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「対話のある場所」にあつまるひとが居心地のいい人ばかりなわけ

プライベートでカフェとか、あるいはいろんなあつまりとかに遊びに行き(最近はほとんどオンライン)色々話す。

そんななかでも居心地の良さを感じて、何回も行ったり何年も関わっている場所がある。どこも、場所として居心地がいいし、そこに来る人たちも話していて居心地がいい人ばかりだ。

かかわっている居場所たちには共通点がある。どこも「対話がある」ということだ。

なぜ「対話がある」場所には居心地のいいひとたちがあつまるのだろうか、対話をする前提から考えてみた。

1.自分がわかっている(自己認識)
「自分がどう思っているか、感じているか、考えているか」をわかっている。自分自身の感覚に自覚的である。
自分がわかっていなければ、話すこともないし、聞く理由もないだろう。そもそも対話をしようとは思わないはずだ。


2.言いたいことが言葉にできる(表現できる)
「自分がどう思っているか、感じているか、考えているか」をわかっていてもそれを言葉にできなければ、誰かに伝えられない。
言いたいことと言っていることがかなりずれている場合があるが、それだとなかなかコミュニケーションは成立しない。
言葉にできると書いたけど、言葉にし切れていないなら、言葉にし切れていないと発することも言葉にすることである。

ここで注意する必要があるのは、無限のパターンのある「表現したいことそのもの」を有限のパターンである「言葉」に変えていく際に必ずずれが生じる。
完璧な表現などほとんど不可能であり、むしろこのずれに自覚的であるという事が大切なのだと思う。


3.自分の言いたいことを言える(自己開示)
言いたいことを言葉にできても、その内容を表現できるかどうかがある。
「言いたいことをいう」行為は「相手に自分がどんな人であるか」を知らせる行為だ。言いたいことを言うことで、相手に自分を知られる覚悟ができているということだ。あるいは相手に自分を知ってほしいというささやかな願望かもしれない。
また、そもそもの話として、「相手に自分が知られても問題ない程度に、自分の性格が良いという自信がある」ということも付随的についてくる。

自分が言いたいことを言った結果、相手にどういう人間かと判断されるのが耐えられないのなら、あるいはその自信がないのなら発言はできない。


4.相手の話を聞きたい(聞く)

「対話」にはだいたい聞く時間がある。
自分が話した後に、相手の話を聞くとは、大げさに言うと、自分の言ったことに対して、相手が言葉を返してくれる、相手の言葉を受け取る覚悟があるということだ。

つまり、「対話をする場所」には、自分がわかっていて、表現の仕方もわかっていて、自分を開示することができて、相手の言葉を受け取る覚悟がある人が集まっているのである。
こんな人と話したら話していて楽しいだろうし、少なくともあまり不快になることはないだろう。

対話のある場所にくるのが居心地のいい人ばかりというのも納得である。

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かなり余談だけど、以前、「対話」を考える というタイトルでnoteを書いた。あんまりしっくり来ていなかったのだけど、今考えると対話に対するイメージが強すぎていろいろ関係性のないことを書きすぎたからかもしれない。対話自体はもっとシンプルな決まり事しかない気がしてきた。