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文学に疲れたとき

哲学者池田晶子さんが言っていたように、
サルと違う人間の本質は、悩むことでない、「考える」ことである。

なぜ、自分が存在するのか、なぜこの意識があるのか、考えに考えて、自らを見いだし、自らを超克することだ。
その試みは、哲学も文学も似たような目的を持つのかもしれない。

文学を娯楽にどどめるだけでなく、崇高なものになり得るとするならば、人類が自らを見いだし、超克するための「物語」、言うなれば新たなる神話を作り得るからかもしれない。

聖書も、コーランも、仏教典も、ある意味一つの、仮説であり、「物語」でもある。文学における真のベストセラー作品は、いうまでもなく聖書である。

そして、哲学とは一つの個人的な仮説を立ち上げる試みだとすると、さらにその仮説を人にもわかりやすく、理解させる最適な手段が文学だと思う。

ちょっと大げさになるが、つまり、文学者とは、哲学者、小説家の前に、「考える人」であり、それは人類を真に目覚めさせ、より精神性を高めるための革命家であり、宗教家でもある。

だから、自ずと考える人は、哲学者となり、やがては不思議に小説に導かれていく。
哲学者の池田晶子さんに限らず、お笑い芸人や、作詞家、エッセイストが、いつしか小説を書こうと思ったり、実際に書いたりするように。

それは、年齢や、性別、ましてやお金儲けや、地位、名誉とは関係がない。

「言葉による精神の革命」

この世にもの申したい人、何かを叫びたくてうずずしている人、まだ何かできると思っている人。何か伝えられることがあると思っている人。

そういった人で、もし生きることに余裕ができ、なおかつお金に不自由がなくなればなおさら、ぜひ、この精神の革命に積極的に参与して欲しいと思う(夏目漱石も似たようにことを講演で言っていた)。

なぜなら、それ以外に人類ができる、より進化(滅びない)できる唯一の手段のような気がするので。

これは、より大きな意志に殉じる、人類の大いなる使命なのかもしれない。そして、その生み出した神話が、たとえ世の人たちに評価されなくても、馬鹿にされても、儲けられなくても、神にでも捧げるためでも、千年後の誰かが読んでくれるのを夢見ながら書くためでもいい。何でも良いから「考え続けた」ことを形にして残して欲しい。

といったことが、メモアプリのEvernoteの固定ページに貼り付けてあって、つい、やる気がないときや、投げやりになったとき、ふと弱気になったときに読み返して自らを鼓舞するのでした。

ではまた




夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com