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自己肯定感「だけ」を高めようとしすぎない

自己肯定感だけを高めるアプローチは「自己肯定感あげたらめっちゃ変わった、めっちゃ効いた!」「自己肯定感しか現状を変えるためにすがるものが残されていない!」「自己肯定感を上げること自体が楽しみだ、生きがいだ」「自己肯定感を上げてみたらどういう視座が得られるのか検討したい」というような明確な理由がない場合以外にはやみくも追求しないほうがいいかもしれないと思っている。

自分自身は結構高校時代~大学時代あたりに呪いのように「自己肯定感がたらない」という視点に悩まされた。具体的に言えば「自己肯定感がないから人と話すときに緊張したり不安になったりしてうまく話せないと感じる。話す内容が思いつかなくなったり冷静さを失って話過ぎたりする」とか「自己肯定感が低いから他人の目線が気になって人がいるところが嫌なんだ」とか「自己肯定感が低いから猫背で姿勢が悪いんだ」とか「自己肯定感が低いから痩せているんだ」とか。

結構な量の「自分にとっての課題」を自己肯定感のみが原因でそれを何とかすれば何とかなる。というように考えていた。

結局そういった「自己肯定感がないから〇〇だ」が根っこからある程度の解決を見たのは「実際に人と話しまくってみる」とか「さんざんやろうとして結局難しいことがわかってきて悲しみながらもだんだん受け入れていく」とか「療養期間中に料理作ってみたら意外と簡単に毎日継続できたとか」とか「社会人やってみる」とかそういう実際の「行動→検証」パターンによるものがおおかった。
自己肯定感に縛られるところから逃げ出した解決のところまで言及するのは分が多くなるので、今回は私が昔陥っていた課題、すなわち自己肯定感を高める「だけ」のアプローチに含まれる課題、およびそれに対する対応について書いていく。

課題①易破壊性

自己肯定感は攻撃的な他者の存在や自分にとって望ましくない「こんなはずでは」な結果を得たときに影響を受ける。強固で完全性の高い自己肯定感でなく、建設中で発展途上の自己肯定感は、失敗(という判断)や他者からの攻撃で容易に破壊される場合がある。 
筋肉や技能や脳の性能といった「破壊されにくい」ものとは対照的である。

易破壊性に対する対応としては、自己肯定感を強化すると同時に技能や性格の柔軟性など、自己肯定感の根拠となる安定的なものも同時強化していくとよいのだろう。真の自己肯定感に根拠はいらないのだろうが、建設中だったり発展途上の自己肯定感にはそれを補助的に支える「根拠」がいる。建設中の建造物に足場や仮押さえの機構が組まれ、建物が自立できるまで補助的に支えるように。


課題②原因を探せなくなる

自己肯定感を高めるアプローチのみに固執するとあらゆる原因を「自己肯定感不足だから」と判断することになる可能性がある。そのくらい「自己肯定感」は原因としてつかいやすい。

自己肯定感をいくら高めたからといって空を飛べるようになったり酸素を吸わないで生きれるようになったりはしない。それと同じように自己肯定感をいくら高めたからと言って即座に何かの能力が上がったり暴力や理不尽に無制限に耐えられるようになるわけではない。
自己肯定感は何かの足かせを外すことで本領を発揮しやすくすることはできてもできないことをできるようにする魔法ではない。

対策としては、おとなしく因果関係を分析してみるのもいいし、実際にやってみて「できない」を味わううちに自己肯定感以外の問題があることに気づくかもしれない(自分は気づいた)

課題③解決できなくなる

「自己肯定感がない」という時大体の場合「家族関係が原因」とか「過去のつらい経験が原因」といった「すぐに、あるいは容易にどうにかできないこと」が理由になることが多い気がする。たしかに家族関係や過去のつらい出来事による痛みというのはそう簡単に取り除けるものではない。

自己肯定感だけが原因と考えていると、自己肯定感がない→自己肯定感の原因もすぐどうにもできない→自己肯定感が原因で起こってる問題外決できない→自分の問題は解決不能だ というサイクルに陥ってしまう。

深刻なダメージがある場合は容易にどうにかしようとするのは危険だし、自分自身を守るために「自己肯定感」にとりあえず帰責させておくということもあるだろう。
一方で安易に解決不能としてしまうのもちょっとこれはこれできつい気がする。「解決不能」という極端な無力感や絶望感を味わうのは気持ちよくないし精神的にもきついものだ。

対策としては、部分的な解決(状況を軽減する、状況の一部を改善できないか検討する)を考えたり、誰かに話を聞いたりしてみるというのがいいのだろう。解決不能な問題というのは思ったより少ない印象がある。
また、とりあえず強引にでも解決策を探そうとしてみるといいかもしれない。強引にあれこれ探したりやってみたりしてもどうにもならなそうなら、逆に自信をもって「解決不能」宣言を打ち立てるのもいいかもしれない。
限られた時間や資源の中で明らかに解決できないこと」にエネルギーを入れるのはあまり得策ではない。
自己肯定感がないことからくる感覚的な「解決不能」と、あれこれやってからくるもうどうにもならなそうという「解決不能」では未練の感覚が結構違う感じがする。後者はほぼ現実ないし状況に説得されているので未練感はあまりない。