よたよた

効率と寄り道とをごちゃまぜにして生きていたいと思いつつ、現実は理屈と感性のはざまでもみ…

よたよた

効率と寄り道とをごちゃまぜにして生きていたいと思いつつ、現実は理屈と感性のはざまでもみくちゃになりながら生きています。 暖かい場所とかつながりに溶け込める、つくれる人になりたい。とりとめのない話の中にある大切にしているものに気づける人でいたい。

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  • 感度の高い生き方を維持していくために

    いわゆる”世間一般”より他人や周りの雰囲気の影響を気にしやすい=「感度が高い」人間の一人として、その良さを維持しつつ、その感度の高さが維持しにくいところでどうふるまっていくかについて、考えたりしたことを書いていきたい。 本当は心の生き写しみたいな感性をそのまま映したようなことも書いてみたいけど、きっと理屈っぽい文章が多いと思います。

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「対話のある場所」にあつまるひとが居心地のいい人ばかりなわけ

プライベートでカフェとか、あるいはいろんなあつまりとかに遊びに行き(最近はほとんどオンライン)色々話す。 そんななかでも居心地の良さを感じて、何回も行ったり何年も関わっている場所がある。どこも、場所として居心地がいいし、そこに来る人たちも話していて居心地がいい人ばかりだ。 かかわっている居場所たちには共通点がある。どこも「対話がある」ということだ。 なぜ「対話がある」場所には居心地のいいひとたちがあつまるのだろうか、対話をする前提から考えてみた。 1.自分がわかってい

    • iPod touch初期化時PCから認識しない

      家にあったipod touchを初期化しようとしてリカバリーモードにしたらiTune(windows 11 PCにインストール)側から認識されなかった。 デバイスマネージャを見たところドライバが当たっていなかったことが判明。windows アップデートにてドライバーを適用し無事認識された。 普段接続していないデバイス(PC)なのでドライバが入っていなかった。 以下はドライバ適用後の状態。備忘録として記録する。

      • 「本当にやりたいこと」よりも「やっていて気がおかしくならないこと」を探してみる、という視点

        「本当にやりたいこと」と思っていたことは… ストレスがかかってないときにはやる気がないが仕事したりなど外部ストレスがかかるとやりたくなるようなことは果たして「本当にやりたいこと」なのか。私にはこういう類の「本当にやりたいと思っていたこと」がいくつかある。 本当にやりたいと思っていると感じているその内容は「やることが望ましいと社会が判断していること」だったり「誰かから手っ取り早く承認をもらえそうな類の自分の得意なこと」だったりするかもしれない。 「本当にやりたい」という感覚

        • 自己肯定感「だけ」を高めようとしすぎない

          自己肯定感だけを高めるアプローチは「自己肯定感あげたらめっちゃ変わった、めっちゃ効いた!」「自己肯定感しか現状を変えるためにすがるものが残されていない!」「自己肯定感を上げること自体が楽しみだ、生きがいだ」「自己肯定感を上げてみたらどういう視座が得られるのか検討したい」というような明確な理由がない場合以外にはやみくも追求しないほうがいいかもしれないと思っている。 自分自身は結構高校時代~大学時代あたりに呪いのように「自己肯定感がたらない」という視点に悩まされた。具体的に言え

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        • 感度の高い生き方を維持していくために
          9本

        記事

          logicool G300sマウス断線修理

          メインPCにて使っているマウス(G300s)が不調となったため修理した。 注意事項 この手の記事を読んでやってみようという方ならわかってはいると思いますが記載しておきます。 ・本記事は電子機器の改造、分解、修理作業について扱います。不慣れな方や電子回路に慣れてない方が実施すると思わぬ事故やケガなどが生じる恐れがあります。 ・本記事はマウスの製造元やその他一切の会社と関連はありません。本記事に関してマウス製造元その他企業へのお問い合わせはご遠慮ください ・本記事を参考にして

          logicool G300sマウス断線修理

          自分の感覚を偽らずに生きるには持続的劣等感を感じないようにすればよい、持続的劣等感を感じないように生きるには勝てないゲームをとにかく降りるというのが重要だろう

          自分の感覚を偽らずに生きるには持続的劣等感を感じないようにすればよい、持続的劣等感を感じないように生きるには勝てないゲームをとにかく降りるというのが重要だろう

          最近のつぶやきから

          日記の書き方を変える これまでは「自分のここはこういう点があるからこう直そう」という修正記録、修正指摘ばかり日記に書いていたけど、これからはそうじゃなく「自分のここがよい」「ここは思ったよりできている」という項目を修正記録、指摘と同じだけ挙げるという日記の書き方にしていこうと思う。 前者ばかりだと自分に対して批判的に、自分の行動が慎重になっていく。 これからはあくまで自分に対してもニュートラルでいたい。 誰かに話す行為はやっぱり自分を見つめる行為であり続けるようだ。

          最近のつぶやきから

          自己肯定感を考えるー成功体験の決定の仕方について思うこと

          自己肯定感について考える、自己肯定感を使うことになんか違う感じがする、自己肯定感という言葉自体がいまいち引っかかる。 そんな風な感覚が生まれる理由についていくつか分析ができたので記す。 今回は自己肯定感のためによく必要といわれる「成功体験」についてだ。 内容の要旨 自己肯定感確保のための「成功体験」は行動に移しにくく自分の価値観を無視した「ありがちな成功体験願望」になりがちである。これを無理なくできる形にしたり、自分の価値観を参照にしたり、とらえ方の変化・変容を受け入れて

          自己肯定感を考えるー成功体験の決定の仕方について思うこと

          「身近な物語」の豊かさとシビアさ

          「未来に対する漠然とした希望とかこれから世の中が大きく良くなっていく」とかそういう大きな物語は説得力を失っている。未来はかなり不確定性が強くなっている。あるいはよくなるかならないのか不安定な状況である。 手がかりがあまりにも乏しい不確実性の高い未来に対して興奮するのは変t…ないし未知なるものに対する探求心満ち溢れた人のみである。 そんなわけで、多くの人にとって大きな物語を信じるのはあまり希望を持てるものでなくなってきている。 その中で逆にいつもかかわっている人とのかかわり

          「身近な物語」の豊かさとシビアさ

          ログイン関係でうまくいかなくなってしまったのとなんとなく施行することがつかれていたのでずっと放置していたけど久しぶりにログインしました。また何か書いていこう

          ログイン関係でうまくいかなくなってしまったのとなんとなく施行することがつかれていたのでずっと放置していたけど久しぶりにログインしました。また何か書いていこう

          権力関係だとそもそもかかわりを大切にできないのでは

          権力関係において感情を向けられるのがマジで嫌すぎる。許すまじ。と思いながら考えていたら権力関係とかかわりの話に行き着いた。 ●権力関係における居心地の悪さ 権力関係におけるかかわりの居心地の悪さは、自分の考えを伝えられない、伝えてもよく理解されないまま理解され議論にならない、自分の嫌いな感情を向けられたときに拒否できない、あるいは軽視されるというような居心地の悪さである。 居心地の悪さの原因 ●権力が多い側 相手を軽視しても権力関係であればかかわりはなくならない、ここ重要

          権力関係だとそもそもかかわりを大切にできないのでは

          今年やちょっと前までを気の向くまま振り返る

          気の向くままに振り返ってみる。 テーマ:てばなし 今年の大きなテーマだった。手放すこと。私と何度か会っている人は私が今年よく「てばなし、てばなし」とぶつぶつ言っていたことを覚えているかもしれない。 抑うつのもたらした視点 抑うつはいろいろなことをできなくする。また、回復しようとする試みはほとんど即座に打ち砕かれる。活動しようとするエネルギーや意欲は瞬間的に発生するが短くて一瞬、長くても数時間程度でなくなる時期もあった。 (まぁこれはこれで調子が悪くなり始めたころからいろい

          今年やちょっと前までを気の向くまま振り返る

          きょうの自己

          悲しみを見つけた、しかしわたしのこころにはそれがはまる隙間がなかった。その事実はわずかな軌跡を残して自己の深淵の中に再びとけこんでしまった。 せっかく見つけた事実をまた自分の不甲斐なさによって取り逃すというのか。 誰かにこのつらさを吐き出してしまいたい機運がある。だけど友達の心を自分の心から噴き出た濁った鮮血で汚したいとは思わない。この濁りは誰かに開示するには度を越えているように思う。 気持ちの生まれ方を考えれば「なぜこんな気持ちにならなければいけないのか」という問いは不毛

          きょうの自己

          感度が低い状態でも自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出す(自分を無視しない)ためにやっていたこと

          自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出すにはまず一つに、感性を研ぎ澄ます、敏感になる、そしてそのために自分自身を見つめる、あるいは誰かと話して他人を通して自分のそれらの感覚と触れ合う、というやり方があると思う。 これらのやり方には次の条件が必要だ。 1.敏感で研ぎ澄まされた感覚の維持 2.(外部のノイズを減らし)自分自身と向き合う環境と時間を設ける、そのための気力、余力がある。 これができる環境にいるなら問題ない。このアプローチが自分の中の無自覚な感覚や感情を見つけ出すやり方

          感度が低い状態でも自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出す(自分を無視しない)ためにやっていたこと

          情報を集められても答えを自分で選ぶ覚悟はいる

          知識も視点も求めれば得られるが答えを外にいくら求めても得られない。ということを最近よく実感している。知識の集め方、人への相談の仕方、そこからの思考、この3要素に関しては自分なりにある程度習熟してきたけど、そのあとにくる、「答えを選ぶ」ことはまだまだ慣れていないなぁという感じがする。 結局最後に答えを選ぶときには、「完全にこれ」という形ですんなり選べることは少なくなかなか判断が微妙な時が多い。そういう中で選ぼうとするといろいろな気持ちや揺らぎが出てきて、戸惑う時もある。だけど

          情報を集められても答えを自分で選ぶ覚悟はいる

          「当たり前」の立場と「自分で考える」立場の溝

          「当たり前」の立場で生きる人間と、「自分で考える」立場で生きる人間の相違点について、考えてみる。 思考のためにここでは完全に「当たり前」の立場で生きる人間と完全に「自分で考える」立場で生きる人間の2つに区分して思考してみる(実際には完全に分けられるものではなくそれぞれのバランスで「当たり前」の立場、「自分で考える」立場が一人の人間の中に混在していると思う)。 2つの立場の対称性 当たり前に合わせて生きてきた人にとって「自分で考える」という行為は、当たり前と自分とのずれを洗い

          「当たり前」の立場と「自分で考える」立場の溝