「当たり前」の立場と「自分で考える」立場の溝

「当たり前」の立場で生きる人間と、「自分で考える」立場で生きる人間の相違点について、考えてみる。
思考のためにここでは完全に「当たり前」の立場で生きる人間と完全に「自分で考える」立場で生きる人間の2つに区分して思考してみる(実際には完全に分けられるものではなくそれぞれのバランスで「当たり前」の立場、「自分で考える」立場が一人の人間の中に混在していると思う)。

2つの立場の対称性

当たり前に合わせて生きてきた人にとって「自分で考える」という行為は、当たり前と自分とのずれを洗い出す行為であり、そのずれの多さに押しつぶされぐしゃぐしゃにされてしまうのだろうから当然それをしないような思考が働く。

逆に、当たり前からはじき出された経験がありいちいち「自分で考える」行為をして選択してきた人にとっては自分で考えることの禁止をされることは判断や選択を誤ることになる非常に危険な行為となる。当然それを禁止されることには非常に強い危機感を持つ。

この両者がある場面で鉢合わせした時に分かり合おうとしたり、あるいは分かり合うことはなかなか困難だろう。自分にとって重要であることが相手にとって危険であり、相手にとって重要なことが自分にとって危険だからだ。

必要な情報も違う
「当たり前」を基準に生きる人と、「自分で考える」を基準に生きる人では必要な情報も違ってくる。

「当たり前」を基準に生きる人は「当たり前の基準値」が含まれている情報を重視する。世間のごく狭い人たちの間で共有されている情報だとか、特殊な人たちの持つ価値観だとかそういうものは重要視されない(むしろ積極的に無視されうる)。また当たり前の基準値が含まれていれば情報そのものに必ずしも意味を見出す必要もない。あくまで「当たり前の基準値」の点において正確であればよい。

逆に「自分で考える」の人は「当たり前の基準値」が含まれているかどうかなんてお構いなしに、今の自分あるいは今の自分の思考、行動に必要な情報を集める。このためにきわめて一部の人しか知らない情報であったりとか特殊な情報を得ようとする場合もある。この人たちにとっては情報そのものに意味や意義、あるいは自分の必要とする事柄に対する正確性があることが大切である。