モノの肉体的実用性が失われても審美性が残る=審美性は実用的で寿命が長く強い
わたくし、このところ民藝系の話題を連投しております。
今回は、審美性についてのお話です。
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民藝では、
*実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
という定義がありますが、
私は、世の中で「審美的な要素が実用性と別に語られている事」が理解出来ないのです。
明らかに「鑑賞は感覚による実用」です。
なので、いわゆるアートは心理的実用品です。
私は、実際に手で、身体で使う美術工芸品などは「肉体的実用品」と呼びますが、しかしそれとて手や身体で「感じる」のです。精神や心に響くわけです。
それは、手や肉体による鑑賞です。
そもそも、人間は人工物のなかに生きており、人工物を実用する事から逃れられないのです。
(上の「人間は人工物のなかに生きており」の部分は、それについて書いたnoteの記事に飛びます)
また、逆に、一般的に実用品と言われる物であっても審美性から逃れることは出来ません。見た目に不快なものを使う人がいるでしょうか?
「使い心地」というのも実は審美性です。それが悪いものを使う人はいません。審美性も実用性の一種だからです。
事実として「審美性と実用性は切り離す事が出来ない」のです。
(ここでの「審美性」という言葉は「感覚的に魅力を感じる見た目と使い心地を持っている事」という意味で使っています)
仮に気持ち悪い見た目だとしても、そのキモチワルサが魅力となれば、それも審美的に良しとされた事になります。「キモカワ」(キモチワルイけどカワイイ)なんて言われて愛されるものもありますよね。
・一般的な審美性・鑑賞性=目による鑑賞で魅力を感じるもの
(見た目がキレイという意味ではありません)
・肉体的鑑賞性=使い心地が魅力的なもの
(実用的性能が良いだけでは魅力にはなりません)
という事です。
日本民藝館の収蔵品は、観賞用ではない工芸品や道具が主体とされていますが、実際には民藝論に縛られる事なく「柳宗悦並びにその賛同者たちの価値観で審美的に良しとされたもの」が収まっています。
実際に、絵の掛け軸や、布をパネルにしたものもありますし・・・それはどう言い訳しても観賞用です。
民藝館の収蔵品は、確かに(全てでは無いにせよ)民衆、労働者階級のものではあるでしょうが「これは民衆の“道具”としては実用していないな」というものも多いように見受けられます。
お金がなくても、地位は低くても人は美しいものを欲します。それが衣類であるなら、いろいろ無いなかで、どうにかやりくりして、手間をかけて美しく力強いものを残した、そういう風に観えるものがありますし、実際にある程度の材料費をかけないと作れないものもあります。商売を考えたら到底出来ないような手のかけ方をしたものも沢山あります。それらは、明らかに「審美性」のために制作したものです。元々民藝論の趣旨とは違う成り立ちで出来上がっているのです。
そのようなものは、例えば自分の娘のためにという事で時間をかけて作ったのかも知れませんし、自分の楽しみのために時間無制限で作ったのかも知れませんし、何かの行事の際に目立つために気合を入れて作ったのかも知れません。
繰り返しになりますが
その審美性は「鑑賞という実用のために有用」です。そして、それは肉体的実用と完全に分離出来ないのです。分離して考える事に無理があると私は考えます。
本質的に眼での鑑賞と肉体的実用を分離する事は不可能です。人間の精神と肉体を現実的かつ客観的に分離する事は不可能なのですから。
もし、本来的な「民衆の実用のための民藝云々」の事を言うのなら「郷土資料館」などに行って、実際にその地域で使われていたものを観ると腑に落ちます。
それは本当の実用品で消耗品です。それらはシンプルなつくりで、修復しながら使われたもので、道具の場合は飾りは無かったり、あっても粗末なものだったりします。そのような実用品は使い尽くされて破棄されますから実物があまり残っていない傾向があります。
行事に使う飾りなどもありますが、それらは本当に粗末なものです。
それらは「本当の意味の民芸品」ですが、資料的価値はあっても(もちろん、そこに感動的な何かはあります)審美的価値は殆どありません。
(現代の古道具の業界では、そのような消耗品の中から、経年変化や腐食の具合も含めた審美的に良いものを選び出し、それが映えるような空間を演出し、実用品ではなくオブジェとして新しい価値観を産み出している人も多いですが、それはモノ自体が持つ審美性ではなく「店主の見立てによる新たな価値観の創出」なので、民藝の趣旨を超えたものです)
かように、実際には「民藝カテゴリのなかにも審美性による評価の階層がある」のです。
だから、民藝系作家の作品なのにどうしてこんなに高額なのだ、民藝論に反するじゃないか、という意見に対しては、こう答える事が出来ます。
元々、民藝のものであろうとなかろうと「良い素材を使った、制作に時間のかかった、上手い職人の手からなるもので、評価が高く人気のあるものは、高価」です。これは人間社会の摂理ですから民藝系の作品だからといってそこから逃れる事は出来ません。
工芸全般>民藝系の工芸品
一般社会>民藝
なのであって
民藝>一般社会
ではありません。
そういう風に考えるといろいろスムーズになります。
私は、民藝の定義の
1)実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
2)無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
3)複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
4)廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
5)労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
6)地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
7)分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
8)伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
9)他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。
・・・のようなものは「とりあえずの定義」という程度で、厳密なものでは無いと把握しています。
「民藝」という概念の無かった時代に、とりあえずこんな感じ、と提示しなければならなかったからそれを列挙しただけ、という事だと思います。(実際、柳宗悦自身がそのような趣旨の事を書いています)そもそも、上記の特徴は、民藝品だけに固有のものではありません。
そもそも、柳宗悦の存命の頃から、民藝系「作家」が柳の側近のように存在していたのですから、上記の提言はあくまでも「覚え書き」みたいなものだったと思います。
実際的に、上記の民藝の提言を守ろうとするなら、シェーカー教徒の工芸品や生活スタイルの方が、趣旨に合っています。また、現代日本で言うなら100均で販売されているものの方が民藝の理念に合っている、という事になってしまいます。
結局、現実的に「民藝的」とされているのは「民藝館の収蔵品的な審美性を持つもの」となっているわけです。
何にしても、博物館や美術館に「肉体的実用品」が収蔵されると、それは実用性から離れ、審美的な面だけが残ります。(学術的には考古的価値が残ります)
元々審美性を主目的に作られたものや、宗教行事に使われるものであっても(もちろんそれらも宗教行事に関する実用品です)それが必要とされ使っていた時代から外れたら、それは「その時代の審美的実用性から離れる」事になります。そのようなものは「抽象的な審美的存在」になります。
例えば、昔、何かしらの宗教行事に使われていた祭器があるとして、その宗教が廃れて行事が行われなくなってしまえば、ただの「モノ」になります。しかし、そのモノ自体に後世の人々の心を打つ審美的な魅力があれば、それは「宗教行事の実用品から抽象的な審美的存在に変わる」のです。
モノの実用性が失われても、審美的実用性は残るわけです。
なので、東京国立博物館の収蔵物と、民藝館の収蔵物の特性は違えど、実は相反するものではなく、どちらも同じ「審美的価値」(+考古的価値)でチョイスされたものだと私は把握しております。
大雑把に言って
「官、権力者、あるいは民間人でも上の位にある者たちの要求によって作られたもの+考古的価値のあるもの」=東京国立博物館の収蔵品
「一般民間人の必要から作られた、腕が良い職人の手からなる上質なもの、あるいは販売目的ではなく個人や家族のために作られたもの+考古的価値のあるもの」=民藝館の収蔵品
という違いがあると言えるかと思います。
審美的に良いもの、という同一性はあっても、それぞれの特徴がありますから、民藝系のものの素材や技術を東博の収蔵物のような方向性のものにして作っても「より良くはならない」ですし、もちろん逆も同、です。
どちらも「その時代の実用を終えたもの」・・・
それは「その時代に必要とされ、産み出されたもの」から、一度役割を終えて、それから後世の人間がその美を発見して取り上げられたものですから、それはもう、純粋に「それが美しいから・心を打つから+考古的資料」という理由で人々はそれを重用し、学び、楽しんでいるという事です。
人造物の多くは、最終的に「鑑賞品」という実用品に帰着します。
日本の文化には、何本かの大河が流れていて、その河のそれぞれにその大河の特徴に合った魚が生息している、それぞれ必然からそうなったのであり、そのどちらかが優れているという事はない・・・そういう感じです。
だから、民藝を特殊なものとして扱うと、むしろ民藝の良さが無くなってしまうと個人的には考えています。どうしても、民藝というと変に共産主義的な理想の方向に持ち込まれてしまい、本来の良さが歪んでしまう気がします。民藝は別に特別なものではなく、一般社会のいろいろな事象のなかから抽出した何か、に過ぎません。
一般社会のなかの、ひとつの文化発生源として民藝はあります。
「民藝論を絶対不変の経典と崇めるのか」あるいは「民藝論を出発点として新たな創作に踏み出すのか」
現代人は、民藝論を「出発点」とした方が、ずっと本質をつかめますし、それこそ正に、民藝論自体が民藝品として実用的となると私は考えます。
そんな事を思う今日このごろなのであります。
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