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涙の代わりに飲み干してた缶ビールを喜びに変えようじゃあないの

いつかの旅行帰り、座った新幹線が3人席だった。
私と夫と、窓際には出張帰りのような方。

旅の余韻に浸りながらあれが美味しかったこれが面白かったと話していると、出発から程なくして隣の方に声をかけられた。
「あのすみません」
「はい、どうされました?」
するとその方はスッ、と懐から買ったばかりであろうご当地缶ビールを出して一言。

「これ、やらしてもらっていいですか。」

あまりにキッパリとした潔さ!
私も夫も最高の気持ちになってしまった。
思わず笑顔で「どうぞ〜!」としか言えない。
結局その方は黙々と美味しそうに窓の外を見ながらビールを三缶平らげていらした。
旅慣れてるっ!あまりにも旅慣れてるっ…
全然何も言わずに飲み始めても良いものだと思うけれど、ウィットに富んだ決意を聞かされて我々もめっちゃ気分よかった。
旅の思い出として刻まれた出来事である。

以前お店のビール礼賛をガッツリ書いたが、缶ビールも大好きだ。特に、ちょっといいビール、例えば単純に上位モデル的なビールやクラフトビールみたいなやつとか珍しいビールとか、それこそご当地ビールとかたまらない。

作り手の方の趣味嗜好をひと缶に詰め込んで、それをダイレクトに味わえる感じが好きだ。缶にある、いい意味でのインスタント感、あれがそのまんま演出になる感じ。やや少なめの適量、次はお店で飲みたいとちよっぴり思いつつも今この場には十分最高な彩りだなぁと思うあの感じ、あれが好きである。そもそも本来こんなに美味しいものを自宅のテーブルや新幹線や飛行機や海辺で飲めること自体ふしきだ。1人でも2人でもみんなでもどこでもおいしい。場違いな喜びをくれる。プシュッと缶を開ける瞬間すらも楽しい。缶ビールは偉大。偉大。

ただ、今でこそ缶ビールは場違いな喜びでいてくれるが、20代の初めのころの私にとっては明るい飲み物ではなかった。

例えば、就活中は缶ビールをかならずひとつ寝る前に煽らないと眠れなかった。最初はやけっぱちで飲んだらぐっすり眠れて、頼ってしまうようになったのだ。ルーティンというかおまじないというか、呪いというか…美味しいのだけど寝る前の儀式みたいになってしまっていた。そんなに多い量でなかったとはいえ、就活が終わったとたんビールなしでも眠れるようになったから、やっぱり私にとってはそういうことなのかもしれない。

もう一つ、覚えているものがある。
理不尽な激務の末に深夜帰宅が続いた最終日、ほんとうに無意識で駅前のコンビニに行き、ビールを買い、店を出てそのまま一気に平らげて空き缶を駅のゴミ箱に捨てたことがあった。味わうとかご褒美とかじゃ全然じゃなくて、泣く代わりに飲んだんだとその時は思った。普段だったら絶対しないのに、と自分でも少しびっくりしながら、ふわりとした頭で帰りの電車でちょっとしょんぼりしていた。何がしょんぼりって、大好きで美味しいものであるビールを、なんだか自傷みたいな味わい方をしてしまったことである。ごめんねビール,ごめんね私、という気持ちになりながら帰った。

でも今ならきっと「涙の代わり」とは思わない。
それこそ「場違いな喜び」である。
悲しかったり疲れてたりしてどうしようもないときなのに、缶ビールがくれるのは喜びなのだ。
落ち込んでる時に散歩をねだってきてくれる元気いっぱいで可愛いわんちゃんみたいな感じというか、辛くて仕方ない時に寄り添って温もりをくれるねこちゃんみたいな感じというか…絵面がふらふらの大人と缶ビールみたいな荒れたやつであろうが、そういう類の優しさは確かにそこにあったのだと思う。

ここ数年は仕事も休みもすこぶる元気なので、缶ビールはただただ楽しい飲み物だ。最近はプシュッと缶を開けて喜びに出会うとき、やらしてもらっていいですか、とつい呟いてしまうのも楽しい。

缶ビール、大好き。

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