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作り終わった作品は手放すのが自然

私のような仕事では自作に対する「思い」とか苦労して作り上げた自作を手放すことは悲しくないのか、などと良く聞かれますが、

私は、自分で作ったものを手放すことに全く抵抗感がありません。

なぜなら、どんなに小さなものでも、それがちょっとしたエスキースであっても、自分から現実世界に物質として出てきたしまったら、それはもう、そのモノ自体の人格のようなものを持ってしまい、それを生育させるために私は振り回されるからです。それは自分のもの、という感覚を持てないのです。

それはまるで植物の種を手にしたような感覚で、私はそれを土に植えて、水をやり、時に肥料をやり、日当たりなどを管理し、その種を生育させ、花を咲かせ、実を結ばせるまでをやる、という感覚になります。

私は、ただ手にした種を生育させるだけの役割なのです。

だから、それが育ち切ったら、私の手を離れるのが自然です。

別の言い方をすれば「産まれた子どもにいつまでもへその緒をつけているのはおかしい」ということです。

それと、制作において「〇〇への思い」という言葉がありますが、私はそういう話題で語られる内容は良く分かりません。

それを個人のコダワリとか、個性、作家性のような感じで言われているのは私には理解出来ません。

だいたいが、その「思い」というのは、一方的で、対象や相手への観察が無いからです。また、その「思い」というものは、良心から出ているとされているので、その思いによって対象が傷ついても免罪されるべきだ、という傾向があるのも良くないと思うのです。

それは実際には愛情でもなんでもなく、暴力的姿勢だと考えています。それは自由な創作とは本来的には違うと思います。

本来の愛情は「適切さ」ではないでしょうか。

対象を良く観察し、その対象が必要とするものを、適宜に適時に過不足なく与える。

対象はそれによって快を得られ、伸び伸びと生育します。時にそれは対象にとって、感覚的には快ではなく、苦かも知れませんが、また、時に力技でねじ伏せることすら必要かも知れませんが、しかしそれが適切であれば、対象は伸び伸びと生育します。

その対象への適切な観察と実行の総体を、愛情だと私は思っています。

それは、とても厳しく、むづかしい行為の連続です。甘えは許されないのです。だから、失敗は失敗として厳しく返ってきます。

もし、私が「思い」という一方的な、自分の視点や立ち位置にこだわったとしたら「自分がそれを作り上げたという満足感」だけで終わってしまいます。

作品が完成した時、それは「始まり」であって終わりではありません。

それは誰かに伝達されることによって育って行き、増幅されるのです。

なので、逆に「作品は作者の手を離れるべきもの」なのです。

そういう意味において、私には自作への所有欲や、作品そのものへの「一般的に言う思い」は持てないのです。

もちろん、自分にとっても新しい創作を自作から発見出来た場合には、それをしばらく手元に置いて、次作への展開を考えることはあります。

が、良く出来たものだから手元に置いておきたい、これは売らない作品だ、ということは作者としてはありません。

(写真・「軌跡」ネパール紙に墨、ロウ)


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