っているのだろうか。そう考えると、ノートにもう一言付け足した。

君はどんな性格の人間なんだ?
……って書いても自分でいうのは難しいよな。
僕はそうだな、どんな人間なんだろう。特に目立たず話も面白くない人間……。って書くと、なんだか悲しいな。でもそんな人間だ。

ここまで書いて虚しくなる。無気力に毎日を生きて、表面上だけで人と付き合っているんじゃないか。表面上だけで現実を生きているんじゃないか。クラスメイトが変わっているのに、タンポポの花がアメリアに変わっているのに、それに気づかずに過ごしていたのだ。
もしかしたら、僕が気づいていること以外にも、何か変わっているところがあったりするかもしれない。僕が気づかないだけで、変わっていること……ありそうな気がする。ノートにもう一行、付け足した。

 気づいてないけど、変わっているところはどこ?

 何かしら見つかりそうな気がする。当分、日常をよく観察してみるしかない。クラスの人間だって、隣のクラスだった指原がいることと、杉原さんと田代さんが入れ替わっていたこと以外にも、何か違いが見つかるかもしれない。気づいていないけど、父さんや母さん、浩太だって、少しずつ違うところがあるかもしれないのだ。そんなことを考えていると、いつの間にか夕飯の時間になったらしい。
「達也―、ご飯の時間よー」母さんの声が一階から聞こえてくる。
僕はノートを引き出しにしまい、部屋から出た。台所に着くと夕飯の準備がすでにできていた。浩太は今日遅くなるらしく、夕飯は母さんと二人で食べることになった。
 ここはアメリアの世界だ。
再び自分に言い聞かせる。
「いただきます」
 何か違いはあるのだろうか。そんなことを考えて、周りを見渡しながらご飯を食べる。
案の定、母さんに何してるの、と聞かれてしまった。
「あぁ、家具ってこんな配置だっけなぁって思ってさ」
「何言ってるのよ。達也、新学期になってから、たまに変なことを言うわよねぇ……」母さんはあきれた表情をしたが、すぐに不安そうな顔になった。「……勉強、プレッシャーなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……。あのさ」僕はそう言うと母さんに向き直った。「……たとえばさ、母さんが母さんじゃなくて、顔は同じだけど違う人だった……とかだったらどう思う? 俺、気づけるかな」
「違う人? 同じ顔なのに? どういうこと?」母さんは首を傾げる。
「いや、何でもない。……いいや。大丈夫」変なことを質問してしまった、と後悔する。
「あぁ、この間の小説のこと言ってるの?」母さんは前した小説の話を覚えていた。
「……あぁ、そうそう。本当に起こったらどうかなって思ってさ」
「どうかしらねぇ。……達也はぼーっとしてるから、気づかないかもしれないわねぇ」母さんはそう言うと笑った。
図星である。きっと普通ならそんなことないって笑って突っ込むんだろうけど、僕は笑うことも突っ込むこともできなかった。
「……それより、このアジ、おいしいね」僕は慌てて話題を変えた。
「え? それはね、サバよ、サバ……。もう、本当に何も分からないで食べてるんだから」母さんが再び笑う。
 墓穴を掘ってしまった。僕はまた、慌てて言う。「あぁ、サバの味噌煮か。うん、おいしいね」
 僕は母さんに尋ねることは諦めることにした。母さんから視線を外し、部屋の中を見回す。何か違いは……。
探してはみるものの見つからない。しかし、家具の配置が違うからといって、何があるというのだろう。あまり意味がない気がする。
もっと違うところに目を向けたほうがいいのではないか。母さんのしぐさとか、そういうところに。
「母さんってさぁ、何か得意なことある? 運動とかさ、なんか……」僕は再び母さんを見た。
「え? 母さん? 母さんねぇ。何だろうねぇ。運動は苦手よ。嫌いだもの。それより絵を描いたり、ちまちま裁縫したり、そういう方が好きね。これでもあんたが小さいころは、小物は全部作ってたんだから。ほら、裁縫道具のカバーとかも」
「……そうだったね。あの裁縫道具のカバー、あれさぁ、俺だけカバーが違くて恥ずかしかったんだよな。みんな同じカバーだったのにさ」
「……そうだったっけ。いいじゃない。母さんが一生懸命作ったんだから」母さんは嬉しそうに笑う。
「うん、まぁ、そうだね。今になってはいい思い出だよ」
 僕が小学校の時、裁縫の授業が始まってから裁縫セットを買うことになった。裁縫セットは学校で一斉に注文することになっており、自由に箱のデザインやカバーの色が選べるようになっていた。周りのみんなは裁縫道具のほかに道具のカバーも一緒に注文していたのだが、僕だけは裁縫道具だけを購入し、カバーには母さんが作ったキルティングのバッグを使っていた。
みんなが同じ緑色の同じカバーを付けている中、僕だけが黒い、名前の刺しゅうを施した裁縫カバーを使っていた。みんなと違うものを使うことがとても恥ずかしかった。みんなと同じものが良かった。そう思っていた。
 そう考えると、注文すればいいものをわざわざ作るということは、母さんは確かに裁縫が得意だったということなのかもしれない。
小さいころは他にも色々作ってもらっていたっけ……。僕はそんなことすら忘れてしまっていた。
つまり裁縫が好きな母さんは、僕の世界、タンポポの世界でも同じだということだ。この思い出は、アメリアの僕と共通のものなのだ。
「母さんはもう、作らないの?」僕は尋ねる。
「そうねぇ。そう言われると……」母さんは首を傾げる。
僕の最近の記憶にある限り、母さんが何かを作っている姿は見かけていない。
「そうねぇ、今度何か作ってみようかしら。久しぶりに作りたくなってきたわ。達也、ありがとう。思い出させてくれて」母さんはニコッと笑った。
「ん? うん」
 ありがとうと言われた。
そしてあれ? と思った。
久しぶりに母さんと話しができた気がしたのだ。今までだってたくさん話をしてきたはずだ。でも自分から話しかけることはあまりなかったし、母さんに興味を持って話すことが、ここ最近なかったような気がする。
「じゃあさ、最近は昼間何してるの?」僕はついでに尋ねてみることにした。
「え? 何してるって、そうねぇ、掃除したり洗濯したり、買い物に……もちろんテレビも見たりするわよ。でも、特に何も変わったことはないねぇ」
「ふぅん。……あれ、パン教室とかさ、通ってなかった?」僕は一つ思い出したことがあった。
 母さんは休みの日にパン教室に行っていたのだ。母さんがパン教室に行く日は、夕飯が遅くなる。それに、少し前に習ったパンを作ったと言って食べたのだ。パンも、職人じゃなくても作れるんだと感心したから覚えている。
「あぁ。パン教室に行こうかと迷ったんだけどね、結局やってないのよ。習い事もいいわよねぇ」母さんはそう言った後、おかしいな、という表情をした。「……あら、そんな話、達也に話したかしら」
「……え? あぁ、言ってたよ、うん」僕は慌てて答える。
そうか。やっぱり母さんも少しだけ違う人生を歩んでいるんだ。ちょっとした選択の違い。もしかしたら、こっちの母さんも、もう少し経ったらパン教室に通うかもしれない。それは分からないが、微妙な違いがあることが分かった。
 じゃあ、僕には? この間調べたところによると、みっちゃんがいたとか、額にケガの跡があるとか、……朝早く学校に行っていること……。それくらいが今分かっていることだ。
部屋でいつも何をしているのだろう。何を考えて毎日を生きているのだろう。気になりだすと、いてもたってもいられなくなる。僕はご飯を急いで食べると、自分の部屋に戻った。
 ノートを開いてメッセージを残す。

母さん
裁縫、絵を描くのが好き
(タンポポ) パン教室……?
(アメリア) 習い事なし

達也
(タンポポ)
学校から帰ってきた後→漫画、宿題
ご飯が終わった後→テレビ見て風呂
         漫画、寝る
休みの日→ゴロゴロ寝てる、テレビ、漫画、
     ゲーム、残りの宿題

 ここまで書いて虚しくなる。自分自身には何にもない。ぐうたらな人間にしか思えなかったからだ。何にも楽しいことなんてない。心が躍るような、そんな趣味もない。なんてつまらない人生を生きているのだろう。
しかしこっちのアメリアの僕は一体何をしているのだろうか。それが気になる。
またタンポポの世界に戻れたとき、きっとアメリアの僕がノートに同じようなことを書いているはず。少しでも充実した僕であってほしい。同じ僕ではあるけれど、そんなことを願う。
 ……浩太が帰ってきたようだ。浩太が野球をやっているのは変わらない。浩太にも、何か違いはあるのだろうか……。
浩太は野球をやっている分、僕よりも充実している感じがする。浩太は小さいころから野球がうまくなりたい、試合で勝ちたい、甲子園に行きたい……そんなことを言っていた。昔はそんな浩太を見て、よくやるよなぁと思っていたのだが、今はそういう、『こうなりたい』という思いがあるというのが、なんだか無性にうらやましく感じる。
 浩太の部活が遅くなる日は、帰ってくるとすぐに風呂に入る。風呂を出てから夕飯を食べ、二階に上がって勉強を始める。朝だって朝練だからと早く起きて家を出ていくのだ。
本当に頭が上がらない。
そんな浩太にも、僕の世界の浩太と違いがあるかもしれない。部屋に戻ってきたら少し話でもしてみようかと思う。勉強の邪魔にならない程度に……。
 浩太が部屋に戻ってくるまでの時間、僕は宿題をすることにした。いつも帰ってきてから宿題をするのだが、今日は例のノートを作成したり、頭が混乱していたりでできなかったのだ。早めに済ましてしまおうと決め、教科書を開いた。
今日は宿題が少なかったこともあり、すぐに宿題を終えることができた。あっちの僕は、ちゃんと宿題をしてくれているのだろうか。それを考えるのと同時に、あっちの僕のために宿題をやるのも変な話だと思った。これは、僕の宿題ではない。……といっても明日すぐに元の世界に戻れる保証はないため、もちろんやる。違う世界の僕だけど、僕自身に恨まれるというのも嫌なものだ。
 トントントン……
浩太が階段を上がってくる音が聞こえてくる。部屋に入ったようだ。
僕は自分の部屋を出て、浩太のドアをノックする。
「はい。何?」
「入るぞー」
 そっとドアを開ける。浩太が不思議そうな顔をしてこっちを見ている。
「何?」
「いや、最近また忙しそうだなと思ってさ。部活どう?」自分の行動がぎこちないように感じる。
「んー、まぁぼちぼち。どうしたの? 突然」浩太は信じられない、というような顔をしている。
「あぁ、いや、最近話してないなぁと思ってさ。ここ、座っていい?」僕はベッドを指さした。
「あぁ」
 浩太のベッドに座る。
「あ、勉強するなら出ていくからさ」
「大丈夫だよ。今日はそんなに大変じゃないし」
 この言葉を聞いてほっとした。僕は自然な感じを装って話を始めることにした。
「浩太ってさぁ、朝も早くから野球やってるし、学校終わってからも部活やってるじゃん。すごいよなーって思ってさ。俺なんか、何にもやってないからなぁ」
「んー、そんなに大したことないよ。うちの学校は野球に力は入れてるけど、もっと強いところはあるからね。それより兄ちゃんは今年受験じゃん。どんな学校に行きたいとか、あるの?」浩太の目が僕をとらえる。
 その視線に耐え切れず、僕は視線を外した。
「いや、何にもない。何にも決まってない。どこでもいいから、入れればいいかなって……」
「ふぅん。俺は野球がある程度強いところに入れたらいいなぁとは思うけどね。野球は続けたいし」
「いいよなぁ、そういう、熱いものがあるってさ」
「兄ちゃんも探してみればいいじゃん。ほら、小さいころさ、絵描くのうまかったじゃん。ああいうのとかさ、あとそうだ。幼稚園のころとかさ、芸人になるんだーってさ、ネタ作ったりしてたじゃん。母さんとかみっちゃんを笑わせたりさ。……俺、やりたくなかったのに、無理やり漫才やらされたりさぁ」
「え? ネタ? あぁ……そんなこともあったっけな」みっちゃんはいないが、確かにお笑いの真似をしたような記憶がかすかにある。「それは変わらないんだな」
「え? 変わらない? 何?」
「あぁいや、こっちの話。芸人ねぇ、そんなこともあったっけなぁ。でもさ、それじゃ大学行かないってことじゃん?」
「いや、別に芸人目指せってわけじゃなくてさ、大学もそうやって決めたらいいじゃん。好きな勉強とかさ、何でもいいからさ」
「そうだなぁ。好きな勉強ねぇ。……お前は?」
「俺? 俺はねぇ、第一は野球で、その次は数学かな。担任の田原先生のおかげで、数学しごかれてるからさ。たくさんやらされてるうちに、なんだか好きになっちゃったんだよね。だから数学をもっと学びたいって思ってる。まぁ、就職はまだ分からないけど、数学が学べるところに行ければいいかなって」
 そう言う浩太の顔が、きらきらと輝いているように見えた。
「ふぅん、浩太はいいなぁ。そういうのがあって。すごいよな」
「そんなことないよ。兄ちゃんも何か見つければいいよ。部活もさぁ、まぁ部活じゃなくても何か始めるとかさ。……漫才とか?」
「漫才ねぇ。そんなことすら忘れてたよ。漫才はどうか分からないけど。まぁ色々と考えてみるよ。」そう言うと、ベッドを立ちあがる。「じゃあ、邪魔したな」
「あぁ」浩太は手を上げると、カバンから教科書を取り出した。
 僕は自分の部屋へと戻った。ベッドに横になる。
浩太に関しては、特に違いは見つからなかった。しかし、まだ三年生でもないのに、僕以上に将来のことを考えていることが分かった。この先やりたいことも、なんとなく見つかっている。それがとても、うらやましく感じた。
芸人……か。そういえばそんな時期もあった。小さいころは、とにかく周りにいる人たちを笑わせるのに必死だった気がする。テレビ番組を見て研究しては、それを披露していた。
 ……漫才……か。でも、今さらそんなの目指したって、実を結ぶかもわからない。
現実は厳しいんだ。と、僕は自分自身に言い渡す。ふと、再び思考は引き戻される。
それにしても、次はいつ元の世界に戻れるんだろう。ちゃんと目を光らせていないと、また気づかずに世界を行き来されてしまいそうだ。そんなことを考えていると、下から父さんの声が聞こえた。
「ただいまー」
僕はすぐに風呂に入って、今度は父さんと話をしてみようと決意する。何かまた、見つかるかもしれない。
 一階に降りると、父さんは夕飯を食べていた。時間は九時を少し過ぎたところ。
父さんは会社で研究職の仕事をしている。研究職といえば、毎日試験管を傾け、仕事をしている……。そんなイメージしかない。
「おかえり」
「おぉ、ただいま。風呂か」
「あぁ、行ってくる」
 少しだけ会話を交わし、風呂に行く。今まで僕は父さんが帰ってきていても、素通りで風呂へ行っていた。だから『おかえり』という言葉さえも、直接言わなくなっていたのだ。
そんな些細な会話でさえも、最近は全くしていなかったことに気づく。
これじゃあ……ダメだよなぁ。世界が変わっていることにも、気づくわけがない。
 風呂につかると全身の力が抜けるのを感じた。どれほど身体に力が入っていたのだろう。違う世界に来ていると知っているのもあって、自然に力が入っているのかもしれない。
 ……父さん、かぁ。父さんとも最近は全然話をしていない。怪しまれるのは分かっている。だが、何かせずにはいられない。もう、うだうだと時間を過ごしたくはない。それに、現実から少しでもヒントが欲しい。
 僕は急いで体を洗うと、風呂を出た。
風呂場から出てみると、父さんはすでに夕飯を食べ終え、ソファでテレビを見ていた。
「おぉ、風呂、出たのか」父さんは僕を振り返って言った。
「うん。何見てるの?」
「何って、ニュースだよ。ニュース。達也もニュースには興味持った方がいいぞ」
「そうだね」
 どうやって父さんの会話に持っていこう……。
慣れないことをするので、緊張する。もっと自然に、父さんと会話ができればいいのだが、なかなかそれができない。
きっとそれほどまで、父さんと会話をしていなかったということだろう。
「父さんってさぁ、仕事でどんなもの作ってるの?」
 父さんは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに話し始めた。
「うーん、……どんなもの、かぁ。そうだなぁ、なんて言えば分かるかな、写真のフィルムとか、印画紙の上に塗ってある材料を作っているんだ。感光材料っていうんだけどな。そういうものをさ」父さんは僕の目を見て答えた。
「父さんはさ、なんでその会社に入ったの? ほら、俺さ、進路決めなきゃいけないしさ。どうやって決めたのかなぁって思って。……参考にね」僕はもっともな理由を上げた。
こんなことになってしまったので、進路の話が自然にできる三年生で良かった、と思った。
「そういうことか。うーん、……なんでって言われると考えちゃうなぁ。……なんでだろうな」父さんは笑う。「まぁでも、化学が好きでね。物質と物質を組み合わせて新しいものを作るっていう、大学の研究が楽しかったから、かな。新しい物が作り出せたときの感動は、やっぱりいいものだと思うよ。それなりに大変だけどな」
 父さんはどこか嬉しそうに話している。こんなに嬉しそうに話す父さんの顔を、僕は最近見たことがない。
「ふぅん、そうだったんだ。そんなの、知らなかったな」
「まぁな。達也もそろそろそんなことを考える時期になったんだもんな。よく考えて答えを出すんだぞ」
 父さんはそう言うと、僕の肩をポンとたたいた。
「うん、分かった。ありがとう」
 なんだか不思議な感覚だ。今まで感じたことのない感情を感じる。うれしいような、でもそれが歯がゆいような。
僕はふわふわしたままその場を去り、部屋に戻った。
再びノートを取り出す。

浩太の進路
(タンポポ) 
(アメリア) 野球 数学を勉強したい

父さん
(タンポポ) 
(アメリア) 感光材料 新しいものを作るのが好き

 書いてみて、一番大切な、自分がいた世界の項目が空欄なのに気づく。普通なら自分の世界が埋まるはずが、そうではなかったということ。
 自分のことはどうだろう。書いてみる。

達也
音楽:ビートルズが好き
国語は嫌い
社会の点数は良い

(小さいころ)
芸人に憧れた
人を笑わせるのが好きだった
絵を描くのが好きだった

ここまで書いて手が止まる。
今は、自分が楽しめることをやっていないじゃないか……。しかも、自分が楽しめることすら僕は分かっていない。
行かなければいけないから学校に行っているだけで、行かなければいかなくたっていい。特に好きな授業があるわけでもないし、部活だってやってない。浩太のように夢中になれる部活なんかなかったいし、それを探そうとも思わなかった。
家では漫画やゲームをやっている。もちろんどちらも好きだけれど、それは暇だからやっているだけで、別になければなくたっていいものだ。
好きなこともよく分からないし、将来について目指すものだってない。こんな人になりたいという憧れも、もちろんない。
こんなんじゃ進路なんか決まるはずがない。決まったとしても、きっと今までと同じように、無気力に生きていくのは変わらないだろう。
アメリアとタンポポの世界の違いを見つけることも大切だが、それ以上に自分のことを深く知ることは、今後生きていくためには必要なことなんじゃないか……。僕はそう思った。
僕はノートとペンを机に置き、ベッドに横になると考えた。
僕は何にも知らない。自分自身のことなのに、知ろうともしなかったのだ。そこにやっと気づくことができた。
それだけでも良かったのかもしれない。遅かったかもしれないが、スタート地点に立てたということ。
僕はこれから、家族のこと、そして自分自身のこともちゃんと知っていこうと思う。
 僕はそう決めると、心地よい眠りに落ちていった。

第1話:https://note.com/yumi24/n/n93607059037a
第2話:https://note.com/yumi24/n/n3bd071b346dc
第3話:https://note.com/yumi24/n/n8a0cdcc0c80b
第4話:https://note.com/yumi24/n/nc8ac115f964a
第5話:https://note.com/yumi24/n/na76adb055d59
第7話:https://note.com/yumi24/n/ne0acc397b084
第8話:https://note.com/yumi24/n/n6c8aa5ee47f2
第9話:https://note.com/yumi24/n/n6c8aa5ee47f2
第10話:https://note.com/yumi24/n/n9d21c65b01ac
第11話:https://note.com/yumi24/n/n884c542a75fd
第12話:https://note.com/yumi24/n/n43e05c9161bd

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