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無銘性について

民藝では「無銘性」について云々あって、

例えばこんな

【「無銘性」=無名の職人によって作られ、名を上げるための仕事ではないこと】

民藝論の定義(?)のために、昔の民藝系の芸風の作家の作品は作品には銘を入れない、しかし自作を入れる箱の箱書きはする、なんて矛盾が起こってしまったようです。

しかし、私は民藝系の作家でも自分の作品に銘を入れても問題無いと考えます。

民藝のいくつかの宣言 自体、実際には柳宗悦自身が、それを絶対の教義みたいにはしていない わけですし・・・

実際、民藝の宣言を守っていたら創作活動がしにくいですし、矛盾が沢山出てくるので、元々民藝論云々よりは、柳宗悦の良しとしたモノの形式を踏襲したもの、後年で言えば「民藝館スタイル」の作風を持つものが民藝、という事に事実上なっていますね。別段、民藝の定義の全てをクリアしたものというのではありません。

ともかく、上記のような定義では無銘性に矛盾が起こってしまうのです。

現実的には、思想や宣言ではモノは無銘に至りません。

これは民藝に限らず、どの分野においても同じです。一般社会の摂理です。民藝も人為・人工のものですから、その定義から外れる事はありません。

どこかの誰かの作品が、世の中で広く深く愛され役に立ち、その影響を受けた人が沢山出て、それが伝承され、作者の手を離れてその作品の本質が社会の構造に組み込まれれば、その個性は公共化した事になり、その銘は自然に消えるのです。

だから、強烈な個人の創作性から産まれたもので、作者がその作品は自分のものだと強く主張しても、何も問題は無いのです。その価格が高くても安くても関係ありません。いわゆるファインアートであろうと、音楽であろうと、工芸作品であろうと、工業製品であろうと、スポーツであっても関係ありません。個人で作品として制作しようが、多人数での工房制作で製品として世に出そうが、関係ありません。

それは、体操競技のオリジナルな新技に完成させた人の名前が付くようなもので、そこに個人の名前は付きますが、その技自体は一般化し体操競技の公共物となるわけです。

その「名前」は社会的に公共化・一般化する事によって「個人の“名前から、ただの名称に変わる」のです。

そのような流れで成される事が、本質的で矛盾の無い「無銘性」だと私は考えます。

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