「身近な物語」の豊かさとシビアさ
「未来に対する漠然とした希望とかこれから世の中が大きく良くなっていく」とかそういう大きな物語は説得力を失っている。未来はかなり不確定性が強くなっている。あるいはよくなるかならないのか不安定な状況である。
手がかりがあまりにも乏しい不確実性の高い未来に対して興奮するのは変t…ないし未知なるものに対する探求心満ち溢れた人のみである。
そんなわけで、多くの人にとって大きな物語を信じるのはあまり希望を持てるものでなくなってきている。
その中で逆にいつもかかわっている人とのかかわり方とか、普段食べたり飲んだり遊んだりしている物事、小さな物語の比重がいやおうなしに増えててくる。
大きな物語が不確実で希望を持って語れるものでない以上、確実性の高い小さな物語に焦点はあてられるからだ。
遠い未来がどうなるかは不確実でも「明日友達と会う」とか「平日に自分の職場に仕事に行く」とか「休みが明けたから学校に行く」という近未来のことはあいかわらずほぼ想定通りに起こる。
今日の「友人」「恋人」「家族」「上司」「部下」「先輩」「後輩」は20年後どうなっているかはわからずとも、明日はほとんど同じ状態だろう。
こんなわけで身近なかかわりなど小さな物語への注目が集まったことでかかわりや暮らしに対するまなざしが強くなっている。
小さな物語への注目は暮らしやかかわりに対する豊かさの重要性を気づかせることになり、物質的経済的誇示的な豊かさ以外の豊かさの発見の契機となる。
何となくある生きづらさの原因が身近な人たちとのかかわりの中で生じる(ささいな)傷付きであったり、あるいは自分の大切にしたいことでなく社会の要求に従っただけの暮らしだったりしたことに気づき、それを変えることができれば従来とは違ったたぐいの豊かさを得られる。
一方で小さな物語への注目は、身近な暮らしやかかわりにいて生きづらさや問題を抱えている人にとってはつらさが強くなることを意味する。
「今のかかわりや暮らしがきつくても未来は今より良くなる」などといった大きな物語にすがることで何とかしのぐことが、大きな物語が希望を持てなくなったことですがれなくなるからだ。あるいは、それら大きな物語でかかわりや暮らしをごまかしてきた人にとってはごまかしきれなくなったゆがみをどうにかする必要に迫られている時期でもあるのかもしれない。
「小さな物語」への変化は多くの場合新たな豊かさをもたらすだろう。しかし一方で新たなシビアさをももたらすことになるかもしれない。