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今年やちょっと前までを気の向くまま振り返る

気の向くままに振り返ってみる。

テーマ:てばなし

今年の大きなテーマだった。手放すこと。私と何度か会っている人は私が今年よく「てばなし、てばなし」とぶつぶつ言っていたことを覚えているかもしれない。

抑うつのもたらした視点
抑うつはいろいろなことをできなくする。また、回復しようとする試みはほとんど即座に打ち砕かれる。活動しようとするエネルギーや意欲は瞬間的に発生するが短くて一瞬、長くても数時間程度でなくなる時期もあった。
(まぁこれはこれで調子が悪くなり始めたころからいろいろ試行錯誤していたのだが)

回復しようとする試みが打ち砕かれすぎるのでも回復を一回放り出した。何も自分に要求せずできることややれそうなことをただやるという無為な日々を過ごすことが多かった。無理に対する制限のため回復しようなどという積極的な、エネルギー消費を増やす試みが打ち砕かれるのは当然の帰結かもしれないが。

文字にすると悲しみや苦難を感じるような文面になってしまったが、悲しみの度合いが強すぎて悲しむことができなかったか、また悲しむエネルギーも残っていなかったか、あるいは気持ちを感じることも難しい余裕のなさがなんとなくわかっていたのか、多少の絶望や失望を感じる時期もあったがあっけないほど自分の今の状態を感じて苦しんだり悲しんだり何らかの感情を持つ機会は少なかった。何が自分にとって生きるということなのかがあまりぐらつかなかったことが大きいかもしれない。
悩むことはあったが道に迷うことはなかった。

私は日々自分について分析していたい。だがこの状態では積極的な分析はできない。できることを探した。できることは「自分がどこまで何を手放せるのか」を探して「何が必要不可欠なのか」という追求である。だからどこまで手放せるかを追求した。結果として結構なものを手放せることが分かった。

何が手放せるか
いいか悪いか、豊かな生活かどうかは別にして、意外に手放せるもの、ことは多かった。
・オーディオやパソコンは自作しなくても耐えられる
・味覚がおかしくなっていろんな食べ物が混ざってる煮物とかが食べにくくなったために食事は刻みキャベツと納豆とか単品ばっかりを台所で立ち食いするだけどもまぁあまり気にならない。
・布団に1日寝ていてもその日に対する後悔はすぐ消える
・世の中に対して役に立っていたいとか地位とか名誉とか、あったらいいんだろうけどなくなるのは死んでも嫌だという感じでもない
など

・・・自分の中で印象に強く残っている部分がこれなだけで多分手放せることはもっとある。なんというか以外に絶対に譲れないものではないものを多く持っていたなと思った。

何が手放せないか
一方で「対話的に人とかかわる」「自分について」「自分の中で自由に思考ができる(他人に思考を強制されない)」「外に行きたい」「自然とかかわる」というものは手放せないものだということを再認識した。

もともとあれもこれも手を出すタイプなので、12年くらいに一度はこういう大規模な手放しや変化が起こる(前回は2008年→2009年の時期)のだけど、今回の手放しは結構強烈だった印象がある。

感情のB面を知る

好奇心、喜び、楽しさなどの感情が相対的にかなり減る時期もあった。代わりに過去の傷に対する怒り、恨み、呪いなどネガティブな感情が出てくることもあった。こういう気持ちは封じ込めがちだったのであるが今回はそういう気持ちを見つめる以外の選択肢が取れなかったので、最初はしぶしぶ不器用にその気持ちとかかわりあっていた。
ポジティブ感情と付き合うのは苦ではないので、ポジティブ感情と同じような付き合い方をすればいいのではないか、とおもってその付き合い方をして見たりとかやっていた(こっちの3章参照)

ポジティブな感情が欲しいという感じはあまり持たず、おそらくただネガティブな感情を感じてただ回復する時期だったのだろう。
暗さを知るタイミングがたまたま今回だっただけだろうという感じだ。

ただ一つの経験が生じ、過ぎ去った。

かかわり

かかわりも変わった。2020年後半あたりから自分を見つめられるような居場所、かかわり、つながりにシフトしていってるなーという感じはあったけどそれがどんどん進んでいった。一緒に楽しむかかわりというよりはかかわりの中でそれぞれが自分を見つめるというかかわり、居場所に参加する割合が増えた。

NVCと本格的に出会う

(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)。かかわり方の一つの視点だ。すでに単語は知っていたが、何がなんだかよくわ買っていなかった。しかし実際にNVCをベースにかかわりを構築する居場所などにかかわることでなんとなくわかった。
個人的には、自分の欲や状態などから隠された気持ちを発見できるという点で、論理域-感情域をつなぐリンクになるように思っていて、今後も追及していたい項目になった。

来年なんとなく大切にしたいと感じること

自然と意識をなるべく介さずに接することができたらいい
子供のころ、昔はよく川や山で遊んでいた。疲れているはずだけど不思議と自然の中で遊ぶと何だか元気になっていた。

大人になっても友達と川べりや山に行ったりして自然とはかかわっていたがそういう感覚は感じにくくなっていた。その理由は「自然の中で癒される」とか「~のために行く」とか意識的に自然とかかわっていることかもしれんないと思った。

今年、友達と特に何も決めず、つまりあまり意識的にならずに川べりを歩いた時がある。森みたいになっているところに行ってみたり、花を眺めたり、あいまいに歩いたり。

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その時の川に咲く花や水の静けさや空の高さをよく覚えている。その時はなんだか昔の子供のころの感覚をちょっとだけ思い出せたような記憶がある。
意識を介さずに自然に対してかかわってみたら何か自分自身を無理なく動かせるような感じを取り戻せるかもしれない。

肉体はごくわずかずつであるが老いに向かっているはずだ、生物である限りこれは避けられない。学生の頃からずっとやっていた、脳だけで、あるいは心身のパワーだけで、力技で解決する時代は終わったのだ。

気持ちをゆっくりと溶かしだしていく

いろいろなことがあった。これらの事柄に対応して生まれた感情や気持ちはその多くがまだ自分の中で埋まったままである。気持ちが埋まっていること、今すぐにその気持ちに向き合う余裕はないことを自分自身と同意しているからまだ何とかなっているが放っておくと自分に対して牙をむくような形で出てくるかもしれない。自分自身とかかわる、向き合うタイミング、あるいはそういうことができる居場所で、こういった気持ちを少しずつ自分自身の奥から自分の感じられるところまで溶かしだしていけたらいい。