今回の読書記録は、一般社団法人Integral Vision & Practice代表理事である、鈴木規夫さんの最新刊『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』です。
私が本書の扱う『人・組織・社会の意識と構造』というテーマに出会ったきっかけは、『ティール組織(Reinventing Organizations)』という新しい組織運営・経営のコンセプトの探求・実践を継続してきていたことでした。
2016年に初めてこの概念に出会って以来、事例として紹介された組織運営システム『ホラクラシー(Holacracy)』にのめり込んだ私は、ヨーロッパにおけるホラクラシーの実践者との出会いや、ホラクラシー開発者ブライアン・ロバートソン氏の主催するトレーニングへの参加のためにオランダへ飛ぶなど、英語圏の方々とのコミュニケーションを通じ、そのエッセンスに触れることを大事にしてきました。
このほか、ティール組織的に運営されるドイツの学校の事例報告会の開催や、2019年の『ティール組織』著者フレデリック・ラルー氏来日企画にスタッフとして関わるなど、『人や組織のポテンシャルを発揮する、新たなパラダイムの哲学・方法論』として『ティール組織』の概念を広く国内に届けることに取り組んできました。
そのような道程を歩んでいた中、本書『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』に巡り会いました。
読み進める中でいくつも感動があったのですが、今回の読書記録は、それら全てを網羅的にまとめるのではなく、これまで私自身が辿ってきた探求のプロセスと、これまで読み進めてきた書籍の学びも踏まえて立体的にまとめていければと思います。
本記事の読み方について
今回の記事は35000字を超える長文です。これを一度に読むことが難しい、という方もいらっしゃるかもしれません。そんな方は、以下の前編・中編・後編と分けて読まれることをおすすめします。
ただ、今回の記事に含まれるテーマは、読み手によって様々な解釈もあり得るものです。
私自身、一読者としてこの本から何を読み取ろうとしたのか、については、おそらく以下の文章を通読される方が伝わりやすいかもしれません。
ご興味のある方は、どうぞお好きな形で読み進めていただければ幸いです。
それでは、私のバックグラウンドである『ティール組織』の探求・実践における発達段階についての位置付け、記述から見て参りましょう。
ティール組織(Reinventing Organizations)
『ティール組織』は原題を『Reinventing Organizatins(組織の再発明)』と言い、2014年にフレデリック・ラルー氏(Frederic Laloux)によって紹介された組織運営、経営に関する新たなコンセプトです。
書籍内においては、人類がこれまで辿ってきた進化の道筋とその過程で生まれてきた組織形態の説明と、現在、世界で現れつつある新しい組織形態『ティール組織』のエッセンスが3つのブレイクスルーとして紹介されています。
フレデリック・ラルー氏は世界中のユニークな企業の取り組みに関する調査を行うことよって、それらの組織に共通する先進的な企業のあり方・特徴を発見しました。それが、以下の3つです。
この3つをラルー氏は、現在、世界に現れつつある新たな組織運営のあり方に至るブレイクスルーであり、『ティール組織』と見ることができる組織の特徴として紹介しました。
国内におけるティール組織に関する調査・探求は、2016年に開催された『NEXT-STAGE WORLD: AN INTERNATIONAL GATHERING OF ORGANIZATION RE-INVENTORS』に遡ります。
ギリシャのロードス島で開催されたこの国際カンファレンスに日本人としていち早く参加していた嘉村賢州さん、吉原史郎さんの両名は、東京、京都で報告会を開催し、組織運営に関する新たな世界観である『Teal組織』について紹介しました。
その後、2018年に出版されたフレデリック・ラルー『ティール組織』は10万部を超えるベストセラーとなり、日本の人事部「HRアワード2018」では経営者賞を受賞しました。
2019年にはフレデリック・ラルー氏の来日イベントも開催され、『ティール組織』の国内への浸透はその後、ビジネス・経営における『パーパス』『パーパス経営』などのムーブメントの隆盛にも繋がりました。
フレデリック・ラルー氏は、書籍以外ではYouTubeの動画シリーズを公開しており、書籍で伝わりづらかった記述や現場での実践について紹介しています。
また、2023年現在。フレデリック・ラルー氏の賛同と国内の有志によってティール組織および進化型組織の情報ポータルサイト『ティール組織ラボ』がオープンしており、上記のビデオシリーズの情報をはじめ海外の最新の知見も毎月更新されています。
『ティール組織』における発達段階の位置づけ
組織モデルと意識の発達段階について、フレデリック・ラルー氏は『ティール組織』の中でこう述べています。
以上の認識を踏まえ、フレデリック・ラルーはケン・ウィルバーの『インテグラル理論』を引用しつつ、レッド(衝動型)からティール(進化型)までの5つの組織段階を、そのモデルが生まれてきた歴史的背景も踏まえて紹介しています。
5つの組織段階については、以下の記事や書籍の中でも解説されています。
ところで、『ティール組織』の中でフレデリック・ラルーは、上記のような5つの組織モデルの紹介の後、『ティール社会(進化型社会)』という、社会のあり方・モデルについても言及しています。
ただし、この『ティール社会』の構想については、『ティール組織』に興味関心を持った経営者の方々の間ではほとんど話題に上がることはなく、
私たちの組織は、どの段階にあたるだろうか?
如何に、私たちの組織はティール組織になっていくことができるだろうか?
という、問題提起の形で『ティール組織』というものが広がっているような印象を受けます。
このティール組織出版以降、インテグラル理論関連の書籍の出版が相次いだり、成人発達理論に関する注目度も上がったことは、疑いようがないように思えますが、他方で発達段階・成人発達理論に関する誤謬もまた、広まってしまった一面もあるのかもしれません。
少し長くなってしまいましたが、発達段階という概念との出会いと理解について、私の場合は『ティール組織』が入り口だったため、このような文脈の元にインテグラル理論や成人発達理論と向き合ってきました。
そのような文脈の中で出会ったのが、今回取り扱う『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』です。
では、上記のような(多分に私個人のバイアスの入ったものでもありますが)昨今の日本における発達理論の広がりを受けつつ、本書ではどのように発達段階や成人発達理論を認識していたのでしょうか。
ここからは、本書の構成、特徴を踏まえつつ、読み解いていきたいと思います。
現代社会が「成長」「発達」を希求する背景
そもそも、なぜ私たちは現在、これほどまでに「成長」や「能力を高めること」に価値を置くようになっているのでしょうか。
「はじめに」において、著者である鈴木氏はこのように述べています。
この辺りの表現や課題意識は、鈴木氏の以前の書籍『インテグラル・シンキング』でも述べられていた部分とオーバーラップしてきているように感じます。
この『インテグラル・シンキング』の帯にはこのようなセンテンスが書かれていました。
「現代人の試練とは、情報が不足していることではなく、情報が過剰にあることである。」
本書の目的及び、前提知識:インテグラル理論
現代社会が複雑性や変化に富み、数年先の未来も見渡せない状況になっているのに対し、これらを部分的・表層的に捉えるのではなく、全体的・統合的に捉えようとする思考の枠組や方向性が現れつつある、ということも同時に著者は述べています。
以上、成長や発達がなぜ、今日のように価値が置かれるようになったのか、という背景から、ケン・ウィルバーの『インテグラル理論』が有効な「思想=理論」である可能性が出てきました。
ここからは本書の目的へと続きます。
このような背景から、本書では『インテグラル理論』の関連書に目を通しておくことで、より本書の理解が深まるのではないかと著者は提案しています。
ほんの触りだけ『インテグラル理論』とはそもそも何なのか?について大胆にシンプルに紹介するとすれば、
『古代のシャーマンや賢者から今日の認知科学の知見まで人間の成長のあらゆる既知のシステムとモデルを活用している、意識・社会の発達に関して包括的に見ていくための理論であり、フレームワークであり、思想』
と、呼べる、かもしれません。
近年において、『インテグラル理論』の関連書が多く翻訳・出版されています。直接原著にあたっていただくことが一番望ましいですが、私が以前まとめた『インテグラル理論』関連書籍の読書記録も置いておきますので、よろしければ参考までにご覧ください。
発達志向型支援の発想と支援者に求められるもの
ここまで、人が成長すること、発達することという点について、ただ「知識」や「技術」を身につけるのではなく、その「知識」や「技術」を、この現代社会において、どこに、いつ、どのように運用していくかを判断する「自己」を変化・変容させていく重要性について見てきました。
そして、「自己」や「社会」を認識する上で、大きな枠組みを提供してくれる『インテグラル理論』についても見てきました。
では、こういった状況を踏まえながら、営利・非営利問わず対人支援を行う人々はどのようなあり方のもとで、人の成長や発達に寄り添っていくことが望ましいのでしょうか。
「発達志向型支援」そのものがどのような意識に基づいたものであるかは、以下のように紹介されています。
また、上記の「発達志向型支援の発想」を踏まえ、支援者自身はどのようなあり方が求められるのでしょうか。
支援者自身の人生への向き合い方について、鈴木氏はこう著しています。
さらに、支援者による発達理論の活用については、以下のように著されています。
以上を踏まえ、支援者自身の継続的な自己成長が求められるわけですが、ここで著者はウィルバーが提唱する「インテグラル・ライフ・プラクティス(Integral Life Practice : ILP)」を紹介してくれています。
先頃、経営や組織変革の領域で発達理論を応用した『ティール組織』においても、著者であるフレデリック・ラルーは以下のような言葉で、コーチ・コンサルタントといった支援者のあり方について述べています。
続いては、支援者としての発達の見立てや測定についての留意点を見ていきましょう。
発達段階の見立て、測定、暫定的な活用法について
先ほど、一般に流通する発達理論や発達段階を学んだがために、却って人間理解に関して単純化されてしまう危険性についても触れました。
では、この発達段階は技術的にはどのように扱われるべきなのでしょうか。
序章において、鈴木氏はこう述べています。
発達段階についての理解を深めることで、そのことがそのままそうした段階の意識や論理を体得できている証左となるかと言えば、必ずしもそうとは言えません。(水泳や武道の教本を丹念に読み込んでも、そのまま実践できるとは限らない)
私自身、そうした認識を持ちつつ発達理論には向き合ってきましたが、『感覚や直感に基づく発達段階の「測定」「判断」は厳に慎まなければならない』という表現には強いメッセージを感じるとともに、プロフェッショナルとして当たり前の倫理観・責任感を再確認するための警鐘のようにも受け取れました。
それでは、国内ではこういった専門的な検査機関は存在するのでしょうか?
なお、著者である鈴木氏の団体Integral Vision & Practiceは現在、海外の発達測定に関する案内及び、国内で発達段階測定を受けるための支援体制の準備を整えているとのことで、詳しくは以下のHPもご覧ください。
以上、見てきたように、国内における成人発達理論の普及及び、発達理論を活用した対人支援はまだまだ黎明期であり、支援者・クライアント双方の認識や理解はもちろん、制度的・組織的な支援体制も萌芽状態にある、と考えることができそうです。
日本語で手に入る情報に限界がある点からしても、より詳しく探求していくためには著者の言う西洋言語(主に英語)を用いて探求の旅路に飛び込んでいく他ないようです。
ここで、「測定」に関してさらに一段上の視座についても触れておきたいと思います。
いわば、「測定」そのものが内包する世界観。つまり、「その測定は何を善しとする世界観の上に成り立った基準なのか」という、「測定」そのものを疑う態度と呼べるかもしれません。
以上、導入としてはとても長くなりましたが、発達理論を対人支援において活用するとはどういうことか?という点について、一通り拾うことができたように思います。
ここからは、いよいよ本書が扱う発達段階およびその理論的背景、また、発達段階の誤用についても見ていきたいと思います。
本書の扱う発達段階と各段階における支援のあり方
さて、ここからはいよいよ本書が扱う発達段階そのものを取り扱っていければと思います。
まずは、以下の図をご覧ください。
こちらの図は、ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』からお借りしたものです。
なぜ今回、これらの図を引用させていただこうと考えたかと言えば……これらの図の一番左側。発達段階ごとの色のグラデーションが、本書『人が成長するとはどういうことか』の扱う発達段階および色分類に共通している部分が多かったためです。
図をご覧いただけばわかるように、発達段階を表すモデルと言っても、研究者や研究者の対象とする領域によって様々な表現が使われていること、ケン・ウィルバーはそれら様々な発達理論を統合的に捉えようとしていたことが見て取れます。
本書中で発達段階として扱う射程は、
発達段階ごとの色のグラデーションは、上記の図に沿っています。
さらに、
というように、個人として社会の価値・規範に適応し、ある共同体の一員になっている慣習的段階から見て、それ以前(pre)か、以降(post)かという三つの大きな段階をメタ的に設定しています。
また、支援者として、各段階のクライアントにどのような支援が必要になるのか、各段階の光と影、尊厳(dignity)と悲劇(disaster)、病理と可能性、価値と限界については、
以上の段階について扱っています。
それぞれの段階ごとの特徴その他を詳細については、あまりにも字数が多くなりすぎ煩雑になるため、この記事内では差し控えたいと思います。
ちなみに、フレデリック・ラルー『ティール組織』の中では、各組織の発達段階は以下のような形で紹介されています。
発達理論の誤用を回避する
ここで、「『ティール組織』における発達段階の位置づけ」でも言及した、発達理論の誤用の可能性について、本書ではどのような誤用が起こり得るのか、そしてそれに対してどんな向き合い方をしているのかについても、紹介しておきたいと思います。
発達理論をめぐる無数の「神話」の信奉
優生学的な発想
発達段階の、表層的な判断及び推察
いずれの誤用も、発達理論という優れた理論・モデルであるがゆえに、それを安易に適用してしまう誘惑に惑わされないこと、また、そもそもこうした自体が起こり得ることを知っているだけでも、結果は違ってくるのかもしれません。
では、そもそも発達とはどんなものなのでしょうか?どんなときに起こり得るのでしょうか?
そもそも、人間はなぜ発達するのか?
このような発達そのものに対する回答に関して、再びフレデリック・ラルーの『ティール組織』から引いてみましょう。
少し抽象的な表現で、具体的にはどんな時に起こるのか、イメージが付きにくいかもしれません。
本書『人が成長するとはどういうことか』においては、発達はどのように起こると表現されているのでしょうか。
上記の垂直的な成長とは、意識の構造(the structure of consciousness)がレッド→アンバー→オレンジ→グリーン→ティールというように、高次の段階に向けて垂直的に上がることであるのに対し、
水平的な成長とは、現在の発達段階の枠組みの中で、現在の発達段階における能力を最大限発揮するために能力を成長させることです。
この『やむにやまれず』という表現に実際に強調点が打たれている点や、『あくまでも人間に残される最後の道』という表現にあるように、垂直的な成長-意識の発達とは、人間にとって実存的な切迫感、危機感によって惹き起こされる側面があるようです。
では、この発達を促す人間の本性とはどういったものなのでしょうか?
そもそも発達という現象は、「なぜ」起こるのでしょうか?
そもそも人間は「なぜ」発達するのでしょうか?
われわれの発達を支える根源的な動機とはいかなるものなのでしょうか?
発達の動因は「死の拒絶」の衝動……。
こうしてみると、現在の世界観・発達段階では解決できないときに、やむにやまれず最後の選択肢として『発達』(垂直的な成長)が起こることが、少しずつイメージがつきやすくなってくるかもしれません。
後述しますが、後慣習的段階(現在の社会的・集団的な価値・規範を対象化していく段階)における発達段階について、鈴木氏はこのように述べています。
さらに、こうも著者は述べています。
だからこそでしょうか。発達のあり方や変容の速度については、このように著されています。
発達を、人と社会・自己と世界の関係から概観する
これまで、発達とは小さな死と再生のプロセスであること、支援者自身も自らの存在をかけて死と再生のプロセスに臨んできた重要性、また、そもそも人は死の拒絶を動因として発達が起こるという考え方を見てきました。
では、私たちがこの世界に生まれ、自己を確立し、社会で生きていくというときに、どのようなプロセスを辿るのでしょうか。
誕生直後の、自己と世界が分化(differentiate)されていない前慣習段階、個人として社会の価値・規範に適応し、ある共同体の一員になっている慣習的段階、社会の価値・規範を対象化していく後慣習的段階がありますが、まずは前慣習的段階{利己的段階(レッド)以前}から見てみましょう。
前慣習的段階
誕生直後の無防備な状態から、世界の脅威に対し、自己と世界を峻別する、そしてそのプロセスの中でイメージと言語を獲得する。概念と言語による構造理解により、過去から将来へと流れる法則性・規則性を身に着ける。結果として、衝動や欲求に従属することから脱却し、心理的存在として自律性(autonomy)を獲得する画期的な一歩を踏み出す。
おおよそ、そういったことが前慣習段階において起こるようです。
それでは、この段階を経た慣習的段階{順応型段階(アンバー)、前期合理性段階(アンバー/オレンジ)、後期合理性段階(オレンジ)}はどのような特徴を持つのでしょうか。
慣習的段階
言語を用いたコミュニケーションが確立され、両親をはじめとする共同体の権威的な存在からの指示・示唆・期待を内面化することができるようになると、人は、社会の期待する期待・規範の監視下において自己を律すると同時に、それらとの対決・対話を通してアイデンティティの確立へ踏み出していく。そして、自らに知らず知らずのうちに影響を与えている文化的・社会的要因を直視し、それらから自己を解放していこうとする格闘も徐々に始まっていく。
このようなプロセスを通して、家族、地域、学校、職場、国等、さまざまな文脈の中に成立するペルソナを自己と混同するのではなく、それら複数のペルソナ=「私」を自己の中に包容・統合していくことで、個としてのアイデンティティの確立が進んでいく。
こうしてまとめてみると、慣習的段階はとても高度な精神的・社会的・内省的な能力および活動が必要な段階であることが見て取れます。
では、後慣習的段階{前期ヴィジョン・ロジック段階(グリーン)、中期ヴィジョン・ロジック段階(ティール)、後期ヴィジョン・ロジック段階(ターコイズ)、スーパー・インテグラル段階(インディゴ)}においては、どのような発達を人は遂げていくことになるのでしょうか。
後慣習的段階
以上のように、後慣習的段階においては、慣習的段階において獲得し、適応してきた「自己」がある特定の文化的・時代的・社会的背景のもとに成立する文脈の上に成り立っていることに洞察が至り、そうしたものに呪縛されない真の自己を生きていくための探究が始まります。
また、途中、特定の文化的・時代的・社会的背景のもとに成立する文脈(ゲーム)という表現がありましたが、本書中、鈴木氏は映画「マトリックス」を事例に挙げ、このゲームというものについての示唆を与えてくれています。
「マトリックス」は20年以上前の映画ですが、今になってこのような示唆を伴って再び自分の目の前に現れることになるとは思っても見ませんでした。
さて、以上、前慣習的段階から慣習的段階、後慣習的段階によって獲得される叡智と苦悩といったものを見てきました。同時に、人の発達において自分の所属する家族、集団、国家、社会との関わり方もまた重要なポイントであることもわかってきました。
次は、高次の段階へ発達することによる社会的危機について見ていこうと思います。
高次の段階へ発達することによる社会的危機
ここまで、高次の発達段階に足を踏み入れることによって、「実存的危機」が惹起されることを見てきました。
時に、不意の「事故(アクシデント)」によって自分がこれまで描いていた人生設計や成功、幸福が脅かされたり、何より、自分が信じていたその成功や幸福というものが、実はある限定的な状況(特定の文化的・社会的文脈)のもとに成立する「虚構(フィクション)」であることが意識されてしまうことがあります。
しかし、それでもこの有限の生を生きていかなければなりません。そこから、個人としての実存的変容が始まっていきます。
と、ここまでは個人の内面における、いわば精神的な危機とも呼べるものですが、高次の段階に発達していくことは、同時に社会的危機、社会適応上の困難を生み出すことがあることを、本書では指摘しています。まず、能力の発揮については以下のような説明がなされてます。
発達を遂げることで、より高次の課題や問題に対処するために能力が最適化され、それ以前の能力は構成要素として簡素化されて継承される。その結果、既存の課題や問題に対処する能力が低下することもある。
これは、なかなか今まで目にしたことがない発想です。
上記の記述に続けて、著者の記述は後慣習段階に到達した人々の「社会適応」についてのテーマに移っていきます。
各発達段階には、それぞれを特徴づける「尊厳」(dignity)と「悲劇」(disaster)、つまり、過去の発達段階を超えて創発した新たな能力と、それゆえに過去において存在しなかったより深い苦悩や病理が存在すると言います。後慣習的段階の発想が時に「逸脱的」「無法者」("trans-law")と受け止められることがあるのも、そうしたものなのでしょう。そんな後慣習的段階の人々と社会のあり方について、鈴木氏はこんな風に述べています。
ここまで、後慣習的段階に限らず、私たちの一人ひとりの「自己」を規定する社会的・文化的文脈というものと発達の関係、各段階における「尊厳」と「悲劇」について見てきましたが、それでは、今日の社会とはどのような性質を持っており、それが各個人の発達にどのように影響を与えているのでしょうか?
以降、見ていきたいと思います。
健全な発達を阻害するフラットランド≒現代社会
いよいよ、本書の読書記録も終わりに近づいてきました。
先の章で立てた問い、すなわち、今日の社会とはどのような性質を持っており、それが各個人の発達にどのように影響を与えているのか?について、本書においてはどのように捉えているのでしょうか?
まず、社会の在り方と発達の関連、発達理論の果たす役割について、鈴木氏は以下のようにまとめてくれています。
続いて、私たちがどの発達段階に生きているのであれ、最も警戒すべき社会的な病理「フラットランド」について見ていきましょう。
どこかで聞き覚えのある言説も、もしかしたら見られるかもしれません。では、具体的にフラットランドの進行とはどのような状況を指すのでしょうか?
このように見ていくと、現在、私たちが当たり前のようにように享受している「豊かさ」の概念もまた、ある特定の文化的・社会的背景の条件のもとで成り立つ相対的なものなのかもしれませんね。
最後、このフラットランドという病理が進行する世界で、私たちはどのように世界に向き合って生きていけば良いのか?についての探求を深めていきたいと思います。
発達理論の視座を得て、いかに社会と向き合うか?
あらゆる価値が量的な価値・経済的な価値に基づいて判断されるフラットランドという、現在も進行している社会の病理について先の章では見てきました。
では、これまで見てきた発達理論の提供してくれる視座、私たちが警戒すべきフラットランドという病理という現象を見てきた私たちは、これを以てどのように社会に向き合っていくことができるのでしょうか?
鈴木氏は、フラットランドにおいて優先される量的価値・数的価値だけではなく質的な価値が存在することを見ていくこと、フラットランドを乗り越えていく存在が社会の豊かさにとって必要であること、現在維持されている社会、集団、人間関係、自己がどのようなシステムのもとに成り立っており、また、そのシステムはどのような意図のもとに形作られ、維持されているのか?を見ることによる「尊厳」と「悲劇」等について、私たち読者に語りかけてきました。
この記事にまとめ、本文中から抽出した文章は、私の現時点の興味関心や理解をもとに書籍から一部を切り出したものであり、著者の伝えんとするメッセージをどれだけ受け止められているか、わかりません。
また、著者の鈴木氏もまた対象化した場合に、もっと社会や人の発達に関して違った意見・見方も出てくるのかもしれません。
ただ、ここまで読み終えて自分なりに確からしいと感じることは、
ということです。
以上の気づきを大事にしながら、私は今後も自然、組織、社会と関わり、自分の子どもや孫世代を見据えた選択や行動をしていきたいと思います。
さて、以上までこの『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』の長大な読書記録を最後まで読み進めてくださり、ありがとうございました。
ここまで読んでくださった皆さんは、この記事から何を感じ取られましたか?
もし、本を既に手に取り、読み進め始めていた方は、どこか心惹かれた部分が共通していたり、あるいは違っていた箇所はあったでしょうか?
何か心を、魂を揺さぶるような感覚をどこかで感じられたのなら、ぜひその箇所について、それに至った背景について、お話できると嬉しいです。
最後に
もう既に本書を持っている方で、白い帯を外された方は、この西洋画の存在に気づかれたでしょうか?
拳を振りかぶって人に殴りかかり、下方へ叩き落とそうとしている人や、まるで赦しを乞うように身体を縮めている人もいるようです。
調べてみると、どうやらこの西洋画は、ミケランジェロの『最後の審判』の一部のようです。
『最後の審判』とはキリスト教において、イエスが天国へ行く者、地獄へ墜ちる者の審判を下す場面の描写です。
本書のカバーにデザインされた箇所は、『最後の審判』の右側。地獄へ堕ちる者たちと、縋ろうとする者たちを振り解こうとする天使を描いた部分です。
『なぜ、最後の審判の一部なのだろうか?』
『最後の審判は、どのような比喩(メタファ)なのだろうか?』
『本書において、天使とは何者か?罪人とは何者を指すのだろうか?』
『私たちの世界において、「審判を下すイエス」にあたる存在とは何か?』
疑問が溢れて仕方ありませんが、芸術の観賞ということについて、本書中でもこのように触れています。
現時点、私自身の『最後の審判』に対する解釈はありますが、もしかしたら今後もさらに見え方が変わる、ということもあるかもしれません。
そして、このモノの見え方というのは『最後の審判』にしろ、組織の問題の見方にしろ、社会のあり方にしろ、人によって異なるものでもあるようです。
この『最後の審判』の解釈・評価に限らず、自分の世界を広げてくれるかもしれない誰かと出会った時、こんな問いを持ちながら話し合っていくのも面白そうだな、と思います。
さらなる探求のための関連リンク
対談レポート:成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋とは〜加藤洋平氏×鈴木規夫氏による新刊記念セミナー
レポート:ティール組織や進化型組織の情報ポータルサイト誕生!~組織の再発明をしよう【『ティール組織ラボ』公開記念トーク】
成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋
Ken Wilber『The Integral Vision: A Very Short Introduction to the Revolutionary Integral Approach to Life, God, the Universe, and Everything』