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「文学」のために

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「文学の可能性」を探っていくマガジンです。YouTube、文学フリマ、句会、映像化、Tik Tok、メンバーシップ等々、文学のために何ができるか考えていきたいと思っています。不定… もっと読む
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記事一覧

「虹の予報官」英語版 出版

ようやく、ようやく英語版が出版できました。 果たして外国人に受けるのか? マーロン(本作の主人公)は、世界に羽ばたけるのか? それはともかく、英語翻訳というのは、手間暇時間がかかるのは間違いない。 かつて岡倉天心が「茶の本」を英語で出した時、どんな英語圏に住む人にでもわかるような語句選びに苦心したという。 そして、何よりも自作の英語版出版にこだわってきたいのは、故坂本龍一さんと天童荒太さんとの対談集の中の言葉に影響されたことがかなり大きい。 「それにしても、日本の作家

文学に賭けるって、なかなか言えない

覚悟って 意外にできない。そう簡単なものじゃない。 「覚悟を決める」、「これに殉じる」、「結果に従う」 言うなれば、自分が決めたことに責任を持つってことだけど。 どうしても、歳を重ねると、結果を想定して、あれこれ安全策を講じたり、 逃げ道を造っておいたりと、決断に対する、潔さが消えていく。 どちらかというと、うじうじ悩み、あれこれ意見を聞き、その上で覚悟っぽいことでごまかす術を覚えていく。 まあ、それが歳を重ねるとい意味かもしれない。若気の至り、無謀をしないこと。 そ

やさしい詩が書けたなら

文章には正解がない。 散文だと、よけいにそうかもしれない。 これまで何回も読み返している、萩原朔太郎の「詩と原理」によると、 詩は音楽に似て主観的なもの、散文(小説)は絵画に似て客観的なもの。 とある。 ただし、どの文章もどちらかにきちんと分けられるものではなく、どちらか寄りになる。 自分は死ぬほど小説を書いておきながら、それほど文章が上手くないと思っている。自己評価、中の下ぐらいのところかな。 もし、上のレベルだったら、とっくにベストセラー作家になっていたことだろう

何か子供達のための“場“を作りたい

昔は、新年の誓いなどを立てたものだけど、 元旦から震災などあって、のんきに自分ひとりの抱負とか、夢とか考えるのが何だか、気が引けるというか、何かちっちゃいことのように、急に思ってしまった。 もちろん、本業の執筆も大切だけれど、そしてこの先、可能な限り執筆だけの生活を送りたいけれど、それだけではいけないような気がしてきた。 もちろん、小説を書くことは個人的な達成感があることだし、小説を通して歴史の中に、「有意義な意識」を遺すという夏目漱石的な意味で社会的意義もある。 当時

年末、三昧の中で本当の友人を見出す

Noteの更新が滞っていた、ほぼ一ヶ月。 別に、誰かから頼まれたわけでも、お金を取って有料記事を書いているわけでもなく、つれづれに創作にまつわる記事を書いてきただけなのだから、それほど切実に書かなくては思う必要はないのだが、やはり更新の間が空くと、どこか心がざわめき立ってきて、何か書かなくてはという思いが起こってくる。 気がつくと、一ヶ月近く更新していない。かつては、苦行のように毎日記事を上げていたときのことが嘘のよう。 では、この期間何をしていたのか? 別に知りたくも

遙かすぎて見えない、大江健三郎さんが逝く

大江健三郎さんが亡くなりました(すみません、亡くなってからだいぶ時間がたっています。アップしたつもりが下書きのまま忘れていました)。 これまで、本屋さんで目にするような作家の本は、食わず嫌いでも最低限一冊は読むようにしているのですが、実は、大江健三郎さんだけは、一冊も読んでいません(エッセイは別)。 最初に、高校生の時に読んだのですが(題名は思い出せない)、文章が難しすぎて(ファンはその文体こそがいいと言いますが)、見事に挫折しました。 小林秀雄も「文章というものには稚

文学に疲れたとき

哲学者池田晶子さんが言っていたように、 サルと違う人間の本質は、悩むことでない、「考える」ことである。 なぜ、自分が存在するのか、なぜこの意識があるのか、考えに考えて、自らを見いだし、自らを超克することだ。 その試みは、哲学も文学も似たような目的を持つのかもしれない。 文学を娯楽にどどめるだけでなく、崇高なものになり得るとするならば、人類が自らを見いだし、超克するための「物語」、言うなれば新たなる神話を作り得るからかもしれない。 聖書も、コーランも、仏教典も、ある意味一

モブキャラが一方的にライバル視する

よく漫画や映画の中で、主人公からはまったく相手にもされていないのに、一方的にライバル視するモブキャラが出てきますが、そんな児童文学世界(絵本、漫画も含む)においては、私がモブキャラで、主人公と言えば西野亮廣さんかもしれません。 ほんの少し前、児童文学の未来について文章を書いたのですが、この狭い世界の突破口を開いて(半ば強引に)、ひとつの可能性を見せてくれた第一人者が彼だと思っています。 ご存じのとおり「エントツ町のプペル」という絵本から始まって、映画化、ブロードウェイでの

失われた「夏目漱石賞」を復活させて欲しい

芥川賞、三島由紀賞、谷崎潤一郎賞と、偉大なる文豪を冠した賞が数々ありますが、その中でひとり肝心な人を忘れている気がします。 それは、つまり夏目漱石先生のことです。夏目漱石賞、ありそうでない賞です。 しかし、いろいろ調べてみるとかつては存在したそうです。1946年に桜菊書房というところが、夏目漱石没後三十周年を記念して、賞を作りました。 その栄えある第一回が渡辺伍郎「ノバルサの果樹園」という小説でした(残念ながら消えてしまいましたが)。 この夏目漱石賞。なぜか第一回限り

仏教経典とはガンダムかもしれない

最近、仏教経典を読んでいる。歎異抄や、正法眼蔵、金剛法華経。 仏教徒ではないが、仏教思想(敢えて宗教とは言いません)にはずっと興味がある。 経典とは、簡単に言ってしまえば、釈尊の教えを書き残したものだが、それは長い年月を経るなかで、写経を通じて、多くの人たちに広まるにつれて、新しい解釈が生まれ、ときには別バージョンが生まれ、道教やヒンズー教なのどの、他の思想すら取り込まれていく。 そして、その中で、釈尊の教えに忠実なものかどうかや、正しいか正しくないかは別として、矛盾箇所

少しばかりの方向転換

とにかく、自作の小説を読んでもらいたい、そのためにはまずは自分を知ってもらおう、仲村比呂に興味をもってもらおうと、半年限定ぐらいの気持ちでNoteを始めたのですが、やっていくうちにいろいろ楽しい、続けようかなと思うのと同時に、しだいに、書くのが難しい、大変だなあとも思うようになりました。 単純に、ネタが尽きたということもありますが、村上春樹さんも著作の中で、エッセーを書き過ぎると、小説が書けなくなると、どこかで書かれていたとおり、自分の中の気持ちの中の「溜め」のようなものが

小説家はYouTuberになれるのか。

最近、さまざまな分野の方が、YouTubeに参加してきています。お笑い芸人、ミュージシャン、伝統芸能をやっている人、科学者や、メイクのプロ、料理人。 しかし、ほとんど見かけないのが、画家や、小説家かもしれません。 たぶん、「小説家は作品だけで勝負すればいいんだ」という信念が強そうな人が多そうですが、そもそも映像とは親和性が低い気がします。 先日、高橋源一郎さんが、YouTubeで、公園のベンチに座り、自作の朗読をする動画がありました。私はもともとファンだったのもあります

9月15日(日記)楽しい場を作る

晴れ 少し曇 noteを始めて3ヶ月 振り返ると、いつの間にか、かなり肩に力が入っていた気がする。 当初は、自分の児童文学作品を発表(知ってもらう)場が欲しくて始めただけなのだが、いつのまにか「フォロワー数」とか、「スキ」の数、それにまつわる電子書籍の売り上げに気持ちが行きがちになっていた。 noteで「儲け」を考えるようになっていた。 もちろん、有料記事を始め、メンバーシップ制度など、note自体がクリエーターとしての活動場なので、収益を考えてしまうのは当然のことだ

9月14日(日記)電子書籍版売り上げ

晴れ アマゾンさんからメールが来たので、開いてみたらKindle出版の売り上げ報告。 いい結果なら、どこかの情報商材屋さんのように「ジャジャーン」とパソコン画面を表示させたいところですが、お見せするのすらお恥ずかしい結果。 まあ、こんなものでしょう。言い訳はしません。どこかに寄付しようっと。 あくまで終活の一環で始めたことなので、未来の誰かが読んでくれれば。 ただ、そう思ってはいても欲が出るのが恐ろしい。 呆然とし 遠くに聞こえる 虫の声