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「本当にやりたいこと」よりも「やっていて気がおかしくならないこと」を探してみる、という視点

「本当にやりたいこと」と思っていたことは…

ストレスがかかってないときにはやる気がないが仕事したりなど外部ストレスがかかるとやりたくなるようなことは果たして「本当にやりたいこと」なのか。私にはこういう類の「本当にやりたいと思っていたこと」がいくつかある。

本当にやりたいと思っていると感じているその内容は「やることが望ましいと社会が判断していること」だったり「誰かから手っ取り早く承認をもらえそうな類の自分の得意なこと」だったりするかもしれない。
「本当にやりたい」という感覚は上に書いたような「のぞましさ」「承認されたさ」などの外からの影響を受けやすいように感じる。
「外からの影響を受けやすい」という特徴ゆえに、「本当にやりたい」はぶれやすいし、探し出すことは(人にもよるが)なかなか大変だ。

「本当にやりたいこと」の周辺環境はあっている?

さて、四苦八苦して(あるいは四苦八苦せず)「本当にやりたいこと」だと思うものに出会ったとしよう。
やりたいことが趣味であろうが仕事であろうが本当にやりたいこと「だけ」をやるのはほぼ不可能とみていい。やりたいことをやるというのはその「周辺環境」にもかかわるということだからだ。

私は「はんだ付け振り回して回路組みたい」というのが「やりたいこと」だったので技術者になったのだが、実際には「他の人物への根回し」「報告書の作成」といった「できるけど疲れる」こともやる必要があったし「堅実なやり方」をする人たちが多かったので自分の特徴である「とりあえずやってみる」と大きく相違があった。一方で収入に関しては自分の望みを充足した。

こういった「付随する作業」「人のタイプ」「収入」等といった「周辺環境」と合っているか、それに適応できるかどうかも「本当にやりたいこと」がやりたいままでいられるかに大きく影響する。

趣味だろうが仕事だろうが「本当にやりたいこと」だけでなくそれの周辺環境に適応できなければ当然「本当にやりたいこと」はできない。「本当にやりたいこと」だけに注目していると周辺環境との相性を見落とす場合がある。
ただ周辺環境に関しては「外注する」「誰か得意な人と一緒にやる」という形で回避できないにしてもある程度ハードルを下げることはできる。

たまに「本当にやりたいこと」であればどんな困難でも乗り越えられる!などいう話が出てくるが、それはあくまで当人に対応できる性能がある場合に過ぎない。実際に対応できる性能がなければ不可能だ。人間は理想ではなく現実世界を生きており、当人の性能からくる制約や制限から逃れることはできない。

「本当にやりたいこと」ことをすでに知っているの?

「本当にやりたいこと」を探すときは「自分が現時点で知っていること」もしくは「自分が想像できる範囲で想像できること」から選ばざるを得ない。全く未発見のことや思いもつかないことを「やりたくなる」ということはほとんどない。
人間を観察すればわかることだが一人あるいは少数の人間の知識、想像力などこの世にある知や想像力のごくごくわずかな一部に過ぎない。そんな小さな知識や範囲から「本当にやりたいこと」は見つかるのだろうか。その狭い範囲でみつけた「本当にやりたいこと」はうっかり別の知識や想像力が働いたときに色あせてしまわないだろうか。

やっていて気がおかしくならないことを探そう

以上みてきたように「本当にやりたいこと」をさがすというのはなかなかに見落としやすいポイントを持っていて、いわば「玄人向け」である。
「本当にやりたいこと」の追求が「心地よくいきたいから」などの消極的な理由なら 「本当にやりたいこと」ではなく「やってて気がおかしくならないこと」をさがすほうが良いと思う。

まず、「やっていて気がおかしくなること」というのは「ストレス、不快感、心身異常」あたりの強い信号で感知できるので外部の価値観や他者の意見の影響を受けにくい。「ここちよさ」や「願い」が理想の代弁者だとすれば「不快感」や「ストレス」は現実の代弁者である。現実というのは説得力がある。
また、やっていて気がおかしくなること、という視点で考えれば先に書いた「周辺環境」との相性も同時に知ることができる。やることそのものはあっている感じがするがその界隈の人とかかわるとストレスになる、なんていうのも含めて判断できる。
そして「いろんなことをやってみてもやっぱり気がおかしくなりそうだ」という形でどんどん逃げていく過程でそれまで知らなかった生き方、やり方などに出会う(出会ってしまう)こともある。
最終的に気がおかしくならなさそうなのは人間社会からちょっと距離を置いた、山籠もりのような生活だった、というようなこともあり得る。

気がおかしくならない程度にやろう

さて見事「気がおかしくならないこと」を見つけられたところで、それを自分の身の丈に合わない度合いでやってみたらどうだろうか。多分だんだんまいってきて気がおかしくなるはずだ。(大体人間である以上睡眠食事休息は避けられない)だからそれを気がおかしくならない程度にやればいい。

「本当にやりたいこと」を決めたのにある程度やると嫌になる、なんてなったら自己否定に走りかねないが、もともと「気がおかしくならないこと」を基準にしていればすぐさぼれるはずだ。

「本当にやりたいこと」を探すのが「本当にやりたいこと」ならそれもあり

ここまで「本当にやりたいこと」の考え方をあれこれ批判的に見たうえで「気がおかしくならない」という新たな視点から考えようという論を展開してきた。

しかし、やっぱり「本当にやりたいこと」の追及には魅力を感じる。
「本当にやりたいこと」その言葉は、概念は、芳醇な香りを放つ果物のように、あるいはよく編集された写真や小説の登場人物のような「理想の存在」のような魅力を持っている。
もしそれに魅了されているのなら、それを追及してみたいのならそれもありなのかもしれない。人間は現実という枷にはめられているくせに思い描く理想がないとまいってしまう生き物である。