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【短編小説】幸せのかたち

3,870文字/目安7分


「幸せに形があるとしたら、きっと三角形だよ」

 口癖のように話す彼女の言葉の意味が、当時小学四年生だった僕には分からなかった。
 住んでいるところは町にもならないような田舎だった。近所に歳の近い子が他にいないからと、ことあるごとに遊びに連れ回された。山へ虫を捕まえに行ったり、知らない細い道をどんどん入って行ったり、お互いの家の敷地全部を使ってかくれんぼをしたり。かくれんぼと言っても二人しかいなくて、毎回僕が鬼をやらされる。ちっとも見つけられないから、日が暮れる頃に出てきてはひどく怒られた。

 隣の家の、四つ離れた年上の女の子。僕の初恋の相手だった。みき姉と呼んでいた。

「君はどんな時に幸せを感じる?」

 セットでいつも聞かれる。僕はこれが嫌で仕方がなかった。答えると絶対に、そんなのは幸せじゃないと怒られる。「おいしいご飯を食べた時」はだめだった。「布団に入っている時」もだめだった。何も返さずにいても怒られる。何より自分が許さなかった。ゆき姉にできない姿を見せたくない。格好つけたかった。一生懸命に考えて、「アイスを食べていたら当たりで、もらったやつも当たりだった時」と言った。これならみき姉も満足だろう。ただアイスを食べるだけじゃない。当たりもあるのだ。しかも換えてもらったものがさらに当たりなのだ。
 得意気な僕とは関係なしに、結局怒られた。彼女の言う幸せが難しくてお手上げだ。一緒に遊ぶのは楽しいけど、怒られるのは本当に嫌だった。みき姉の言う幸せってなんだろう。

「ゲンゴロウって今もうほとんどいないんだって」と、ゴキブリとそう変わらない姿の虫を平気で捕まえる。「君、ここから飛び降りられないでしょ」と、流れる川を岩場から見下ろして僕をからかう。
 みき姉は僕が知らないことも全部知っていて、僕ができないことだって何でもできた。

 夏のことだった。その日も彼女と山に入り、探検をしていた。一緒に、なんてかわいいものではなかった。どんどん進んでいくみき姉に置いていかれないように、必死でついて行った。
 彼女が軽く飛び移っていく岩の間も、僕にとっては谷底と同じだった。みき姉に格好悪いところを見せたくないから、平気な振りをして後ろから追いかける。

「滑りやすいから気をつけてね」

 前の日に雨が降っていたから、足元はぬかるんでいた。大きな水たまりになっているところもあって、一度でも転んだら泥だらけだろう。しかもすぐ横が斜面になっているから、運が悪ければ下まで転がり落ちてしまう。
 怖かった。それを悟られないように、「みき姉もね」と返す。

「あ……」

 しばらく進んだところで、みき姉が立ち止まった。雨のせいかは分からないけど、大きな木が倒れて道を塞いでいる。他の同級生よりも背が低かった僕は、木の向こうがどうなっているかは見えない。
「今日は戻ろう」
 そう言って、みき姉は引き返そうとする。
 チャンスだと思った。このくらいの木なんか簡単に乗り越えられる。確かに雨に濡れて滑りやすくなっているだろうけど、注意して手足を引っ掛けて登れば楽勝だ。そう考えたら、怖さもなくなった。

 僕は全然分かっていなかった。倒れた木の向こうの道が崩れていること。水も流れて、とてもじゃないけど進める状態ではないこと。いつの間にか、雨が降りそうなほどの雲が山の上に来ていたこと。今すぐにでも山を出た方がいいこと。彼女はすべて分かったうえで引き返そうとしていたのだ。
 そうとも知らず、僕は倒れた木に足をかける。
「先に行くから、みき姉はついてきて」
「だめだよ、戻るよ」
「大丈夫だから」
 木はでこぼこしていて簡単に登れた。なんだ、こんなことでみき姉は怖がっていたのか。僕はみき姉にいいところを見せようと、速く登ろうとした。上まで行ったらみき姉を見下ろしてやるんだ。それしか考えていなかった。バカだった。最後の一つ足をかけるところで、自分の体が宙に浮いたような感覚になった。
「危ない!」
 彼女の声が聞こえた時にはもう遅かった。僕は足を踏み外し、木から滑り落ちた。背中に強い衝撃が走り、一瞬目の前が真っ白になった。何が起こったか理解する頃には、僕は彼女に起こされていた。
「ごめんね。この先は道が崩れて危ないから戻ろうって。すぐに言えばよかった」
 彼女は何度も僕に謝った。ごめんね。ごめんね。こんなに泥で汚れちゃって。怪我がなくて本当によかった。助けてあげられなくてごめんね。
 みき姉はなんでこんなに謝るんだろう。いつもだったら怒るのに。僕は失敗をした。木から滑り落ちて、靴も服も背中も顔も泥だらけになった。格好悪いところを見せてしまった。恥ずかしくて何も言えなかった。

 僕は歩いた。みき姉の少し後ろを、泥だらけのままついていく。体がかゆい。汗で気持ち悪い。昼過ぎの暑さがうっとうしい。手遅れなのは分かっていたけど、みき姉にできるだけ自分の姿を見られないように、隠れるように体を小さくして歩いた。
 来た道を半分くらい戻ったところで、ぽつほつと雨が落ちてきた。そう思ったら辺りが一気に暗くなり、すぐに土砂降りになってしまった。
 あっという間に全身がずぶ濡れになる。体についた泥が流れていってラッキー、なんてことを僕は考えていた。
 雨はさらに強くなっていった。地面はぐちゃぐちゃになって思うように進めない。そうするうちにみき姉との差が開いていく。僕は思わず叫んでいた。
「みき姉待ってよ」
 彼女はすぐに足を止めて、僕のところに戻って来てくれた。この時は彼女もきっと余裕がなかったのだろう。
「ごめんごめん、急ぐよ」
 そう言って僕の手を掴んだ。僕はどきりとした。みき姉の手。それが僕とつながっている。身長はみき姉の方がずっと高かったけど、手は思ったよりも大きくないんだなと感じた。相変わらず少し後ろを、彼女に手を引かれて歩く。
 初めてつないだ女の子の手は、水でふやけてしわしわだった。

 山を出てすぐのところにバス停の小屋がある。みき姉はそこに僕を連れて行った。
 雨はいくらか弱くなっていたけど、まだまだ止みそうになかった。しぼると服から水が出てくる。靴にも水が溜まっていた。
 僕は木から滑り落ちたことをすっかり忘れ、彼女と手をつないだことで頭がいっぱいだった。みき姉の手は冷たかった。
「見ないでよ」
 そう言われるまで、僕は彼女を見ていることに気づかなかった。
 ぐっしょりと濡れたTシャツは張り付いて、みき姉の体の形をあらわにしている。透けて見える白い肌。僕のものとは全然違った。
 みき姉は自分の体を両腕で隠して僕を睨みつけるけど、目が合うとすぐに逸らしてしまった。
 この時に僕は、みき姉のことが好きだ、と思った。今までに体験したことのない気持ちと感覚に体がなんだかむずむずして、そして戸惑った。どうすればいいか分からないまま、そっぽ向いた彼女の後ろで立ち尽くしていた。

 しばらくして雨が上がり、家までの道を歩いている時も、みき姉は目を合わせてくれなかった。少し後ろをずっとついて行く。追いかけるのに必死だったみき姉の背中が、少しだけ小さく僕の目に映った。

 それからだんだんと、遊ぶ頻度が減っていった。
 五年生になると、たまにすれ違った時にあいさつをするくらいで、すっかり遊ばなくなってしまった。彼女は受験生だった。
 連れ回されて怒られないのはよかったが、やっぱり寂しさはあった。

 冬になって、一度だけ彼女と遊んだ。雪が降りそうな曇りの日だった。公園とも言えない、すべり台とブランコと砂場だけある小さな空き地みたいなところに僕らはいた。
「君はどんな時に幸せを感じる?」
 久しぶりだったけど、彼女はやっぱり僕に訊ねた。答えれば絶対に怒られる。苦手な質問だったけど、彼女とまた遊べることが嬉しくて、そんなことはどうでもよかった。
「みき姉と一緒にいる時」
 思ったままにそう返した。彼女は目を丸くして、しばらくの間固まっていたのを覚えている。その時の僕はそれが彼女に対する告白だと自分で気づいていなかったんだ。
「そっか」
 みき姉は初めて怒らなかった。
「他にはないの?」
 そう聞くから、はっきりと「ない」と答える。
 みき姉はやっぱり怒らない。でも、その答えが正解だとは思えなかった。彼女はそういう表情を浮かべていた。
「……そう。ちゃんとあった方がいいよ。幸せの形は三角形なんだよ。簡単に崩れちゃうんだから」
 こちらに向けた顔は笑っていたけど、その目は僕にではなくて、どこか遠くを見ているような感じだった。
「もらうだけじゃだめ。ちゃんと自分で手にするんだよ」
 みき姉の声がいつもより優しい。そう思ったけど、やっぱり僕には言葉の意味が分からなかった。

 そうして、彼女と会うことはなくなった。

 春になって、僕は六年生になった。

 みき姉は町から出ていった。高校生になるのと同時に、家族で引っ越してしまったのだ。
 僕の初恋はあっけなく終わった。

 それから何回も、寒い冬が過ぎて暖かい春がやって来た。僕はその度にこの初恋を思い出す。どこかの噂で彼女が結婚したことを知り、思い出に続きはないんだと少し寂しくなったりもした。後で分かったのだが、引っ越し先は全然遠くではなくて、今でも同じ県内に住んでいるらしい。

 僕は、ほうと一つ息をついて、ようやく歩き出す。

 彼女の言う通り、幸せに形があって、それが三角形なのだとしたら。僕にとっての正しい形は何だろうか。どのような線で結ぶのだろうか。

 三角形にするには、まだ、ちぐはぐすぎる。





――――

〈あとがき〉

 このお話は、仲村比呂(nakamura hiro)さんの記事を読んで書きたくなったお話です。

 自分の人生、これとこれとこれがあるから幸せ。何が大切で、どうバランスを取るか。人生における幸せや生き方ついて考えている記事です。

 投稿されてからすぐに書き始めましたが、しばらく寝かせたりなんだりで今になりました。

 目の前のことに一生懸命になると、つい自分の幸せがどこにあるか、分からなくなってしまうこともあるなと。そうならないように、自分なりの三角形を持っておきたいと思います。



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