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「らんまん」は、新しい朝ドラだったのか? 最終回に寄せて

9月29日、朝ドラ「らんまん」が最終回を迎えました。

4月から約6カ月間、欠かさず視聴してnoteに感想をアップするという日々を送りました(すべての回の感想は書けませんでしたが)。
そんな日々を振り返り、あらためて「らんまん」とはどんな朝ドラだったのかを考察してみたいと思います。

(…と、大それたテーマを掲げてみましたが、あくまでも個人的な感想です)


1.落ち着いて視聴できる展開

率直な感想として、「らんまん」は、落ち着いた気持ちで、ゆったりと視聴できる朝ドラだったな…と思います。
それ以前の朝ドラのように、「#俺たちの菅波」や「#●●反省会」のようなタグで盛り上がっているという感じはなく…
史実を元にしているということもあり、急展開やどんでん返し、奇をてらった設定や奇抜なキャラクターといった要素も少なく…
むしろ史実があるため、ストーリーの大筋は予想の範囲内であることが多かったのですが、そのためか安心して視聴することができました。
その分、キャラクターの魅力や俳優さんたちの演技、お笑い芸人さんの登場などの小ネタ(?)、植物のうんちくなど、細部をじっくりと味わうことができ、毎回充実した15分間を過ごすことができたと思います。

2.植物が好きになってしまう仕掛け

「らんまん」と切っても切り離せない要素の一つだった「植物」。植物には時期があるので、「らんまん」をドラマ化する上で苦労した部分だったのではないか? と思っています。
使用されていた植物のレプリカはとても精巧につくられていたということで、見ていてレプリカだとはわかるものの、違和感は感じませんでした。また、本物の植物も多く取り入れられていました。

牧野博士の発見した植物はマイナーだったり、生育地が限られていたりするものも多かったようですが、ドラマの中で丁寧に説明されていたおかげで、どのような植物かを無理なく理解することができました。

また、ドクダミやムラサキカタバミなど、身近な植物も取り扱われていました。実際の花期に合わせて紹介されたものも多く、「今道端で見かけるあの植物に、こんな性質があるんだ…」と、実生活に結び付けることができた点も素晴らしかったと思います。
万太郎が望んでいた「日本中の人が植物に親しむ」という状況を、このドラマが実現してくれたのではないでしょうか。
(追記:こちらに、植物考証に関する公式の記事が上がっていました。本当に苦労して作成されていたのですね…)

3.史実とのバランス

牧野富太郎氏をモデルにした朝ドラを! という運動は以前からあったようです。しかしなかなか実現しなかったのは、牧野博士のキャラクターが独特だったからではないか…と思います(違ったらすみません)。
自伝などで明らかにされているように、実際の牧野博士の人生は波乱万丈で、借金問題など、美談にはしにくい部分もあったのではないでしょうか。

主人公の槙野万太郎は、牧野富太郎氏をモデルにしているものの、あくまでもドラマオリジナルのキャラクター。綾や竹雄もモデルはいるものの、設定はオリジナル。お金や家庭の問題について、ややマイルドに描かれていたことで、万太郎を魅力的な人物として受け入れることができました(実際の牧野博士も、とても魅力的な方だったのだろうとは思います)。
万太郎を演じた神木隆之介さんは「あさイチ」で、万太郎が嫌われないように、演技を工夫していたと話されていました。

一方で、史実から完全に逸脱しないように、ヤマトグサ命名のための研究や石版印刷の習得など、ポイントとなるエピソードは、創作を織り交ぜながらも細部が丁寧に作り込まれていて見ごたえがあり、史実とフィクションのバランスが絶妙だったと思います。

4.「万太郎」のキャラクター造形

しかし、万太郎を完全な善人としては描かなかったことも、また良かったと思いました。
わたしが「らんまん」で一番泣いた回は、幼少期、名教館で蘭光先生に勉学の楽しさを教えてもらった回でした。万太郎が「ありのまま」で生きていける道が見えた、そのことがうれしくて仕方がありませんでした。

多様性が尊重される時代になり、単純な成功物語だけではなく、色々な個性・特性を持った人々それぞれの人生にスポットが当たるようになった今だからこそ、この朝ドラが実現したのではないか…と思います。

万太郎はドラマの中で、みんなから愛されていました。タキや綾、竹雄、波多野、藤丸、長屋の人々、そして寿恵子と子どもたち。

万太郎は、彼らに何を与えたでしょうか? 生活や学問の面で、少なからず貢献した部分はあったと思いますが、どちらかといえば周りの人たちは、振り回されていた印象が強いです。
けれど万太郎は、周りの人たちをしっかりと見ていました。綾の酒造りへの想いや竹雄の優しさ、波多野と藤丸がどんな学問をしたいか、寿恵子の「八犬伝」への愛。そして周囲も、万太郎の植物にかける思いの強さに心を動かされ、支えたいと動いてくれました。

万太郎と周囲の人たちは、お互い理解しあうことで結びついていたと考えられます。

5.意味なきものを愛する

ストーリーとして「命の大切さ」や「環境保全」などのテーマが前面に押し出されていた回もありましたし、最終的に「図鑑の完成」というゴールが設定されてはいましたが、万太郎自身は何か一つの価値観に縛られていたのではなく、常に、ただ「植物が好き」という気持ちのままに生きていました

万太郎はどんなときも、今目の前にあるものを見ていました。ただひたすら「おまん、誰じゃ?」と問いかけ続けていた。先入観を持つことなく、世界と向き合っていたのだと思います。

良いか悪いか、敵か味方か、損か得か、重要か不要か…。意味を与えられると、私たちは何となく納得してしまいます。本来は人も物事も多様で、一つ一つ違うはずなのですが、それでは何となく落ち着かない…。

意味に縛られない世界には、マジョリティもマイノリティもないのでしょう。一つ一つが全部違うからです。そのような世界で人々を結びつけるのは、違いを認め合い、理解しあうことなのかもしれません。
理解することは、すべて受け入れるとか、許すということとは違うと思います。許せないことも含めて、まずは真っ白な気持ちで向き合うことから、何かが始まるのではないでしょうか。

そんな世界に住んでいるのが万太郎という人だったのではないか…と感じずにはいられませんでした。

「雑草という名の草はない」という牧野博士の言葉にも、同じものを感じます。
「雑草」と呼ぶことは、意味を与える、つまりバイアスがかかった状態で物事を見ることであり、先入観を取っ払って目の前の草をしっかり観察し、知ろうとする姿勢が、真実を明らかにする力になる… という意味が込められた言葉ではないでしょうか(ちょっと飛躍しすぎでしょうか??)。

万太郎が、長屋の住人の倉木に「雑草という草はない。どんな草にも生きる意味がある」と伝えるシーンがありましたが、万太郎自身は、理屈抜きでただ命いっぱい生きる草たちを心から愛おしいと思ったからこそ、そのような言葉を口にしたのではないか…と思えてなりません。

そのような意味で、「らんまん」は、明治から昭和という過去の時代を描いた作品でありながら、ある意味、これまでの朝ドラの価値観とは趣を異にする、新しい時代の朝ドラであったといえるかもしれません…。

だいぶ偏った考察になってしまったかもしれませんが…、6カ月間たっぷり楽しませてくれた「らんまん」に感謝です。

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