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感度が低い状態でも自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出す(自分を無視しない)ためにやっていたこと

自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出すにはまず一つに、感性を研ぎ澄ます、敏感になる、そしてそのために自分自身を見つめる、あるいは誰かと話して他人を通して自分のそれらの感覚と触れ合う、というやり方があると思う。
これらのやり方には次の条件が必要だ。

1.敏感で研ぎ澄まされた感覚の維持
2.(外部のノイズを減らし)自分自身と向き合う環境と時間を設ける、そのための気力、余力がある。

これができる環境にいるなら問題ない。このアプローチが自分の中の無自覚な感覚や感情を見つけ出すやり方としては正攻法だろうし無理もない気がする。私も基本的にはこれで生きてきた。
しかし、次のような阻害要因で私は上記の2つの条件を維持できなくなってしまった。

・敏感さを脅かす強い外部圧力、刺激
だが、世の中には敏感さや繊細さに対して打撃を与えてくる類のヒト、モノ、環境があきれるほどに存在し、またあらゆる効率化や高速化の圧や空気感が「自分と向き合う時間」を「自分と向き合わない時間」に転換しようとしてくる。

・人間のサボりたさ

人間という生き物は案外さぼりたがりであり、生存のためのエネルギーを効率よくするために面倒を避けがちである。このためになかなかに強い意志を持たないと、あるいは敏感な感覚からくる強烈な「自分の声を聴いてほしい」という気持ちがないと「自分と十分向き合う時間を作る」というのは難しい。

・圧倒的な悲しみや苦しみとの遭遇
敏感さや繊細さに対してあまりにも強いような、飲み込まれてしまうほどの悲しみや苦しみ、あるいは圧倒されてしまうほどの悲しみや苦しみが生じたとき「敏感で研ぎ澄まされた感覚の維持」をするのはとてもとてもとてもつらいことだ。それに飲まれて自分自身が、生活が、かかわりが、ぐちゃぐちゃになってしまうかもしれない。そのために破綻してしまわないように感覚が鈍るかもしれない。

これらの阻害要因のため、自分自身と向き合うことをあきら目ざるを得なかった。しかしこれらは自分自身から目をそらす行為であり、最終的にこれはこれで苦しくなった。従来通りのやり方ではできない、どうすればよいのかいろいろ悩んだ。まとめると以下のようになる。

・敏感で研ぎ澄まされた感覚の維持=不可能
敏感さや研ぎ澄まされた感覚のままではでは耐えられないような悲しみや苦しみに対しては感度を鈍らせるしかないから
→必要なこと:感覚になるべく依存しない自分自身の気持ちの見つけ方

・自分自身と向き合う環境と時間を設ける=不可能
気力が足らないから
→必要なこと:省エネルギーで自分自身の気持ちを把握するやり方

つまり、敏感さ、感度を下げながら、省エネルギーで自分自身の無自覚な感覚や感情を見つめ続ける(自分を無視しない)ためのやり方が必要だった。

論理的矛盾点から自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出す

で、結局どうなっていったかというと、論理的矛盾点から自分の無自覚な感覚や感情を見つけ出し、そこに自分の大切にしたいものが埋まっているらしいという認識だけするをしておくという形にだんだん落ち着いていった。

具体的に言うと、「食べたいのに食べてない」とか「やりたくないのにやっている」とか「無理したくないのに無理している」とか「AかBどっちか選ばなきゃいけないのにAとBどっちも選びたくない」とかそういう実態と自分の気分や感情の矛盾、相違箇所を見つける。そしてそれについて「まだなんだかよくわかっていないがそこに自分の大事にしたいこと重要なことが埋まっているらしい」という認識をとりあえずしておくことにした。そして余裕が出てきたら丁寧に向き合っていくということにした。

論理的な処理、それも矛盾(相違)を見つけることは、敏感さ、感覚にあまり依存しないこと、相違を見つければいいので簡単(省エネルギー)だ。
また、「まだなんだかよくわかっていないがそこに自分の大事にしたいことが埋まっているらしい」という認識だけでも、一応そこに何かがあるらしいというまなざしを自分に向けていることができ、それほど苦しくはなくなった。もちろんちゃんと向き合うほうが幸せな感じはするけど。


自分自身と向き合うことについて妥協したくはないという信念、あるいは向き合わなかったことによる様々なツケを払った経験がある自分として、自分と向き合うことを妥協することはとても不覚であるが、うう、どうにもならないものはどうにもならない。悔しいが妥協する。