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きょうの自己

悲しみを見つけた、しかしわたしのこころにはそれがはまる隙間がなかった。その事実はわずかな軌跡を残して自己の深淵の中に再びとけこんでしまった。
せっかく見つけた事実をまた自分の不甲斐なさによって取り逃すというのか。
誰かにこのつらさを吐き出してしまいたい機運がある。だけど友達の心を自分の心から噴き出た濁った鮮血で汚したいとは思わない。この濁りは誰かに開示するには度を越えているように思う。

気持ちの生まれ方を考えれば「なぜこんな気持ちにならなければいけないのか」という問いは不毛なものと気づく。繰り返し生まれるこの問いは私にとってはしょせんこの気持ちをどうにかしたいということのゆがんだ表れにすぎない。

事実を見ていたい。たとえ心が打ち砕かれそうになろうと、押しつぶされそうになろうと。
心が打ち砕かれ続ければ、やがて心は粉々になり、砂のようになり、鋭利で強力な力を柔軟に受け止められるようになるかもしれない。あるいはもともと心は流砂のようなものかもしれない。意思を持つことで初めて心の粒は凝結し凝固体となり、打ち砕かれることを知るのかもしれない。

人間は有限の存在のため無限の情報を持つ真実をつかむことは困難であり、ゆえに対象そのものを完全に把握することは困難であるが、そのかけらである事実はつかんでいきたい。自分が物事や自分を見誤らないために。

なぜ苦しい時のほうが頭がさえているように思えるのか、あるいは楽しい時のほうがさえているが無自覚に楽しんでいるから気づいていないだけなのか。自分の生き方は、苦しさから逃れるために生きているような節はある。
自分の幸せな感覚に従いながら生きていたいという理想とは多少ずれている。残念ながら。

受け入れることは2つある。一つは外のもの、価値とか信念とか考えとかを自分の中に置くこと。もう一つは持っている価値とか信念とか考えを手放すこと。

自分で自分に寄り添い続けること。ただ「いる」だけでいい。こんな単純なことであるのに私はいまだに不得意だ。あるいは最初はみんな不得意だったのかもしれず、その場合、私はその練習が足らなかったのかもしれない。

ある日のふろ上がりの自分の脳内。