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瑠璃空に愛を。 ③

【癒空、21歳初春ー続ー】

私は結局2日入院して、家に一番近い救急救命から退院した。
鈴原さんは最後まで私を気にかけてくれて、玄関口まで見送ってくれた。

「辛いだろうけれど死なないで欲しい」

私はゆっくり頷いた。少なくとも当分はもう、やらかさないだろうから。

今日は、臨時受診の日だ。救命がかかりつけに連絡したところ、退院する日にこちらに臨時受診をしてくださいとの事だった。

主治医は何と言うだろうか。泉さんは?
考えたくなくて、けれど母親が運転する車の中で頭に浮かぶのはそればかり。

そうこうするうちに、遠いはずの病院にいつの間にか着いていた。母親に促されて、とぼとぼと外来で受付をする。
すぐに呼ばれた。

「はい、こんにちは....…」

「こんにちは...…」

小さく呟いた声は、自分の声なのに自分でさえ聞き取りにくかった。

「あちらからお話は聞いています。自殺しようとしたんだよね」

「..........…」

「叶さん、相当苦しかったんだと思います。今回の自殺未遂、正直僕も予想外でした」

母親が頷く。

「叶さん、次に死にたくなった時、ちゃんと助けを求めてくれる?」

何をバカな事をこの人は聞いているのだろう。私はぼんやりと先生の目を見つめ返した。
頭の良いはずの人が、一体何を思って私が頷くと思っているのだろう。

「いいえ?...…しません」

「しないか」

苦笑した先生が、両親に言う。

「少し叶さんと話してもよろしいですか」

両親が席を外した。いつも通りの、2人だけの空間。診察室という名の部屋に、彼と私の息だけが聞こえた。

「よほど辛かったんだね、愛されなかった事が」

「.........…、」

そうだよ。辛かった。でもそれは、その何文字かで片付けられるようなものじゃない。あなたには一生分かりなどしない。いつ殺されるかと背後に気をつけて生きる絶望と恐怖に満ちた、日々。

あなたはそんな日を1日でも過ごしたの?

彼とよく話すようになって初めて湧いてきた反抗的な気持ちを悟られないように、私は曖昧な笑みを浮かべて首を傾げてみせた。

「今、何か言っておきたい事はある?」

言いたい事?山ほどあるのに、なのに私の口は頑として開かない。
でも本当はあなたに叫びたい。両親に怒鳴りたい。

分かってよ。私の気持ち、全部。
けれど人間はエスパーでもない限り、相手の気持ちなど完璧には少なくとも分かりはしない。

特に人の気持ちに鈍感な彼には、難しいだろう。
それが分かっているから、私は今まで彼にはそういう事は求めずにきた。我慢、した。
時たま何か頓珍漢な事を言う彼を、苦笑しつつ受け止めた。良いんだよ、そのままのあなたで、と。

けれど、今は出来ない。そんな余裕はない。ふざけないでよ、一体私がどれだけあなたを許容してきたか。

あなたのデリカシーのない無自覚な言葉に傷ついてでも、あなたを主治医として認めていたのは私だよ。患者は主治医を選べない。逆も然りだ。
だからこそお互い歩み寄る精神が大事なのだ。

精神科医を好んで選んだ彼は、けれどそれだけは、やる意味を見出せないらしかった。
淡々粛々と、自分の診察のスタイルをどの患者にも貫いてぶつけて、自分を認めてもらっている。

今までそれで上手くいっているのが奇跡だと言っていい。

「家に帰りたく、ない」

色んな感情が渦巻いた数秒後、言えたのはそれだけだった。

「じゃあ、入院しようか」

彼は分かっていたように、すんなりと入院と言った。

「すみません、叶さん入院で」

背後のドアを開けて、受付の看護師にそう言うのを、考えるのに疲れた頭でぼーっと思考をめぐらせた。
確か、閉鎖病棟って言うんだっけ。こういう精神科の病院に入院する場所って。オーバードーズする時に、「閉鎖病棟に入院しました」とか言うブログを幾つか見かけたから。

今の私は、彼等と同じような経験をしていくのだろう。そうして似たようなブログを書けるような経験をした上で退院してゆく。

だからどうなると言うのか。
入院するともしたいとも言っていないが、だけれど拒否もしていないのだから、心の底で家に帰りたくないと、何も知らない場所に臆病な自分が自ら、流されながらも行くほど家が今は辛いのだ。

誰も私の事を何も知らない場所で、何も考えなくていい場所で。
だれもかれも私を放っておいて欲しい。

昨日、母親は一緒に寝ると言って聞かなかった。正直、鬱陶しかった。
娘がオーバードーズした後の真っ当な親の反応としては、何をやらかすか分からないという恐怖を植え付けられて1人にしておくという選択肢は無かったのだろう。

それを自分の母親がやる事が可笑しかった。
散々私をあの子を傷つけ、最後には捨てたあなたが。今度は私を、守ろうと必死になっている。

ひどく滑稽で、ひどく残酷で綺麗な光景だった。

皮肉にも今、私が自ら命を絶って、母と子の繋がりを切ろうとした今になってやっと母親は私の「母」になろうとしている。

嗚呼。疲れた。

ため息をつく前に、主治医が新たに背後に来た看護師と喋り、看護師が診察室へ入ってきた。

「行きましょうか、叶さん」

慣れたように話しかけてくる看護師に頷きもせず、私はゆっくり立ち上がった。何もかもが億劫で、ただひたすら眠っていたかった。

「はい.....…」

「叶さん、僕また月曜に診察に行くから」

診察室を出ようとしていた私の背後に、主治医が声を投げかける。

月曜。あと2日後か。

「そう、ですか」

だから何だと言うのか。それをわざわざ言う意味が分からなくて、淡白な返事をしてしまったが、彼はきっと気になどしていない。

歩き慣れた外来の待合ホールを抜けて、エレベーターホールへと連れられるまま、足を進める。ここまで来るのは初めてで、ここまで来たらもう引き返せない。

「怖い?」

前を無言で向いてエレベーターを待っていた看護師が振り返って問うてくる。反射的にビクッとして、それから私は分からない、と呟いた。

何もかも、私自身の事はいつになっても分からない事だらけだ。何がしたいのか、どうしたいのか、どうなりたいのか、何を感じているのかさえあやふやで。

分からない。分からないよ、先生。

先生?
自分で自分に驚く。

あの人に聞いて何が返ってくる。でも、それでも頭に浮かぶのはやはり、この1年少しでそれなりに慣れ親しんだ主治医の顔だった。

「疲れちゃったんだね。今は休もうね」

休んで。それがどれだけ難しい事なのか、あなたには分かるのだろうか。
看護師の名前すら見る気力が浮かばないまま、私は名前も知らない看護師に連れられて3階までエレベーターで上がった。

看護師が胸の名刺カードをガラスのドア手前の何かにかざした。カチャン、と軽くはない音が響きロック解錠音が響く。そうか。閉鎖というからには、鍵が。

非日常すぎる光景に一瞬だけ意識が現実に引き戻されて、けれどすぐにまた沼の底に沈んでいった。


「先ほど、水澄先生から入院させると連絡が行ってる叶さんですがーーーーはい、はい、そうです」

ナースステーションと明記してある、病棟内でも一際LEDライトが明るい場所で窓越しに、看護師が別の看護師と話している。
それを横目に私は初めて来た場所に何も思わないまま、その場にただ突っ立っていた。

むしろ動きがあるのは、病棟に入院してるらしき患者さん達の方だった。そわそわ、こちらの様子を伺っては視線が飛んでくるのが良く分かる。私は昔から人の視線にだけは無駄に敏感だ。

「ではよろしくお願いします」

話がついたらしく、私を連れてきた看護師が私にもう一度、ゆっくり休んでねと言い残して病棟を出て行った。

「こんにちは、叶さん」

男性の看護師が覗き込んでくるのが見えた。ふわり、香る白檀の香り。私は嗅覚が特に鋭いから、すぐに気づいた。
お寺が好きなのだろうか。

「とりあえずお部屋行こうか」

何も聞こうとせず、ただ彼は私を部屋へと案内した。4人部屋、初夏の光が細長い窓から漏れていてそれなりに明るかった。

「奥の左のベッドが空いてるからそこが叶さんの所ね。荷物.....は後でご両親が持ってくるのかな」

「分かり、ません。うち遠いので、」

「なら後で僕から、当面必要な物を連絡しておくね」

「お願いします....…すみません」

謝る事ないよ、と彼は柔らかく笑った。柔らかく、と言えば聞こえはいいが、なんというか、何かを深層に隠した上での笑顔だった。少なくとも私の目にはそう映った。

藤宮、とネームプレートにあった。トウグウ、かフジミヤ、か。どちらでも和風な名前だと何故か脳裏に残った。


【癒空、21歳初夏ー続ー】

退院の話が出たのは、梅雨時だった。5月上旬に入院したはずだから、既に1ヶ月弱は経ったという事だ。

入院生活は色々と苦しかった。

まず、気配に敏感な私は他人が一緒に居る部屋では到底眠れなかった。1ヶ月毎日、どれほど眠剤と追加眠剤の量を増やしてもらっても、不眠が続いていた。
狭い病棟内に人口密度が高いのも、しんどい理由だった。どこにいても誰かしらに見られている。
かと言って部屋に閉じこもっていても、家のように独り言が呟けるわけでもなく、かと言って持ってきてもらった本を読めるような状態でもなく。1日がこんなバカみたいに長いとは、思わなかったとため息を何度も飲み込んだ。

そんな中で、一番私を気にかけてくれたのは藤宮さんだったと思う。何故私に構うの、と聞いたら彼は叶さんは俺と近い領域に居ると思ったから、と返ってきた。
そう、彼は一人称をどうも使い分けているようで、最初は僕と言っていたのが、日が経ってくだらない話をするようになるにつれて俺、に変わった。

ああそうか。この人のあの柔らかい、けれどどこか押し殺したような笑顔に抱いた違和感はそういう違和感だったんだとその時、理解した。

似たような経験をした者同士、お互い詳しくは語らなかったけれど(カルテで私の話は筒抜けだが)、思考はよく似ていた。
同情や哀れみ、憐憫など許せない。吐き捨てた私に彼も頷いた。そんなのは、他人が上から目線で自分でなくて良かったと、心のどこかで安堵しつつ、慰める自分に酔ってする行動だと。幸せしか知らない人間の自己満足に過ぎないのだ、それは。

「叶さんは人をよく見てる。それによく見える心の目を持っていると思うけどね」

「そう、かな」

「相手にどう対応するか、どんな言葉をかけるのが相手にとって最善か瞬時に考えてる。疲れるでしょう」

そうね、と苦笑する。人間関係諸々、私が調和を得意とするタイプの反面、疲労感も比例して増す。

「だろうね。俺はやりたくない、そんな事」

あけすけにそう言う彼に、私は空気を読む事でしか生きてきてませんからと返す。別に嫌味ではない。

彼は可笑しそうに笑い声を上げた。

「そうだね、そうだと思うよ。俺が今まで見てきた誰よりも空気を読むのが上手だから」

「ありがたくない褒め言葉ですねぇ」

おどけると、彼はまた楽しそうに笑った。
ナースステーションの窓越しに会話する時間だけは、不眠の辛さも忘れられた。

退院は4週目の土曜日、ちょうど入院して1ヶ月を迎える日と今週の面談で決まった。

私は、純粋に嬉しかった。また、普通の世界に戻れる自分で良かった、と心から嬉しく思った。
決して快適ではない入院生活ともやっとおさらばだと。

だけれど、私は。ねぇ先生。

私は本当に、病気だったみたいだった。





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