仲村比呂(nakamura hiro)

小説家です。主に小さな子から楽しめる物語を作っています。文学は儲からなくとも最強です。…

仲村比呂(nakamura hiro)

小説家です。主に小さな子から楽しめる物語を作っています。文学は儲からなくとも最強です。最新刊は「虹の予報官」 https://amzn.to/44BfMGY

マガジン

  • ちょこっと漫画 口ぱかちゃん

    いつも絵をお願いしている 絵本作家 やのかつえさんの漫画です。ほっと息でもついてください。

  • 読ませていただきました

    面白くて刺激(創作意欲)を受けた記事を集めてあります。

  • 詩とメルヘン

    やなせたかしさんがやられていた雑誌「詩とファンタジー」をオマージュしたマガジンです。 時々ふいに出来る詩が載せてあります。だいたい週一更新ペース。

  • 「文学」のために

    「文学の可能性」を探っていくマガジンです。YouTube、文学フリマ、句会、映像化、Tik Tok、メンバーシップ等々、文学のために何ができるか考えていきたいと思っています。不定期更新です。

  • もろもろの感想文

    本や、映画や、音楽など、ほんとうに趣味的、偏愛的な感想文です。

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最近の記事

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電子書籍版 第二弾「虹の予報官」刊行

ようやく、電子書籍化第二弾として、「虹の予報官」を刊行することができました。 この作品は、初めて子供向けに書いた小説で、2015年の講談社児童文学新人賞に応募して、一次予選を通過した(ネットで検索すると出てきます)作品を大幅にリテイクしたものです。 あらすじとしては、虹を予報することが得意な男子が、ひょんなきっかけから、町に訪れる危機を知り、バイキングを目指す親友とともに解決すべく奮闘する、ある意味ベタな冒険モノです。 同時に、気弱でいつも自分に自信がなかった主人公の成長

    • 大河ドラマが帰ってきた

      とある事情から、Netflixが急に嫌になって、U-NEXTにサブスクチャンネルの契約を変えた。 しばらくして、追加の金額を払えば、NHKオンデマンドも視聴できることが判明。 これはいいぞと思って、色々番組を探すと、過去の大河ドラマを発見。 大河ドラマというと、自分が育った家でのテレビ事情を思い出す。 とにかく我が家はテレビに厳しくて、夜の七時から八時だけしか見させてくれなかった(本当のことを言えば、共働きだったので学校から帰ってきてから、両親が帰ってくるまで見放題だった

      • ちょこっと漫画 口ぱかちゃん 第7回

        作 やのかつえ

        • 言の葉 舞い散る桜によせて(詩)

          言葉とさよならしたのはいつだろう かけがえがなかった自分の言葉 発した言葉がすべてが自分自身だった 捨てられて さらされた言葉の終わりに ずっと断末魔の悲鳴を聞いていた 今日桜の花が散る 花びらが舞って舞う 失われた言葉のように 散るよりも散らせたかのように 言葉ははらはらと舞って 誰かの心の池に舞い落ちた 言葉が別れをつげてきたのはいつだろう それはいつでも他人の言葉 言葉のすべては他人のものだった 笑われて無視された ありふれた言葉の始まりに 言葉自身のため息を

        • 固定された記事

        電子書籍版 第二弾「虹の予報官」刊行

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          182本

        記事

          文学に賭けるって、なかなか言えない

          覚悟って 意外にできない。そう簡単なものじゃない。 「覚悟を決める」、「これに殉じる」、「結果に従う」 言うなれば、自分が決めたことに責任を持つってことだけど。 どうしても、歳を重ねると、結果を想定して、あれこれ安全策を講じたり、 逃げ道を造っておいたりと、決断に対する、潔さが消えていく。 どちらかというと、うじうじ悩み、あれこれ意見を聞き、その上で覚悟っぽいことでごまかす術を覚えていく。 まあ、それが歳を重ねるとい意味かもしれない。若気の至り、無謀をしないこと。 そ

          文学に賭けるって、なかなか言えない

          やさしい詩が書けたなら

          文章には正解がない。 散文だと、よけいにそうかもしれない。 これまで何回も読み返している、萩原朔太郎の「詩と原理」によると、 詩は音楽に似て主観的なもの、散文(小説)は絵画に似て客観的なもの。 とある。 ただし、どの文章もどちらかにきちんと分けられるものではなく、どちらか寄りになる。 自分は死ぬほど小説を書いておきながら、それほど文章が上手くないと思っている。自己評価、中の下ぐらいのところかな。 もし、上のレベルだったら、とっくにベストセラー作家になっていたことだろう

          やさしい詩が書けたなら

          ペンギン村に住みたくて

          鳥山明さんが亡くなりました。 実は、ドラゴンボールやブルードラゴンなどの後期の作品よりも、「Dr.スランプアラレちゃん」が好きでした。 割に大きくなるまで、ずっと「あんな世界に住みたいなあ」と思っていたくらいです。 平和で、住人達もみんなのほほんとしてのんびりしていて、それでいてちょっとした変な事件が起きて、村全体がわちゃわちゃする。どんな個性の持ち主でも、最終的に村に受け入れられて共存していく。 そして、何よりも誰も死なない。 鳥山明さんは、自分が住みたい世界を造りたか

          ペンギン村に住みたくて

          消された言葉

          文書を書くことは、割に季節に影響される。 当然ながら、花粉症と闘っているときに書く文章と、ぽかぽかと暖かくて庭先の桜でも見ながら書く文章はどこか違う。 そもそも内から出てくる言葉そのものが違っている。 おまけに体調まで悪いときには、何かを書こうとしたしたとき、生まれ出る言葉の候補に、自分自身驚くことがある。 「憎い」、「恨む」、「死ね」なんて言葉が次々に出てくるときがある。そういうときは、決まって精神状態が悪い、だいたいがストレスがもたらす言葉達である。 寒々しい曇天の

          ちょこっと漫画 口ぱかちゃん 第6回

          作 やのかつえ

          ちょこっと漫画 口ぱかちゃん 第6回

          なかなかに

          一月中旬というのは、お正月も終わり、さらに寒くなっていき、もう少し経つと節分。 まるで、季節のブラックホールのように、イベント的、ぽっかり開いた時期かもしれない。 毎日の、震災とかのニュースを見ると、死は以外に近いところにあるのを感じることが多くなった。 そして、もっと言えば、死とは本当に外部にあるのだろうかと考えてしまう。 「死」とは、外部から、物理的にやってきて、強引に肉体を引き裂き、バラバラにすりつぶして、滅してしまうこと言うのだろうか。 本当の死は、外部ではなく

          そろそろ隠棲・・・徒然に書こうかな

          とにかく寒い。 しかし、この寒さがいいのかもしれない。 おもむろに、徒然草を再読する。 ときどき、無性に読み返したくなる。かつて小林秀雄が、「徒然草」はモンテーニュの「エセー」のダイジェスト版(ちょっと言い方が違うかも)と評したが、なるほど、似ているところがある。 つまり、「世捨て人」からの視点。 最近、○○したい。何をやろう、これをやろうと思うのだが、一日たつともう面倒くさいと気が変わることが多くなった。 こんなこと、わざわざ言葉にする必要がないのは百も承知だが、何と

          そろそろ隠棲・・・徒然に書こうかな

          何か子供達のための“場“を作りたい

          昔は、新年の誓いなどを立てたものだけど、 元旦から震災などあって、のんきに自分ひとりの抱負とか、夢とか考えるのが何だか、気が引けるというか、何かちっちゃいことのように、急に思ってしまった。 もちろん、本業の執筆も大切だけれど、そしてこの先、可能な限り執筆だけの生活を送りたいけれど、それだけではいけないような気がしてきた。 もちろん、小説を書くことは個人的な達成感があることだし、小説を通して歴史の中に、「有意義な意識」を遺すという夏目漱石的な意味で社会的意義もある。 当時

          何か子供達のための“場“を作りたい

          ちょこっと漫画 口ぱかちゃん第5回

          作 やのかつえ

          ちょこっと漫画 口ぱかちゃん第5回

          年末、三昧の中で本当の友人を見出す

          Noteの更新が滞っていた、ほぼ一ヶ月。 別に、誰かから頼まれたわけでも、お金を取って有料記事を書いているわけでもなく、つれづれに創作にまつわる記事を書いてきただけなのだから、それほど切実に書かなくては思う必要はないのだが、やはり更新の間が空くと、どこか心がざわめき立ってきて、何か書かなくてはという思いが起こってくる。 気がつくと、一ヶ月近く更新していない。かつては、苦行のように毎日記事を上げていたときのことが嘘のよう。 では、この期間何をしていたのか? 別に知りたくも

          年末、三昧の中で本当の友人を見出す

          伊集院静さんが逝く

          作家の伊集院静さんが亡くなられました。 「大人の流儀」を読むのを楽しみしていました。 私とは、まったく違う生き方をする人だなあと思って、どこか羨望の眼差しに似たものを感じることもありました。 たぶん、へたれの自分には、「大人の流儀」なんていう題名がついた骨太の本は一生出すことはないでしょう。 出せるとしたら「弱さなりの流儀」ぐらいかな。 そして、珠玉のエッセイの中では、特に愛しい人が亡くなったときどうするか、その向き合い方、意識の変え方、そして人生への活かし方を教わった

          伊集院静さんが逝く

          11月18日(日記)日記について考えてしまい手が止まる

          どんよりとした曇り だんたん、書評とか追悼の文とか、感銘を受けた物事を紹介する文が書けなくなってきた。 というより、書きたくなくなってきた。 敢えて自分が書かなくても、このNote始め、世の中多くの人が的確で優れた書評を書いていらっしゃる。 自分は本当にただの印象とか、うろ覚えの記憶を辿って書くから、後から読んで違っていると思うことも多くなった。それだったら、アマゾンのレビューでいいのかもしれない。 そうなると、Noteってなんだろうと思ってしまうのだが、ブログって何?

          11月18日(日記)日記について考えてしまい手が止まる