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ふと思った日記

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ふと思ったことを綴った日記です。ほとんど「むにゃむにゃ」という独り言です。へぼ俳句もついてます。
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記事一覧

RPGゲームはもういいや

「暇な時に、何をしているか?」 実はそれがその人の最大の趣味だという話を聞いたことがある。 テレビをぼーっと見る。YouTubeを見る。寝ている。走っている等々。 人は、正面切って「趣味は何?」と聞かれると、面接に限らず、つい身構えたり、どう思われだろうかと考えたりしてから、答えがちになるのが普通かもしれない。 「スポーツ観戦」、「映画鑑賞」、「読書」。 それが、本当の心からの趣味ならばいいが、冒頭の原理からすると、果たしてそれは、その人の趣味なのか? 実のところ、人

なかなかに

一月中旬というのは、お正月も終わり、さらに寒くなっていき、もう少し経つと節分。 まるで、季節のブラックホールのように、イベント的、ぽっかり開いた時期かもしれない。 毎日の、震災とかのニュースを見ると、死は以外に近いところにあるのを感じることが多くなった。 そして、もっと言えば、死とは本当に外部にあるのだろうかと考えてしまう。 「死」とは、外部から、物理的にやってきて、強引に肉体を引き裂き、バラバラにすりつぶして、滅してしまうこと言うのだろうか。 本当の死は、外部ではなく

そろそろ隠棲・・・徒然に書こうかな

とにかく寒い。 しかし、この寒さがいいのかもしれない。 おもむろに、徒然草を再読する。 ときどき、無性に読み返したくなる。かつて小林秀雄が、「徒然草」はモンテーニュの「エセー」のダイジェスト版(ちょっと言い方が違うかも)と評したが、なるほど、似ているところがある。 つまり、「世捨て人」からの視点。 最近、○○したい。何をやろう、これをやろうと思うのだが、一日たつともう面倒くさいと気が変わることが多くなった。 こんなこと、わざわざ言葉にする必要がないのは百も承知だが、何と

11月18日(日記)日記について考えてしまい手が止まる

どんよりとした曇り だんたん、書評とか追悼の文とか、感銘を受けた物事を紹介する文が書けなくなってきた。 というより、書きたくなくなってきた。 敢えて自分が書かなくても、このNote始め、世の中多くの人が的確で優れた書評を書いていらっしゃる。 自分は本当にただの印象とか、うろ覚えの記憶を辿って書くから、後から読んで違っていると思うことも多くなった。それだったら、アマゾンのレビューでいいのかもしれない。 そうなると、Noteってなんだろうと思ってしまうのだが、ブログって何?

11月12日(日記)戦争を学ぶ

急に寒くなった。 こんなに急激だと、身体が付いていかない。 普段、スポーツ中継以外には、テレビはめったに見ないのだが、たまたま付けたとき、新たに始まった戦争関連のニュースをやっていた。 「平和」、「少しでも早く訪れて欲しい平和」、「平和の希求」。司会者を始めコメンテーター全員が異口同音に同じ事を言っていた。 しかし、そんなことは誰でもわかっていることでもある。平和が素晴らしいことを。命が暴力で奪われることがひどいことも。 平和の姿というのは、天国や極楽と聞いて思い浮か

10月29日(日記)水墨画をやろうかな

晴れ 昼下がり、秋の日差しが作るベランダの観葉植物の影を眺めていたら、急に情趣が湧いてきて、何だか無性に画(絵)を書きたくなった。 しかし、自分は何しろ画が下手で、テレビで「絵心ない芸人」などをやっているが、家族からも、もし番組があれば「絵心ない小説家」として、充分出られる資格があると言われてきた。 真剣に描いたのに、出来上がりを見せると必ず笑われてしまう。今でも、犬や馬を書いてみろと言われたら、みんな同じロボットのような絵になってしまうだろう。 そんな自分でも、絵画を

10月22日(日記)いつもように瞑想して

朝起きるとかなり寒い。 秋を感じたのか、夜明け前に突然物寂しくなって(時々ある)、こういう時に手に取る川端康成の「美しい日本の私」(ちなみに「美しい国へ」ではありません)を読み返す。 道元、西行、芭蕉、一休、明恵、良寛、ここで挙げられた日本の美を言葉で体現した人たちは、考えてみればほとんどが禅僧だ。 普段から、何事も短い言葉で簡単に言ってしまうのは、乱暴な行為だと思いながらも、美しさとははかなさ、あわれだとするならば、極言すれば「無いこと」になってしまう。則天去私、つまり私

9月24日(日記)俳句を忘れて

最近、へぼ俳句(自由律俳句を含む)をめっきり作っていない。 というか、作れていない。 やはり、気分がハイテンション過ぎても、ローテション過ぎても、俳句をひねるって難しくなるかもしれない。 自分としては、心は平穏だけど、どどこかセンチで、感傷的な気分。そんなとき、外界の景色や、心象風景にふと心が動いたとき、俳句を作ろうかなというか、作りたくなる。 だから、ずっと部屋や宿などに籠もっていたり、一つのことに悩んでいると、俳句って出てこない。松尾芭蕉や与謝蕪村が旅をし続けたのは、

ようやく英語翻訳化「救世主にはなれなくて」

いざ始めた英語翻訳化ですが、思っていた以上に大変でした。 毎日、ひたすら辞書とにらめっこ。ついには、夢の中にまで英語をしゃべりまくる外国人に言い寄られるシーンが出てくる始末。 こうして、息が絶え絶えになりながら、何とか電子書籍化にこぎつけることができました。 その分、Noteの更新がかなり滞りましたが・・・。 昨年6月のNote開始、作品の電子書籍化(2冊)、そして英語翻訳化と、当初抱いていた目標は何とか達成できた気がします。 この調子で、書きためた作品を順次公開して

5月22日(日記)資格本を捨て続けてきた

晴れ いい天気 自分が資格を取ろうと思うとき だいたい、小説に行き詰まっているときと、今の仕事を辞めたいなと思ったときである。 自分の能力を試したい、会社を辞めたい、誰かに見下されたとき、人生にリベンジしたい、人が資格を取る理由はそれぞれだが、誰しも長い人生、司法試験とか、会計士とか、一瞬でも高難度の試験を受けようかなという思いが、頭がよぎったことはあると思う。 私の場合、取りたい資格のテキストを本屋に行って買ってくるまではいい(それがわくわくして楽しい)。 合格まで

5月11日(日記)赤ちゃんのように

晴れ 今年の五月は、ちょっと違うぞといった感じのいい天気。 久しぶりに、noteで記事を連続して上げているせいか、何となくテンションがあがってくる。 その昔、まだSNSなんてものがなかった時代。 当時、たまたま講演を聴いた有名な放送作家が、将来、何か自己表現をやりたいと思っている人は、まずは、「何でもいいから発言し続けること」と言っていたのを思い出す。 その人は、中学生の頃から、深夜ラジオのはがき投稿を始め、漫画雑誌の読者コーナー、新聞の意見、そして、公共機関のご意見

5月7日(日記)ずっとサザエさん症候群

雨 始まりの方は天気が良かったので、結果的にいいGWになった気がする(東海三県限定)。 今回、メンタルの調子を崩してわかったことの一つに、振り返ってみれば、小学校の時からずっとサザエさん症候群だったということ。 ちなみに、サザエさん症候群とは、 「日曜の夕方から深夜、翌日(月曜)からまた学校や会社に行かなければならない」という現実に直面して憂鬱になること。 それがひどいと、うつ病や、適応障害になりかねない。 らしい 最近、「行きたくないところには、行かなければいい」、

4月30日(日記)新たな五大聖人

4月の最終日 朝から雨 雨もまたいい。 まだ回復途上にあるせいか、フィクションの言葉が上手く頭に入ってこないので、読みかけの村上春樹さんの新作を中断して、道元の正法眼蔵を読みふける(これもフィクションと言えばフィクションだけれど)。 この長い書物を通読するのはもう何回目だろう。 苦しみにまみれる人間という生き物は、いったい、どうやったら悟れるのか(正法)を、時には修行方法、時には公案を使って、延々と説明されるのだが、やはり何度読んでも難しい。 ヴィットゲンシュタインを

4月25日(日記)俳句をひねれば

曇 気持ちがへたって、なかなか思考がうまく働かない中、なんとかnoteを再開してみて、いいこともたくさんあった。 その一つに、 俳句好きのフォロワーの方から、ライラック杯というnote上の俳句大会に誘われたこと。 自分としては、へぼ俳句(へぼ自由律俳句)のレベルなので、とても俳句大会なんてと思っていたが、いざ参加してみると、その俳句大会に参加している人たちから、俳句の感想とともに、ネガティブだった記事への励ましの言葉をたくさんいただいた。 それが、とてもうれしかった。